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Yamareco

記録ID: 8868895
全員に公開
ハイキング
四国

愛媛県新居浜市 日浦登山口〜銅山越+東平 別子銅山産業遺跡巡り

2025年10月28日(火) [日帰り]
 - 拍手
Machapuchare その他1人
体力度
2
日帰りが可能
GPS
05:39
距離
10.1km
登り
729m
下り
729m
歩くペース
標準
1.11.2
ヤマレコの計画機能「らくルート」の標準コースタイムを「1.0」としたときの倍率です。

コースタイム

日帰り
山行
5:13
休憩
0:24
合計
5:37
距離 10.1km 登り 690m 下り 690m
8:12
1
日浦登山口駐車場
8:13
44
8:57
36
西赤石山&銅山越分岐
9:33
9:35
12
9:47
32
目出度町ルート&木方・東延ルート分岐
10:19
10:21
14
素麺滝
10:35
41
目出度町ルート&木方・東延ルート分岐(2回目)
11:16
9
目出度町鉱山街入口
11:25
11:27
8
11:35
11:46
34
12:20
12:24
13
12:37
12:40
15
12:55
17
目出度町鉱山街入口(2回目)
13:12
36
目出度町ルート&木方・東延ルート分岐(3回目)
13:48
1
13:49
日浦登山口駐車場
史跡見学などを楽しむコース
歩行距離10km、歩行時間5時間15分、歩行数19,200歩、消費カロリー1,400Kcal
天候 晴れ時々曇りたまに強風
過去天気図(気象庁) 2025年10月の天気図
アクセス
利用交通機関:
自家用車
日浦登山口駐車場に自動車を停めました。8台駐車可能で8時頃には3台、14時前には6台ありました。
コース状況/
危険箇所等
 基本は階段状のこともある砂利道や石畳でヤブコギはありません。
 採鉱課長宅跡<写真11>から苔むして崩れかけた石段<写真14>をおっかなびっくり下りました。この石段はおすすめしません。
 西赤石山と銅山越<写真64,65>との分岐に小足谷疏水道(そすいどう)と収銅所跡の案内板があり、前方の道が二手に分かれました。南側の地形図にはない細道は途中で木の枝が絡まったヤブになり歩けなくなりました。
 東延斜坑<写真40>から素麵滝<写真43,44>までの間に道から逸れた箇所があります。小石がゴロゴロした所を東に進んでしまい、円柱状のコンクリートの一本橋を渡ると二筋小滝<写真41>が見えました。東は道がなさそうだったので、渡り返して黒いパイプ沿いに苔むした小石がゴロゴロした所を北東に進みました。三段小滝<写真42>から崩れそうな左の石垣をよじ登ると階段状の砂利道に出合いました。わずかに南東寄りに逸れていたようです。すぐに復帰できましたが、石垣が崩れると危険ですし文化財の破壊になるのでおすすめはしません。復路は明瞭な道を歩きました。
その他周辺情報  日浦登山口駐車場から車で40分程の所に別子銅山東平(とうなる)エリアがあります。車1台分の幅の箇所も多いのですが、幸い、普通車2台、マイントピア別子の東洋のマチュピチュ(東平)バスツアーのバスともに待避スペースで出合いすぐにすれ違えました。歴史資料館や東平マイン工房の休館日は12月1日〜翌2月末は全日、それ以外の月は月曜(祝日は翌日)、開館時間は10〜17時です。どちらも入館は無料です。
01ホテルアルファーワン新居浜の朝食…宿泊したホテルの朝食です。おそらく食べ放題なのでしょうが、小鉢に入ったサラダなど、なんとなく複数は取りにくく感じてこれでやめました。食パン、3cm角に切られたポークソーセージパイ、半熟卵の入ったたまごサラダパイ、少し噛み応えのあるプチフランス、アップルクラウン(アップルパイ)、少ししっとりしたクロワッサンのようなバターギッフェリ、ホットコーヒー、野菜&果実ジュース、写ってはいませんが市販のコーンポタージュスープをいただきました。パンは冷めていますが、おいしかったです。
01ホテルアルファーワン新居浜の朝食…宿泊したホテルの朝食です。おそらく食べ放題なのでしょうが、小鉢に入ったサラダなど、なんとなく複数は取りにくく感じてこれでやめました。食パン、3cm角に切られたポークソーセージパイ、半熟卵の入ったたまごサラダパイ、少し噛み応えのあるプチフランス、アップルクラウン(アップルパイ)、少ししっとりしたクロワッサンのようなバターギッフェリ、ホットコーヒー、野菜&果実ジュース、写ってはいませんが市販のコーンポタージュスープをいただきました。パンは冷めていますが、おいしかったです。
02時雨橋より沓掛山&黒森山…日浦登山口駐車場に向かう途中、別子銅山東平(とうなる)エリア<写真69〜99>への道の分岐にある時雨橋の上より南西方面を望みました。左から沓掛山(くつかけやま)、黒森山南の1,670m峰、黒森山です。動画も撮りました。
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02時雨橋より沓掛山&黒森山…日浦登山口駐車場に向かう途中、別子銅山東平(とうなる)エリア<写真69〜99>への道の分岐にある時雨橋の上より南西方面を望みました。左から沓掛山(くつかけやま)、黒森山南の1,670m峰、黒森山です。動画も撮りました。
03旧別子銅山案内図…天気予報では午前中は風が強そうだったので、とりあえずこの案内図に記載されている範囲を巡り、銅山越<写真64,65>で西赤石山に登るかどうか判断することにしました。
03旧別子銅山案内図…天気予報では午前中は風が強そうだったので、とりあえずこの案内図に記載されている範囲を巡り、銅山越<写真64,65>で西赤石山に登るかどうか判断することにしました。
04日浦登山口…砂利のような小石がゴロゴロしていたり石段状だったりする道がしばらく続きました。
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04日浦登山口…砂利のような小石がゴロゴロしていたり石段状だったりする道がしばらく続きました。
05円通寺小足谷出張所跡墓地…道標に従い小さな橋を渡ってちょっと寄り道。ここからさらに東、保土野(ほどの)にあった円通寺の小足谷出張所の墓地です。銅山関係者の町があったので、麓まで下りなくてすむようにとここに墓地ができたようです。
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05円通寺小足谷出張所跡墓地…道標に従い小さな橋を渡ってちょっと寄り道。ここからさらに東、保土野(ほどの)にあった円通寺の小足谷出張所の墓地です。銅山関係者の町があったので、麓まで下りなくてすむようにとここに墓地ができたようです。
06円通寺小足谷出張所跡無縁仏の卒塔婆…大正8年(1919年)に円通寺が焼失したため寺の機能は南光院に移りました。これは平成2年に別子銅山開坑300年を記念して建てられたものです。銅山関係者の供養は現在も行われています。
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06円通寺小足谷出張所跡無縁仏の卒塔婆…大正8年(1919年)に円通寺が焼失したため寺の機能は南光院に移りました。これは平成2年に別子銅山開坑300年を記念して建てられたものです。銅山関係者の供養は現在も行われています。
07橋の上より小足谷川…橋の上より左に見下ろして動画も撮りました。
07橋の上より小足谷川…橋の上より左に見下ろして動画も撮りました。
08小足谷集落跡…道の右側に当然石垣が現れました。別子銅山では最も新しい集落跡です。ここから石畳になりました。道標に従い階段状の道を歩きながら動画を撮りました。
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08小足谷集落跡…道の右側に当然石垣が現れました。別子銅山では最も新しい集落跡です。ここから石畳になりました。道標に従い階段状の道を歩きながら動画を撮りました。
09小足谷醸造所跡の煙突…明治3年(1870年)から酒の醸造を始めました。周辺は平坦で広く、さらに奥まで行けそうでしたが引き返しました。
09小足谷醸造所跡の煙突…明治3年(1870年)から酒の醸造を始めました。周辺は平坦で広く、さらに奥まで行けそうでしたが引き返しました。
10謎のレンガ遺構…接待館の道標に従い石段を上るとレンガ塀、すぐ東にこれがありました。採鉱課長宅の水くみ場、食料庫といった情報もありましたが、穴が狭く手を入れて中のものが取り出しにくいので、排水用の穴かもしれません。ここから水が流れていることがあるそうですが、今回は確認できませんでした。
