観音山(正法寺、四国八十八巡拝路)〜都幾山


- GPS
- 05:54
- 距離
- 6.8km
- 登り
- 396m
- 下り
- 398m
コースタイム
天候 | 晴れ、真夏の猛暑 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2025年07月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
正法寺の裏手から始まる「四国霊場八十八ヶ所巡拝路」の 登り始めから、すさまじく生い茂った草木で、道筋がほぼ見えず、それらしきは道幅が狭く、片方は急峻な斜面で滑落リスクが続く。ヤブ漕ぎしながらのジグザグ登り。しかも、蜘蛛の巣だらけ。顔に頻繁に絡みつき、気持ちが悪い。石碑を目印に道筋を選んだ。ルート喪失リスク、滑落リスク、蜘蛛の巣リスクに要注意。半分登ると岩場が現れ、やっと道筋が見えてきた。下山方向は、道迷いリスクがグンと高くなる。超低山だが、下の方が斜度がきつく、道が見えないので、下りられる自信がない。恐ろしいことだ。登りもやばかったが、たぶん下山方向は遭難リスクが高い。 |
その他周辺情報 | やすらぎの里(うどん)とか、ジビエの店とか、とき庵(そば)とか、建具会館など。 |
写真
感想
♠正法寺(ときがわ町)四国霊場八十八ヶ所巡拝路
四国八十八ヶ所は、四国にある空海(弘法大師)ゆかりの88か所の仏教寺院の総称で、四国霊場の最も代表的な札所。江戸時代頃から、これを模して全国各地に大小様々な八十八箇所の巡礼地が作られた。たとえば埼玉県などに,「武蔵国新四国八十八ヶ所霊場」が点在している。埼玉県には他にいくつかか、八十八ヶ所霊場が知られている。
♠四国霊場巡拝碑略記(正法寺裏の弘法大師像の小堂の説明文を転記)
明治三十三年(一八九七)、当山三十三世宗晋願主、発起人当所大島庄三郎、大島勝五郎、峰岸茂三郎、内田國吉、内田喜その五名、更に賛助者一二一名により造立されたものである。この山は観音山とし呼ばれる険しい岩山であるが、八十八の碑は当山の貴重な遺産である。四月には実生(みしょう)の三つ葉つつじが全山を覆ってくれる。碑は多くの方々の巡拝をお待ちしている。合掌
当山三十五世隆元誌
♠正法寺と観音山の霊場巡拝路
埼玉県ときがわ町には、西平地区の正法寺に、四国霊場八十八ヶ所の石碑が立ち並ぶ観音山(標高約250m)がある。入口は、正法寺本堂の西側裏にあり、正法寺本堂の裏側を東に進むと、弘法大師像があり、そこから立ち並ぶ石碑が、観音山の頂上に至るつづら折りの山道に、ぽつりぽつりと建てられている。かなりの急斜面にジグザグに作られた山道は、上の岩場が出てくるまでは、狭く道筋が不明瞭。
歴史については、明確ではない。正法寺自体は、八百年前から臨済宗であるが、それ以前は真言宗であったとされ、その創建は相当に古いが、八十八ヶ所の石碑が立てられたのは、江戸時代からであり、それほど古くはない。恐らく当時は、つづら折りの山道は、狭いながらも整備がされていたのだろうが、100年、200年という経過過程で、草木は伸び茂り小さな崩落などもあり、さらにコロナ騒動などで人の流れが止まってからは、この山道は荒れてどんどん歩くことが難しくなったようだ。
私は、2024年1月8日、今回と同じ駐車場から、堂平山登頂を目指して登ったが、標高差は1000m以下だが、往復で17キロ弱もあり、長い。こんな長丁場を、私の老体はあるけるか、疑問だったが、案の定、真冬の冷たい風にも負けて、堂平山は断念した。
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-6356320.html
それから少しした2024年4月10日には、観音山の巡拝路を登り、その記録をヤマレコにアップした。
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-6638493.html
そのときに、一度このルートの全容を、ビデオで撮影して公開したいと思ってきた。が、なかなかそのチャンスがなかった。が、猛暑の7月、空が毎日青く美しく、急に堂平山にもう一度登ってみたくなった。が、ヤマレコで計画すると、やはり往復道程が17キロ近くもある。不安だった。
が、どうせ行くなら、同時に観音山の巡拝路のビデオ撮りもしてこようと、目標を2つにした。生憎ヤマレコの山行計画では、観音山のルートが規定されていない。
♠観音山(八十八ヶ所巡拝路)ルートは、大荒
1年少し前に登ったときも、荒れた山道で道筋は怪しかった。いくつか迷った記憶がある。が、今回、猛暑の真夏の山道は、生い茂った草木で、すぐに道筋が見えなくなった。右手にiPhoneでビデオ撮影をしたが、左のストックで草をかき分け、どこがルートなのかを探しながら進んだ。いわゆるヤブ漕ぎ状態。そのため、右手のビデオは大きく搖れて、いったいどこをどう撮っているのか、分りにくい映像になってしまった。アングルを構えても、道筋がわからないので似たような結果だろう。
ときどき、八十八ヶ所の何番目かの石碑が見つかった。ほっとする。ぽつり、ぽつりと出てくる石碑がルートの目印となる。しばしば、右か左か、あるいは上か? 迷うことは何度も。ヤブ漕ぎの途中になると、いったいどう登ってきたのか、まったく分からなくなった。しかも、草木で覆われているが、一方はかなり急峻な斜面。バランスをくずすと滑落する。道の状態も、まったくよくない。細く、斜めっていたり、その先は崖であったり、上に向かうルートがわからず、右往左往も何度となく。