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10謎のレンガ遺構…接待館の道標に従い石段を上るとレンガ塀、すぐ東にこれがありました。採鉱課長宅の水くみ場、食料庫といった情報もありましたが、穴が狭く手を入れて中のものが取り出しにくいので、排水用の穴かもしれません。ここから水が流れていることがあるそうですが、今回は確認できませんでした。
11傭人(ようにん)社宅跡(採鉱課長宅跡)…苔むした石段を下りるとここに出ました。周辺には別子銅山の職員が住んでいた社宅が並んでいたようです。隣は醸造課長宅だったそうで、ここは2軒分の敷地なのかもしれません。
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11傭人(ようにん)社宅跡(採鉱課長宅跡)…苔むした石段を下りるとここに出ました。周辺には別子銅山の職員が住んでいた社宅が並んでいたようです。隣は醸造課長宅だったそうで、ここは2軒分の敷地なのかもしれません。
12採鉱課長宅跡レンガ塀の内側…これを小足谷接待館跡<写真15>と混同している記録も多々ありました。接待館はもう少し下です。
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12採鉱課長宅跡レンガ塀の内側…これを小足谷接待館跡<写真15>と混同している記録も多々ありました。接待館はもう少し下です。
13採鉱課長宅跡レンガ塀ズーム…十字の穴が開いており、外をのぞいてみましたが、木立しか見えませんでした😅
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13採鉱課長宅跡レンガ塀ズーム…十字の穴が開いており、外をのぞいてみましたが、木立しか見えませんでした😅
14石段より石垣&石段&採鉱課長宅跡レンガ塀見上げて…苔むして崩れかけた石段を下りる途中で振り返ってみました。動画も撮りました。この石段はおすすめしません。
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14石段より石垣&石段&採鉱課長宅跡レンガ塀見上げて…苔むして崩れかけた石段を下りる途中で振り返ってみました。動画も撮りました。この石段はおすすめしません。
15小足谷接待館跡…地形図の破線の道まで戻り少し進むと道沿いにありました。明治34年(1901年)に一般人が経営していた泉亭を改装し、要人の休憩・宿泊施設としました。
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15小足谷接待館跡…地形図の破線の道まで戻り少し進むと道沿いにありました。明治34年(1901年)に一般人が経営していた泉亭を改装し、要人の休憩・宿泊施設としました。
16小足谷疏水道(そすいどう)&収銅所跡の対岸…地形図上は西赤石山に向かう道の分岐になっている辺りで前方が二手に分かれ、左側の細道を下りてみました。小足谷川に下りると小足谷疏水道(そすいどう)の坑口があるとのことですが、この辺りで木の枝が絡まったヤブになり歩けなくなりました。おそらく対岸がそうなのでしょうが、よく見えなかったので、足元の石垣を撮って引き返しました。
16小足谷疏水道(そすいどう)&収銅所跡の対岸…地形図上は西赤石山に向かう道の分岐になっている辺りで前方が二手に分かれ、左側の細道を下りてみました。小足谷川に下りると小足谷疏水道(そすいどう)の坑口があるとのことですが、この辺りで木の枝が絡まったヤブになり歩けなくなりました。おそらく対岸がそうなのでしょうが、よく見えなかったので、足元の石垣を撮って引き返しました。
17山神社跡?…写真だけの案内板と「山神」と書かれた小さな木札がありました。おそらく、銅山関係者が信仰した大山積(おおやまずみ)神をお祀りしていたのでしょう。背後は磐座(いわくら)のようでした。
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17山神社跡?…写真だけの案内板と「山神」と書かれた小さな木札がありました。おそらく、銅山関係者が信仰した大山積(おおやまずみ)神をお祀りしていたのでしょう。背後は磐座(いわくら)のようでした。
18石段&石垣…この辺りが小学校跡<写真21>かと思い、石垣を見上げた後、この石段を上りました。
18石段&石垣…この辺りが小学校跡<写真21>かと思い、石垣を見上げた後、この石段を上りました。
19カベンタケ?…周辺は広く平坦で、高さ3cm程でたまにスプーン状のキノコがあっちこっちに生えていました。カベンタケ、あるいはカベンタケモドキかもしれません。結局、何の跡地かよくわかりませんでした。
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19カベンタケ?…周辺は広く平坦で、高さ3cm程でたまにスプーン状のキノコがあっちこっちに生えていました。カベンタケ、あるいはカベンタケモドキかもしれません。結局、何の跡地かよくわかりませんでした。
20石段途中より振り返って…<写真18>とは別の石段で道に戻る途中、振り返ってみました。なかなか立派な建物があったのかもしれません。
20石段途中より振り返って…<写真18>とは別の石段で道に戻る途中、振り返ってみました。なかなか立派な建物があったのかもしれません。
21小学校跡…低い石垣がずっと続いていたので振り返ってみました。明治19年(1886年)に尋常小学校がつくられたのが最初です。最盛期の明治32年には生徒数298人、教員7人でした。石垣の上には苔やシダ植物のヒカゲノカズラがびっしりと生えており、かつての繁栄も今は昔・・・。
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21小学校跡…低い石垣がずっと続いていたので振り返ってみました。明治19年(1886年)に尋常小学校がつくられたのが最初です。最盛期の明治32年には生徒数298人、教員7人でした。石垣の上には苔やシダ植物のヒカゲノカズラがびっしりと生えており、かつての繁栄も今は昔・・・。
22土木課(劇場)跡…山林課と土木課の建物が隣り合っていました。明治22年(1889年)に建設された土木課の巨大な倉庫は、翌年の別子銅山200年祭に劇場として使用され、以来、山内唯一の娯楽場となりました。
22土木課(劇場)跡…山林課と土木課の建物が隣り合っていました。明治22年(1889年)に建設された土木課の巨大な倉庫は、翌年の別子銅山200年祭に劇場として使用され、以来、山内唯一の娯楽場となりました。
23石垣の穴…40cm四方程の穴が開いていました。元からなのか、崩れて一部抜けたのかよくわかりませんでした。
23石垣の穴…40cm四方程の穴が開いていました。元からなのか、崩れて一部抜けたのかよくわかりませんでした。
24橋の上より小滝…橋の上より右に見えました。動画も撮りました。
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24橋の上より小滝…橋の上より右に見えました。動画も撮りました。
25高橋製錬所跡&別子銅山住友私立病院跡…別子銅山住友私立病院の写真だけの案内板から対岸を望みました。左の石垣が高橋(たかばし)製錬所跡の一部で、さらに上流300mまで続いています。右の平坦地が別子銅山住友私立病院跡です。
25高橋製錬所跡&別子銅山住友私立病院跡…別子銅山住友私立病院の写真だけの案内板から対岸を望みました。左の石垣が高橋(たかばし)製錬所跡の一部で、さらに上流300mまで続いています。右の平坦地が別子銅山住友私立病院跡です。
26岩盤の間を流れる小足谷川…右に小足谷川を見下ろしました。
26岩盤の間を流れる小足谷川…右に小足谷川を見下ろしました。
27橋の上より段々滝下段…標高1,000mを過ぎてすぐの橋の上より右に滝が見えました。上のほう<写真28>は木の陰でよく見えなかったので、下のほうだけ撮りました。
27橋の上より段々滝下段…標高1,000mを過ぎてすぐの橋の上より右に滝が見えました。上のほう<写真28>は木の陰でよく見えなかったので、下のほうだけ撮りました。
28段々滝上段…道の右に少しだけ下りると見えました。<写真27>の上流部です。
28段々滝上段…道の右に少しだけ下りると見えました。<写真27>の上流部です。
29ダイヤモンド水…昭和26年、金鍋(かんなべ)鉱床を探し当てるためのボーリング調査中に水脈を掘り当てて大量の水が噴出しました。しかも、ダイヤモンドをつけた掘削機の先端部分がねじ切れて穴の底から取り出せなくなってしまいました。こうして、ダイヤモンドが埋まった水脈から湧き出る水をダイヤモンド水と呼ぶようになりました。たいていの湧き水はクセがなくマイルドですが、これは少しクセを感じました。
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29ダイヤモンド水…昭和26年、金鍋(かんなべ)鉱床を探し当てるためのボーリング調査中に水脈を掘り当てて大量の水が噴出しました。しかも、ダイヤモンドをつけた掘削機の先端部分がねじ切れて穴の底から取り出せなくなってしまいました。こうして、ダイヤモンドが埋まった水脈から湧き出る水をダイヤモンド水と呼ぶようになりました。たいていの湧き水はクセがなくマイルドですが、これは少しクセを感じました。
30キレンゲショウマ実…直径1.2cm程の実がたくさんできていました。ここにだけお行儀よく一列に並んでいたので植栽かもしれません。
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30キレンゲショウマ実…直径1.2cm程の実がたくさんできていました。ここにだけお行儀よく一列に並んでいたので植栽かもしれません。
31木道の上より滝…木道の上より斜め右前方に見えました。ここを過ぎるとすぐに足元に水がちょろちょろと流れている箇所がありました。
31木道の上より滝…木道の上より斜め右前方に見えました。ここを過ぎるとすぐに足元に水がちょろちょろと流れている箇所がありました。
32橋の上より細長滝…橋の上より左に細いものの落差はそこそこある滝が見えました。動画も撮りました。
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32橋の上より細長滝…橋の上より左に細いものの落差はそこそこある滝が見えました。動画も撮りました。
33橋の上より大岩&岩盤…東延地区に立ち寄ろうと渡った橋の上より右に見えました。川の中の岩や岩盤もおもしろいです。
33橋の上より大岩&岩盤…東延地区に立ち寄ろうと渡った橋の上より右に見えました。川の中の岩や岩盤もおもしろいです。
34江戸時代の六角形の坑木…坑道が崩れないように支柱として使用される材木です。橋のたもとの右側に転がっていました。
34江戸時代の六角形の坑木…坑道が崩れないように支柱として使用される材木です。橋のたもとの右側に転がっていました。
35開坑課金庫跡…道の左にありました。案内板がないので詳しいことはわかりませんでした。
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35開坑課金庫跡…道の左にありました。案内板がないので詳しいことはわかりませんでした。
36旧別子銅山俯瞰図…ここからさらに北東、素麺滝<写真43,44>を目指します。
36旧別子銅山俯瞰図…ここからさらに北東、素麺滝<写真43,44>を目指します。
37第一通洞南口…明治19年(1886年)に完成した全長1,021mの別子銅山最初の通洞で、銅山峰の南北をつないでいます。以来、大正5年(1916年)に銅山の中心部が東平(とうなる)<写真69〜99>に移るまでの間、ここが銅山の中心でした。
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37第一通洞南口…明治19年(1886年)に完成した全長1,021mの別子銅山最初の通洞で、銅山峰の南北をつないでいます。以来、大正5年(1916年)に銅山の中心部が東平(とうなる)<写真69〜99>に移るまでの間、ここが銅山の中心でした。
38第一通洞南口内部…中には入れませんが、まだきれいに見えます。しかし、北口側は崩れてしまっているそうです。
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38第一通洞南口内部…中には入れませんが、まだきれいに見えます。しかし、北口側は崩れてしまっているそうです。
39東延地区謎のレンガ建造物…この写真ではわかりにくいですが、形も大きさもほぼ同じものが3つ並んでいました。周辺を歩きながら動画も撮りました。
39東延地区謎のレンガ建造物…この写真ではわかりにくいですが、形も大きさもほぼ同じものが3つ並んでいました。周辺を歩きながら動画も撮りました。
40東延斜坑…周辺は別子鉱床の東端にあたります。地下深くに三角(みすま)という鉱石に富んだ場所があり、そこをめがけて斜めに掘られたのが東延斜坑です。木が茂って見えにくく、穴は2m四方程でまっすぐ下に開いているように思えましたが、内部に斜面が見えるようです。
40東延斜坑…周辺は別子鉱床の東端にあたります。地下深くに三角(みすま)という鉱石に富んだ場所があり、そこをめがけて斜めに掘られたのが東延斜坑です。木が茂って見えにくく、穴は2m四方程でまっすぐ下に開いているように思えましたが、内部に斜面が見えるようです。
41二筋小滝…素麺滝の道標に従って道を歩いているつもりでしたが、小石がゴロゴロした所を東に進んでしまい、円柱状のコンクリートの一本橋を渡るとこれが見えました。ここから東は道がなさそうだったので、渡り返して黒いパイプ沿いに苔むした小石がゴロゴロした所を北東に進みました。
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41二筋小滝…素麺滝の道標に従って道を歩いているつもりでしたが、小石がゴロゴロした所を東に進んでしまい、円柱状のコンクリートの一本橋を渡るとこれが見えました。ここから東は道がなさそうだったので、渡り返して黒いパイプ沿いに苔むした小石がゴロゴロした所を北東に進みました。
42黒パイプ沿い三段小滝…左に見えているのが黒いパイプです。ここが素麵滝かとも思ったのですが、連れがもう少し先らしいと言うので、崩れそうな左の石垣をよじ登ると階段状の砂利道に出合いました。
42黒パイプ沿い三段小滝…左に見えているのが黒いパイプです。ここが素麵滝かとも思ったのですが、連れがもう少し先らしいと言うので、崩れそうな左の石垣をよじ登ると階段状の砂利道に出合いました。
43素麵滝…素麵(そうめん)滝というと、細い流れが1本だけだったり、今にも涸れそうな糸状の流れが2,3本あったりすることが多いのですが、これは見上げる高さで幅もあり、なかなか見応えがありました。動画も撮りました。
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43素麵滝…素麵(そうめん)滝というと、細い流れが1本だけだったり、今にも涸れそうな糸状の流れが2,3本あったりすることが多いのですが、これは見上げる高さで幅もあり、なかなか見応えがありました。動画も撮りました。
44素麺滝ズーム…糸状の流れがたくさんあります。道はここで行き止まりなので引き返しました。小石がゴロゴロしていたり石段状だったりする明瞭な細道が東延斜坑<写真40>まで続きました。なぜ逸れてしまったのか不思議です。
44素麺滝ズーム…糸状の流れがたくさんあります。道はここで行き止まりなので引き返しました。小石がゴロゴロしていたり石段状だったりする明瞭な細道が東延斜坑<写真40>まで続きました。なぜ逸れてしまったのか不思議です。
45用水路…レンガでできており古そうです。
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45用水路…レンガでできており古そうです。
46橋の上より樹木越しの滝…東延地区との分岐まで戻り、小足谷川の南側の道に入りました。橋の上より右に木の陰ですが落差のある滝が見えました。動画も撮りました。
46橋の上より樹木越しの滝…東延地区との分岐まで戻り、小足谷川の南側の道に入りました。橋の上より右に木の陰ですが落差のある滝が見えました。動画も撮りました。
47ノリウツギ…樹木越しの滝<写真46>の手前に見えたのでズームしてみました。花序が円錐形になるのでわかりやすいです。まさかこの時期に花が見られるとは思いませんでした。
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47ノリウツギ…樹木越しの滝<写真46>の手前に見えたのでズームしてみました。花序が円錐形になるのでわかりやすいです。まさかこの時期に花が見られるとは思いませんでした。
48大山積神社跡…元禄7年(1694年)の大火の後から明治25年(1892年)に焼失するまでの間、ここに重任局があり銅山の指令所として機能していました。焼失後、重任局は木方(きかた)に移り、代わりに延喜の端(はな)<写真52,53>にあった大山積(おおやまずみ)神社がここに遷座されました。
48大山積神社跡…元禄7年(1694年)の大火の後から明治25年(1892年)に焼失するまでの間、ここに重任局があり銅山の指令所として機能していました。焼失後、重任局は木方(きかた)に移り、代わりに延喜の端(はな)<写真52,53>にあった大山積(おおやまずみ)神社がここに遷座されました。
49土持谷…右に石垣のある谷が見えました。名札しかなかったので詳細はわかりません。
49土持谷…右に石垣のある谷が見えました。名札しかなかったので詳細はわかりません。
50私立住友病院跡…私立住友病院の写真だけの案内板があり、側に高さ数十cmのレンガ積みが残っていました。
50私立住友病院跡…私立住友病院の写真だけの案内板があり、側に高さ数十cmのレンガ積みが残っていました。