♠ヤブ漕ぎ、蜘蛛の巣、虫大群と猛暑汗
この迷走ルートは、ヤブ漕ぎの問題だけでなく、無数に張りめぐらされた蜘蛛の巣も歩行を妨げた。顔にべったりと気持ちの悪い細い糸が粘りつく。気持ちが悪い。必死に払うが、蜘蛛の巣はなかなか離れない。するとまた蜘蛛の巣……。この山道を、だれも歩いていないからなのだろう。気持ちが萎える。真夏の暑さに大量の汗も出た。どろどろの汗の臭いに、蚊だかブヨだかアブだかが、無数に顔面の周辺に群れてくる。
♠八十八ヶ所の終点、観音山頂上
観音山の標高は約250m、正法寺からは約100mほどの高低差。巡拝路ルートは、前半は草木で覆われた道筋が見えない状態だったが、真ん中あたりに至ると、やっと岩場が見えてきて、道筋が見えてきた。同時に、石碑の大半がここから上に点在していた。
ルートはいくつか分け道があるようだ。石碑が分れて立っているのだろう。山の頂上近くには、巨岩が立ち上がっていて壮観だ。ぐるりと巻いて巨岩の上に登ると、そこもに石碑がいくつか。実際の頂上は、もう少し先の巨岩。そこに、「金比刀羅大権現」と彫られた細長い石碑が突き出ている。
見あげると、大空が青く騒がしく眩しく輝いていた。
ここまで撮影したビデオ映像を、YouTubeにアップした。アングルが定まらない搖れ搖れの映像で分りにくいかもしれない。見る価値は薄いだろう。ご寛容くだされ。
♠空調服(チョッキ)でも猛暑登山には効果半減
観音山をあとにして、霊山院に至る山道を辿った。急ではなく、整えられたルートである。が、私は観音山のヤブ漕ぎと蜘蛛の巣で、大量の疲労を被った。肉体だけでなく、真理的な疲労も重なっている。
実は、猛暑の登山を敢行したのは、空気で暑さを吹き飛ばすチョッキを入手したからである。これを着れば、猛暑の汗の暑さを軽減できるはず。であれば、猛暑でも登山を快適にできるだろう……と考えた。ところが、実際試してみたら、暑さを凌ぐことはできなかった。確かに立ち止まると、涼しさを感じる。が、空調服を登山で使うには、いくつか問題が見つかった。
空調服は、上半身の全体に空気が動いて廃熱してくれて100%の効果となる。登山では、思いリュックを背負うが、リュックは背中全体を圧迫するので、背中には空調服の空気はまわらない。肩ベルトも空調服の空気の流れを止めてします。つまり、リュックを背負うと、空調服の冷却効果は半減してしまう。さらに、私の今回のケースでは、大量の汗が空調服の繊維にも染みだし、内側で流れる風で乾かすことができなかった。暑さと汗が、空調服の能力を越えていたのだろう。
確かに、立ち止まってリュックをぬげば、上半身は扇風機の風を浴びているように涼しい。空調服の効果は確かにある。
私が何度か試したが、300グラムもある思いバッテリーで消費電力はわずかだった。おそらく、8時間くらいはもちそうだ。
♠無理ができない高齢の老体(マグネシウム+芍薬甘草湯)
私の老体は、7月初旬にチャレンジした、往復20キロ越えの雲取山は、七つ石小屋までしか持たなかった。そこでUターンである。今回の堂平山も、ヤマレコ計画では十数キロの長丁場で、はたして歩けるか不安だったが、今回は観音山で疲れ果て、霊山院に至る手前の木の切り株で、20分ほど座り込んで休むほど。そこでまた、堂平山は断念し、都幾山を次の目標に変更した。
老体には猛暑に勝てなかった。雲取山断念は、大腿四頭筋の内側の筋肉が、左右ともに強烈に攣るようになったからなので、今回は、マグネシウムや芍薬甘草湯や経口保水液を準備した。攣るような筋疲労はなかったが、呼吸がうまくできない問題もあり、とにかく暑くて苦しくて、堂平山を断念した。が、それは早朝から食物をまったく摂っていなかったからかもしれない。糖切れ、エネルギー切れの症状だった。
体力を持続可能な状態でコントロールする難しさを痛感している。若ければ、すぐに回復できるが、高齢者の体は、充分な管理が必要なのだろう。無理ができなくなったのだ。
♠ときがわ町の奥深い歴史資産(正法寺と四国霊場巡拝路)
ときがわ町というところは、飛鳥や奈良時代からの伝承がある、文化と行政の拠点として古い歴史の痕跡がたくさんある不思議なエリアである。
八十八ヶ所巡拝路が始まる正法寺も、現在は臨済宗だが、それは鎌倉時代からで、その前は天台宗、さらにその前は真言宗であったらしい。かつての本堂の焼失などで、資料が不足していることは残念だが、現在の閑栖(かんせい)和尚(92歳)が、周辺の文献等の記録を基に、正法寺に関する重要な歴史的資料を作成し、記録を保存されておられる。
その一つに、八十八ヶ所巡拝路に立てられた石碑、一つひとつを、丹念に調べ、そこに彫られた文字を書き留めた、貴重な資料もある。それは、ときがわ町の出版物になっているようだが、その原本は、正法寺に保管されていて、その一部を見せていただいた。
なお、正法寺の現住職と、閑栖和尚が世のために語った禅に基づく教えをまとめた本が、出版されていて、アマゾンで購入できる。
『寺が動く――この世もあの世も救う、ときがわ正法寺和尚の禅智学』
語り手:児玉隆元閑栖和尚:児玉敦彦住職
著者:西田みどり
知玄舎POD書籍: ISBN978-4-910056-67-8(電子版もあり)
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