51目出度町鉱山街入口…ちょうど分岐に案内板がありました。
51目出度町鉱山街入口…ちょうど分岐に案内板がありました。
52延喜の端(はな)より物住頭&前赤石山&石室越…元禄4年(1691年)から明治25年(1892年)まで銅山の神をお祀りした大山積(おおやまずみ)神社<写真48>がありました。岩の上より北東方面を望みました。左が物住頭(ものずみのあたま)、中央が前赤石山、右は石室越です。
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52延喜の端(はな)より物住頭&前赤石山&石室越…元禄4年(1691年)から明治25年(1892年)まで銅山の神をお祀りした大山積(おおやまずみ)神社<写真48>がありました。岩の上より北東方面を望みました。左が物住頭(ものずみのあたま)、中央が前赤石山、右は石室越です。
53延喜の端(はな)より大座礼山&三ツ森山…東南東方面です。左端が大座礼山(おおざれやま)、右端が三ツ森山です。動画も撮りました。
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53延喜の端(はな)より大座礼山&三ツ森山…東南東方面です。左端が大座礼山(おおざれやま)、右端が三ツ森山です。動画も撮りました。
54歓東間符(まぶ)…延喜の端(はな)<写真52,53>から引き返す途中に分岐があり、右の道を進むとここに出ました。東延斜坑<写真40>ができるまでの約200年間、歓喜坑(歓喜間符)<写真56,57>とともに主生産坑であり続けました。
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54歓東間符(まぶ)…延喜の端(はな)<写真52,53>から引き返す途中に分岐があり、右の道を進むとここに出ました。東延斜坑<写真40>ができるまでの約200年間、歓喜坑(歓喜間符)<写真56,57>とともに主生産坑であり続けました。
55歓東間符内部…さすがにきっちり閉められていました。
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55歓東間符内部…さすがにきっちり閉められていました。
56歓喜坑(歓喜間符)…標柱には「歓喜間符」(まぶ)と書かれていましたが、一般的には歓喜坑と呼ばれています。元禄3年(1690年)に現岡山県高梁市成羽町の吉岡銅山(閉山)の支配人らが調査し、翌年に開坑した別子銅山最初の坑道です。抱き合って歓喜し開鉱を祝ったのが名前の由来です。復路でこの辺りから歩きながら動画を撮りました。
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56歓喜坑(歓喜間符)…標柱には「歓喜間符」(まぶ)と書かれていましたが、一般的には歓喜坑と呼ばれています。元禄3年(1690年)に現岡山県高梁市成羽町の吉岡銅山(閉山)の支配人らが調査し、翌年に開坑した別子銅山最初の坑道です。抱き合って歓喜し開鉱を祝ったのが名前の由来です。復路でこの辺りから歩きながら動画を撮りました。
57歓喜坑内部…平成13年に復元されました。側のベンチで休憩していると、下山中の方にお会いしました。西赤石山頂上はガスって真っ白だったとのことです。ここでも十分寒くまだ風があるので、今回は銅山越<写真64,65>から引き返すことにしました。
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57歓喜坑内部…平成13年に復元されました。側のベンチで休憩していると、下山中の方にお会いしました。西赤石山頂上はガスって真っ白だったとのことです。ここでも十分寒くまだ風があるので、今回は銅山越<写真64,65>から引き返すことにしました。
58蘭塔場ズーム…南東方面にある1,170m峰を見下ろしました。元禄7年(1694年)の大火災の焼死者132名を埋葬し供養したのが始まりで、以来、殉職者の供養場となりました。現在も盆供養が行われています。土持谷<写真49>の東にそこまで登れる道があったのですが、勘違いでスルーしてしまいました。
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58蘭塔場ズーム…南東方面にある1,170m峰を見下ろしました。元禄7年(1694年)の大火災の焼死者132名を埋葬し供養したのが始まりで、以来、殉職者の供養場となりました。現在も盆供養が行われています。土持谷<写真49>の東にそこまで登れる道があったのですが、勘違いでスルーしてしまいました。
59牛車道より西山北東斜面…道の左(西)に見えました。岩だらけの斜面に興味が湧きました。
59牛車道より西山北東斜面…道の左(西)に見えました。岩だらけの斜面に興味が湧きました。
60牛車道の岩…別子銅山の鉱床はキースラーガー型と呼ばれ、層状で黄鉄鉱や黄銅鉱を含んでいます。これも一部、黄色っぽい部分が見えます。見上げて動画も撮りました。この周辺だけ足元に板状の石が積み重なっていました。
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60牛車道の岩…別子銅山の鉱床はキースラーガー型と呼ばれ、層状で黄鉄鉱や黄銅鉱を含んでいます。これも一部、黄色っぽい部分が見えます。見上げて動画も撮りました。この周辺だけ足元に板状の石が積み重なっていました。
61銅山越南尾根より東山…東北東方面に標高1,390mの東山が見えました。
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61銅山越南尾根より東山…東北東方面に標高1,390mの東山が見えました。
62銅山越南尾根より東光森山…東南東方面に東光森山が見えました。
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62銅山越南尾根より東光森山…東南東方面に東光森山が見えました。
63銅山越南尾根より大座礼山&三ツ森山…南東方面です。左端が大座礼山(おおざれやま)、右端が三ツ森山です。動画も撮りました。
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63銅山越南尾根より大座礼山&三ツ森山…南東方面です。左端が大座礼山(おおざれやま)、右端が三ツ森山です。動画も撮りました。
64銅山越…周辺は少し開けていますが展望は効きません。ここからお地蔵さん<写真65>まで歩きながら動画を撮りました。今回はここで引き返しました。
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64銅山越…周辺は少し開けていますが展望は効きません。ここからお地蔵さん<写真65>まで歩きながら動画を撮りました。今回はここで引き返しました。
65峠のお地蔵さん…元禄15年(1702年)に別子銅山で採掘された粗銅(あらどう)はここを経由して新居浜市の大江の浜まで2日で運搬できるようになり、明治19年(1886年)までこの峠が主要通路でした。しかし、風雪などによる犠牲者も多く、無縁仏の供養のために地蔵像が祀られました。
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65峠のお地蔵さん…元禄15年(1702年)に別子銅山で採掘された粗銅(あらどう)はここを経由して新居浜市の大江の浜まで2日で運搬できるようになり、明治19年(1886年)までこの峠が主要通路でした。しかし、風雪などによる犠牲者も多く、無縁仏の供養のために地蔵像が祀られました。
66坑夫修行の跡…道標に従い細道を進むと、道の左にありました。直径3cm程の穴は削岩機で開けられたものでしょうか。さらに進み小石がゴロゴロして多少足元の悪い所を経由して歓東間符(まぶ)と歓喜坑のある場所<写真54〜57>に戻りました。
66坑夫修行の跡…道標に従い細道を進むと、道の左にありました。直径3cm程の穴は削岩機で開けられたものでしょうか。さらに進み小石がゴロゴロして多少足元の悪い所を経由して歓東間符(まぶ)と歓喜坑のある場所<写真54〜57>に戻りました。
67寛政谷…道の右に見えました。案内板がなかったので詳細はわかりませんでしたが、奥は石垣か何かのように見えました。
67寛政谷…道の右に見えました。案内板がなかったので詳細はわかりませんでしたが、奥は石垣か何かのように見えました。
68ヤマトアシナガバチ巣…直径5cm程とかなり小さくまゆの蓋が黄色いので、ヤマトアシナガバチの巣だろうと思います。我が家の敷地内で見られることもありますが、愛媛県のレッドデータブックでは情報不足となっています。
68ヤマトアシナガバチ巣…直径5cm程とかなり小さくまゆの蓋が黄色いので、ヤマトアシナガバチの巣だろうと思います。我が家の敷地内で見られることもありますが、愛媛県のレッドデータブックでは情報不足となっています。
69東平エリアのヨメナ群生地…日浦登山口駐車場まで戻り、時雨橋を渡って別子銅山東平(とうなる)エリア<写真69〜99>に向かう途中、舗装道路脇に群生していたので動画も撮りました。
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69東平エリアのヨメナ群生地…日浦登山口駐車場まで戻り、時雨橋を渡って別子銅山東平(とうなる)エリア<写真69〜99>に向かう途中、舗装道路脇に群生していたので動画も撮りました。
70別子銅山東平案内図…別子銅山東平(とうなる)駐車場にありました。東洋のマチュピチュと呼ばれ人気の観光スポットです。10月26日には倒木によりここまでの道が通行止めになっていましたが、この日の午前10時に解除になりました。諦めていたのでうれしかったです。
70別子銅山東平案内図…別子銅山東平(とうなる)駐車場にありました。東洋のマチュピチュと呼ばれ人気の観光スポットです。10月26日には倒木によりここまでの道が通行止めになっていましたが、この日の午前10時に解除になりました。諦めていたのでうれしかったです。
71東平歴史資料館ガスランプなど…休館日は12月1日〜翌2月末は全日、それ以外の月は月曜(祝日は翌日)、開館時間は10〜17時で入館無料です。林業用ののこぎりやせいろなどの調理用具もありました。また、マチュピチュで有名なペルーの大使が訪問された際の集合パネルが展示されていました。
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71東平歴史資料館ガスランプなど…休館日は12月1日〜翌2月末は全日、それ以外の月は月曜(祝日は翌日)、開館時間は10〜17時で入館無料です。林業用ののこぎりやせいろなどの調理用具もありました。また、マチュピチュで有名なペルーの大使が訪問された際の集合パネルが展示されていました。
72焼けた銅鉱石…2階にありました。火事で焼けたのでしょうか。
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72焼けた銅鉱石…2階にありました。火事で焼けたのでしょうか。
73熱変成作用を受けた緑色片岩(塩基性ホルンフェルス)…火山灰が固結してできた凝灰岩(ぎょうかいがん)が、地下深くに運ばれ、熱や圧力の影響を受けてできた変成岩を緑色片岩といいます。愛媛県には多く、「伊予の青石」と呼ばれて石垣などによく使用されます。これが熱により再結晶し硬くなったものです。
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73熱変成作用を受けた緑色片岩(塩基性ホルンフェルス)…火山灰が固結してできた凝灰岩(ぎょうかいがん)が、地下深くに運ばれ、熱や圧力の影響を受けてできた変成岩を緑色片岩といいます。愛媛県には多く、「伊予の青石」と呼ばれて石垣などによく使用されます。これが熱により再結晶し硬くなったものです。
74小マンプ…東平歴史資料館<写真71〜73>から外に出ると、鉱山運搬機展示場がありました。別子ではトンネルや坑道の入口をマンプと呼びます。これは鉱山鉄道のトンネルだった所で、通り抜けられます。動画を撮りながら入りました。
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74小マンプ…東平歴史資料館<写真71〜73>から外に出ると、鉱山運搬機展示場がありました。別子ではトンネルや坑道の入口をマンプと呼びます。これは鉱山鉄道のトンネルだった所で、通り抜けられます。動画を撮りながら入りました。
75かご電車…別子銅山の関係者以外も無料で乗車できました。
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75かご電車…別子銅山の関係者以外も無料で乗車できました。
76充電電車…坑道内の鉱車の牽引などに使用された蓄電車のバッテリーを充電するための機械類を積み込んだ電車です。
76充電電車…坑道内の鉱車の牽引などに使用された蓄電車のバッテリーを充電するための機械類を積み込んだ電車です。
77第三広場より旧第三変電所…遊歩道を進むと広場に出ました。大正5年(1916年)から昭和5年(1930年)まで採鉱本部があった所です。
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77第三広場より旧第三変電所…遊歩道を進むと広場に出ました。大正5年(1916年)から昭和5年(1930年)まで採鉱本部があった所です。
78旧第三変電所…大正6年(1917年)頃に変電所となった建物です。
78旧第三変電所…大正6年(1917年)頃に変電所となった建物です。
79旧第三変電所一階…隅に古い道具類が転がっていました。
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79旧第三変電所一階…隅に古い道具類が転がっていました。
80旧第三変電所二階…階段は一部崩れていましたが大丈夫でした。ここで寝泊まりしていたのでしょうか、畳がありました。
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80旧第三変電所二階…階段は一部崩れていましたが大丈夫でした。ここで寝泊まりしていたのでしょうか、畳がありました。
81第三通洞前より小女郎川…第三通洞<写真82,83>の左が小女郎川、右は寛永谷川<写真85>です。水量があったので動画も撮りました。
81第三通洞前より小女郎川…第三通洞<写真82,83>の左が小女郎川、右は寛永谷川<写真85>です。水量があったので動画も撮りました。
82第三通洞…明治35年(1902年)に完成した多目的坑道で東延斜坑<写真40>につながっています。坑内の排水や通気などに利用されました。
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82第三通洞…明治35年(1902年)に完成した多目的坑道で東延斜坑<写真40>につながっています。坑内の排水や通気などに利用されました。
83第三通洞内部…比較的新しいのでとてもきれいでした。
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83第三通洞内部…比較的新しいのでとてもきれいでした。
84うねる小女郎川…第三通洞<写真82,83>から小石がゴロゴロした道を東に進んでみましたが、登山道らしいので引き返しました。小女郎川の中の石に水が当たってうねる様子を動画にも撮りました。
84うねる小女郎川…第三通洞<写真82,83>から小石がゴロゴロした道を東に進んでみましたが、登山道らしいので引き返しました。小女郎川の中の石に水が当たってうねる様子を動画にも撮りました。
85第三通洞前より寛永谷川…石垣を登って苔むした木橋を渡り、寛永谷川のすぐ東側を登ってみました。かなり水量がありましたが、10月27日から11月中旬まで新寛永谷横坑から放水されるためのようです。動画も撮りました。ここからさらに南に道が続いているようでしたが引き返しました。
85第三通洞前より寛永谷川…石垣を登って苔むした木橋を渡り、寛永谷川のすぐ東側を登ってみました。かなり水量がありましたが、10月27日から11月中旬まで新寛永谷横坑から放水されるためのようです。動画も撮りました。ここからさらに南に道が続いているようでしたが引き返しました。
86第三通洞の上謎のトンネル…適当に下りていると、第三通洞<写真82,83>の上に出ました。これも排水用のトンネルだったのでしょうか。
86第三通洞の上謎のトンネル…適当に下りていると、第三通洞<写真82,83>の上に出ました。これも排水用のトンネルだったのでしょうか。
87火薬庫…第三広場<写真77>まで戻ると西端にありました。明治45年(1912年)に設置され、昭和43年(1968年)までダイナマイトなどを保管していました。
87火薬庫…第三広場<写真77>まで戻ると西端にありました。明治45年(1912年)に設置され、昭和43年(1968年)までダイナマイトなどを保管していました。
88大マンプ…火薬庫<写真87>の少し北です。小マンプ<写真74>とともに鉱山鉄道のトンネルとして使用されていました。
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88大マンプ…火薬庫<写真87>の少し北です。小マンプ<写真74>とともに鉱山鉄道のトンネルとして使用されていました。
89大マンプ内部…奥に光が見えますが、やはり閉鎖されているようです。
89大マンプ内部…奥に光が見えますが、やはり閉鎖されているようです。
90別子銅山東平駐車場より新居浜市街地&高井神島&魚島…駐車場の北東端より北方面を望みました。手前が新居浜市街地、奥の瀬戸内海に見える島は左が高井神島で中央少し右寄りが魚島です。
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90別子銅山東平駐車場より新居浜市街地&高井神島&魚島…駐車場の北東端より北方面を望みました。手前が新居浜市街地、奥の瀬戸内海に見える島は左が高井神島で中央少し右寄りが魚島です。
91別子銅山東平駐車場より兜岩&西赤石山…東方面です。左の岩だらけなのが兜岩、右が今回諦めた西赤石山です。
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91別子銅山東平駐車場より兜岩&西赤石山…東方面です。左の岩だらけなのが兜岩、右が今回諦めた西赤石山です。
92別子銅山東平駐車場より東平貯鉱庫跡&索道基地跡…東北東方面です。手前が東平(とうなる)貯鉱庫跡、奥が索道基地跡で、両者が東洋のマチュピチュとしてよく紹介されています。動画も撮りました。
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92別子銅山東平駐車場より東平貯鉱庫跡&索道基地跡…東北東方面です。手前が東平(とうなる)貯鉱庫跡、奥が索道基地跡で、両者が東洋のマチュピチュとしてよく紹介されています。動画も撮りました。
93インクライン跡…大正5年(1916年)頃に物資運搬の接続施設として設置されました。ケーブルカーのようなもので電気で巻き上げて動くようになっていました。現在は220段の階段に作り替えられています。とりあえず一番下まで下りてみることにしました。段差が小さいので歩きやすいです。
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93インクライン跡…大正5年(1916年)頃に物資運搬の接続施設として設置されました。ケーブルカーのようなもので電気で巻き上げて動くようになっていました。現在は220段の階段に作り替えられています。とりあえず一番下まで下りてみることにしました。段差が小さいので歩きやすいです。
94社宅跡…階段をいくつか下りました。どうやらここが最下部のようです。案内板はなかったので、すぐに階段で一段上<写真95,96>に上がりました。
94社宅跡…階段をいくつか下りました。どうやらここが最下部のようです。案内板はなかったので、すぐに階段で一段上<写真95,96>に上がりました。
95一部復元された社宅跡…奥のみ骨組みが復元されています。集合住宅だったようですが、一区画は2m四方もないかもしれません。
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95一部復元された社宅跡…奥のみ骨組みが復元されています。集合住宅だったようですが、一区画は2m四方もないかもしれません。
96かまど跡…直径30cm程の穴が2つありました。
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96かまど跡…直径30cm程の穴が2つありました。
97索道基地跡…階段でさらに上へ。明治38年(1905年)に設置された自動複式索道(ロープウェイやリフトなど)の中継所です。東平(とうなる)貯鉱庫跡<写真99>とともに東洋のマチュピチュと呼ばれる東平を代表する遺構です。
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97索道基地跡…階段でさらに上へ。明治38年(1905年)に設置された自動複式索道(ロープウェイやリフトなど)の中継所です。東平(とうなる)貯鉱庫跡<写真99>とともに東洋のマチュピチュと呼ばれる東平を代表する遺構です。
98索道基地跡越しに三の森北尾根…南西方面です。上のほうに東平(とうなる)貯鉱庫跡<写真99>の一部が写っています。左奥は三の森の北尾根です。見上げて動画も撮りました。
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98索道基地跡越しに三の森北尾根…南西方面です。上のほうに東平(とうなる)貯鉱庫跡<写真99>の一部が写っています。左奥は三の森の北尾根です。見上げて動画も撮りました。
99東平貯鉱庫跡…坑内から運び出された鉱石の一時保管場所でした。こちらはレンガではなく石積みです。
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99東平貯鉱庫跡…坑内から運び出された鉱石の一時保管場所でした。こちらはレンガではなく石積みです。
100焼肉きんぐ新居浜店プレミアムコース「ドでか!ロース」…平日の17時過ぎだったので空いていました。そのためか、岡山県内ではお会いしたことのない焼肉ポリスさんが来られ、これを焼いてくださいました。三つ折りにしてたまに広げながらこまめにひっくり返すと、網に張り付くことなくきれいに焼けるとのことです。
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100焼肉きんぐ新居浜店プレミアムコース「ドでか!ロース」…平日の17時過ぎだったので空いていました。そのためか、岡山県内ではお会いしたことのない焼肉ポリスさんが来られ、これを焼いてくださいました。三つ折りにしてたまに広げながらこまめにひっくり返すと、網に張り付くことなくきれいに焼けるとのことです。
101「厚切り牛タン」&「厚切り上ロース」…下段の厚切り上ロースは肉の味がしっかりしており、今回食べた中では最もおいしかったです。後でおかわりしました。
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101「厚切り牛タン」&「厚切り上ロース」…下段の厚切り上ロースは肉の味がしっかりしており、今回食べた中では最もおいしかったです。後でおかわりしました。
102「みすじステーキ」&「大判サーロイン」&「チュクミサムギョプサル」&「幻の鶏ハラミ」&「ハラミ」…上段のみすじステーキは肉厚で食べ応えがありました。下段のチュクミサムギョプサルはフェアメニューで、イイダコのホイル焼きを豚肉で巻いて食べます。
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102「みすじステーキ」&「大判サーロイン」&「チュクミサムギョプサル」&「幻の鶏ハラミ」&「ハラミ」…上段のみすじステーキは肉厚で食べ応えがありました。下段のチュクミサムギョプサルはフェアメニューで、イイダコのホイル焼きを豚肉で巻いて食べます。
103「石焼牛タンバーグ」&「ムルマンドゥ」&「ベーコンとチーズのシーザーサラダ」&「ひとくちニラチヂミ」…上段の石焼牛タンバーグはナツメグとコショウが効いていました。下段のムルマンドゥはフェアメニューで韓国の水餃子です。ニラ風味が強く、スープにはゴマ油が入っていました。
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103「石焼牛タンバーグ」&「ムルマンドゥ」&「ベーコンとチーズのシーザーサラダ」&「ひとくちニラチヂミ」…上段の石焼牛タンバーグはナツメグとコショウが効いていました。下段のムルマンドゥはフェアメニューで韓国の水餃子です。ニラ風味が強く、スープにはゴマ油が入っていました。
104「悪魔のチュモッパ」&「とろ〜りチーズの石焼キーマカレー」…上段は運ばれてきたところ、下段は食べる直前です。悪魔のチュモッパはフェアメニューで韓国の混ぜご飯おにぎりのようなものです。具材はキムチや韓国のり、たくわん?などで、マヨネーズ風味が強くマイルドでした。
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104「悪魔のチュモッパ」&「とろ〜りチーズの石焼キーマカレー」…上段は運ばれてきたところ、下段は食べる直前です。悪魔のチュモッパはフェアメニューで韓国の混ぜご飯おにぎりのようなものです。具材はキムチや韓国のり、たくわん?などで、マヨネーズ風味が強くマイルドでした。
105「チュロススロッピー」&「やわもちアイス(黒蜜きなこ)」&「井村屋のカステラ」&「10ウォンパン」「みかんゼリー」&「プレミアムシャーベット(ブドウ)」&「やわらか杏仁豆腐」…下段の10ウォンパンはフェアメニューです。甘さ控えめのドーナツのような生地で中にとろけるチーズが入っており、熱々で出てきました。
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105「チュロススロッピー」&「やわもちアイス(黒蜜きなこ)」&「井村屋のカステラ」&「10ウォンパン」「みかんゼリー」&「プレミアムシャーベット(ブドウ)」&「やわらか杏仁豆腐」…下段の10ウォンパンはフェアメニューです。甘さ控えめのドーナツのような生地で中にとろけるチーズが入っており、熱々で出てきました。

装備

個人装備
長袖シャツ ズボン 靴下(厚手) 手袋(防水加工) 軍手 雨具 スパッツ 日よけ帽子(フード付き) 雨用帽子 登山靴(防水加工) 靴ひも予備 ザックカバー(防水用) 地形図 コンパス マップケース 筆記用具 タオルハンカチ カメラ 飲料水(スポドリ&茶) 水筒(保温) 非常食(栄養補助食品) スマホ(地図アプリ使用) eTrex22x(GPSナビゲーター) 虫よけスプレー

感想

【別子銅山を象徴する「旧別子・東平エリア」】
 この日は、別子銅山発祥の地「旧別子エリア」<写真03〜68>と東洋のマチュピチュといわれる「東平(とうなる)エリア」<写真69〜99>を訪問しました。
 旧別子エリアは標高1,000m前後、東平エリアは標高750m前後と高地にあり、共に標高1,626mの西赤石山への登山ルートがあります。西高東低の冬型の気圧配置による強烈な寒気と強風は午後からマシになるはずだったので、銅山越<写真64,65>で西赤石山にも登るかどうか判断するつもりでした。しかし、午後になってもたまに風が強まり、ずっと上着と手袋を着用したまま歩きました。歓東間符(まぶ)と歓喜坑のある場所<写真54〜57>でお会いした方によれば、西赤石山頂上はガスって真っ白だったとのことです。まだ風があるので、この日の最高到達点は標高1,294mの銅山越<写真64,65>までにとどめることにしました。この高さでも岡山県では標高第3位なんですけれど・・・😓
 遺跡巡りのみだったにもかかわらず、旧別子エリアで5時間半、東平(とうなる)エリアで1時間半程費やしました。今回のログは旧別子エリアのみをアップしています。

【別子銅山発祥の地「旧別子エリア」山行】
 最初に訪問したのは、旧別子エリアです。西赤石山登山の起点となる日浦登山口駐車場から少し歩くと登山口には「旧別子銅山案内図」<写真03>が設置され、登山口から銅山峰までの高低差約500m、総距離約9kmにもおよぶ道沿いに、元禄時代から大正5年(1916年)までの225年間にわたって造られた無数の産業遺産が眠っていることがわかります。当時、このエリアの人口は1万人以上とされ、標高1,000m前後の高地に住居のみならず、寺院、神社、醸造所、接待館、小学校、劇場、病院など、生活上必要な施設がたくさん造られていました。
 各ポイントには当時の写真と説明の書かれた案内板が整備されています。何もなくてよくわからないレンガ建造物<写真10,39>などもあり、スルーした遺構も多々ありました。周辺の山中にもまだたくさんの遺構があるようで、この山域はコースを変えて再訪してみたいと思いました。

 登山口からしばらくは砂利道や石段で歩きやすく、たまに橋もあります。途中で道標に従い別子銅山専用の墓所として建てられた円通寺小足谷出張所跡<写真05,06>に寄りました。道の向こうに壁のように石垣が何段も続き墓石が点在しているのが見えました。かつてここに村がありここで一生を終えた人々がいたという現実を受け止めた瞬間でした。
 地形図の破線の道に戻り、道の右側に当然石垣が現れると、そこが小足谷集落跡<写真08>の入口でした。接待館の道標に従い石段を上り下りすると、レンガ塀のある広場のような傭人(ようにん)社宅跡(採鉱課長宅跡)<写真11>に出ました。ここが接待館だと勘違いしていましたが、苔むして崩れかけた石段<写真14>をおっかなびっくり下りて平坦な道に合流すると、道沿いに小足谷接待館跡<写真15>がありました。
 案内板がなくても石段を上ると敷地跡らしきものが広がっていることがあり、探検ごっこのようでワクワクします。明治32年(1899年)3月には生徒数298名、教員7名もいた小学校跡の石垣<写真21>には苔やシダ植物のヒカゲノカズラがびっしりと生えており、かつての繁栄も今は昔・・・。
 川沿いなので予期せぬ小さな滝もあり、ほっと一息。

 目出度町(めったまち)ルートと木方・東延ルートとの分岐で橋を渡り素麺(そうめん)滝<写真43,44>へ。
 明治19年(1886年)に完成した全長1,021mの別子銅山最初の通洞「第一通洞」<写真37,38>は、北口側は崩れてしまっているそうですが、南口はまだきれいに見えました。
 東延斜坑<写真40>から素麺(そうめん)滝<写真43,44>の道標に従い歩いているうちに小石がゴロゴロした所を東に進んでしまい、円柱状のコンクリートの一本橋を渡ると二筋小滝<写真41>が見えました。これが素麺(そうめん)滝・・・ちゃうな。ここから東は道がなさそうだったので、渡り返して黒いパイプ沿いに苔むした小石がゴロゴロした所を北東に進みました。黒パイプ沿いに見えた三段小滝<写真42>が素麵滝かとも思ったのですが、連れがもう少し先らしいと言うので、崩れそうな左の石垣をよじ登ると階段状の砂利道に出合いました。わずかに南東寄りに逸れていたようです。すぐに復帰できましたが、石垣が崩れると危険ですし文化財の破壊になるのでおすすめはしません。
 砂利道の終点が素麵(そうめん)滝<写真43,44>でした。素麵(そうめん)滝というと、細い流れが1本だけだったり、今にも涸れそうな糸状の流れが2,3本あったりすることが多いのですが、これは見上げる高さで幅もあり、なかなか見応えがありました。ここまで来てよかったです😊引き返すと、小石がゴロゴロしていたり石段状だったりする明瞭な細道が東延斜坑<写真40>まで続きました。なぜ逸れたのか不思議です。

 目出度町(めったまち)ルートと木方・東延ルートとの分岐まで戻って今度は小足谷川の南側の道に入りました。やはり砂利や石段などで歩きやすかったです。土持谷<写真49>の東に蘭塔場(らんとうば)<写真58>までピストンできる道があったのですが、勘違いでスルーしてしまいました。
 目出度町鉱山街入口<写真51>の分岐から石段を少し上り、延喜の端(はな)<写真52,53>へ。岩の上は展望が効き、前赤石山などが見えました。大山積神社<写真48>は明治25年(1892年)までここにあったそうですが、狭いので小さな祠のようなものだったのかもしれません。
 引き返す途中で道が二手に分かれたので右側の上り道に入ると、地形図の破線の道の東側に並行する細道で、歓東間符(まぶ)<写真54>に直接行けました。周辺は開けてベンチやトイレがあり、ゆっくり休憩できます。西側には元禄4年(1691年)に別子銅山発祥の記念すべき最初の坑道となった歓喜杭(歓喜間符)<写真56,57>があります。元禄3年(1690年)に現岡山県高梁市成羽町の吉岡銅山(閉山)の支配人らが調査しめでたく開鉱となったそうです。岡山がかかわっていたとは知りませんでした。案内板の「備中国(岡山県)」の文字を見ただけでなぜかうれしくなってしまいました😊
 休憩していると下山してこられた方にお会いしました。西赤石山頂上はガスって真っ白だったとのことなので、標高1,294mの銅山越<写真64,65>で引き返すことにしました。まだたまに風が吹き、手袋を外して栄養補助食品をつまんでいると体が冷えてきます。予想以上に時間がかかり、12時を過ぎていたのですぐに諦めはつきました。

 歓東間符(まぶ)と歓喜坑のある場所<写真54〜57>から地形図の破線の石段道に入り、すぐに南西に延びる道へ。勘違いでスルーした蘭塔場(らんとうば)は案内板から見下ろしズームすると見えました<写真58>。元禄7年(1694年)の大火災の焼死者132名を埋葬し供養したのが始まりで、以来、殉職者の供養場となりました。現在も盆供養が行われています。大規模で今もなお存在感のある史跡に衝撃を受けました。
 北北西に延びる牛車道は石畳のような道で、濡れたら車輪が滑らないかと心配になります。明治13年(1880年)に完成し、翌年には18頭の近江牛が働いていたとされています。近江牛なんてもったいないと思いましたが、労働用なので霜降りではなく筋肉でカチカチの完全赤身だったかもしれません。
 分岐で右折し銅山越<写真64,65>へ。階段状の砂利道や小石がゴロゴロした道は緩やかで歩きやすいです。展望は期待していませんでしたが、東光森山など<写真61〜63>が見え、ここが山の中であることが実感できました。
 道標のない分岐を過ぎ、不意に石垣に囲まれた一角に出るとそこが銅山越<写真64,65>でした。元禄15年(1702年)に別子銅山で採掘された粗銅(あらどう)はここを経由して新居浜市の大江の浜まで2日で運搬できるようになり、明治19年(1886年)までこの峠が主要通路でした。峠といいますが標高は1,294m、岡山県では標高第3位の駒の尾山よりも高いとは😮特に冬は風雪などによる犠牲者も多く、無縁仏の供養のために地蔵像が祀られました。少し開けてはいますが展望は効きませんし、さすがにお地蔵様の前で休憩はしにくかったのですぐに下山開始。

 銅山越<写真64,65>から引き返し、石埋まりや小石がゴロゴロした道を下りました。牛車道よりもこちらのほうが多少歩きにくいです。
 そのうち石畳から石段になると途中に「坑夫修行の跡」の道標がありました。地形図の破線の道から逸れて細道を進むと、道の左に直径3cm程の穴が多数開いた岩<写真66>が。削岩機の練習をしたのでしょうか。さらに進み小石がゴロゴロして多少足元の悪い所を経由して歓東間符(まぶ)と歓喜坑のある場所<写真54〜57>に戻りました。こちら側にも小さな道標があったのを思い出しました。
 石段を下りて目出度町(めったまち)鉱山街入口<写真51>の分岐まで戻り、直進して後はたまに石畳のある道を下りるだけかと思いきや、こちらにも重任局などの案内板がありました。足元に転がっていたヤマトアシナガバチの巣<写真68>に「なんでやねん」とツッコミを入れ、14時前に無事にゴール。
 予想以上に遺構などの見どころが多く、山頂に行っていないのに5時間半もかかりました。別子銅山のすごさがよくわかりました。
 今回は旬の時期ではありませんでしたが、銅山峰一帯は5月中旬から下旬頃にかけて国指定天然記念物のツガザクラの群生が見頃となります。その時期に今回見落とした遺跡の見学に加え、アカモノとツガザクラの花見をテーマにこのエリアを再訪したいものです。

【東洋のマチュピチュといわれる天空のまち「東平エリア」訪問】
 旧別子エリアを5時間半かけてまわった後に向かったのは東平(とうなる)エリアです。実は、倒木等の影響により10月25日(土)より通行止めとなっており、今回は諦めていたのですが、幸運なことにこの日の10時より通行が再開されました。
 ちなみに、マイントピア別子が「東洋のマチュピチュ(東平)観光バスツアー」を開催しています。観光バス(マイクロバス)で東平エリアを往復しガイド付きで一部を観光するというもので、バスは毎日13時発、さらに毎週土日祝日および5・8・10月は毎日11時発も運行されます。ちなみに、12月から翌2月末頃までは通行止めで自家用車でのアプローチもできません。
 2時間コース(見学は1時間)で料金はガイド料込みで2,200円ですが、東平歴史資料館前に広大な駐車場がありますので、事前にネットで資料を入手した上でマイカーでアプローチしました。ただし、すれ違いができない所も多いので、カーブの多い細道運転に恐怖を感じる方には、観光バス利用をおすすめします。
 幸い、普通車2台、マイントピア別子の東洋のマチュピチュ(東平)バスツアーのバスともに待避スペースで出合いすぐにすれ違え、日浦登山口駐車場から車で40分程で別子銅山東平(とうなる)駐車場に到着。
 東平は大正5年(1916年)から昭和5年(1930年)まで別子銅山の採鉱本部が置かれるなど、銅山関連施設や生活関連施設が整備され、最盛期には約5,000人もの銅山関係者とその家族が住み、昭和43年(1968年)の東平抗休止によって無人の地となるまで、鉱山の町として賑わっていました。
 まずは東平歴史資料館<写真71〜73>へ。無料であまり大きな建物ではありません。受付も無人でした。鉱石などは前日にマイントピア別子で見ていたのと同じようなものがありました。2階の周辺の生き物のコーナーでホシガラスが紹介されていたのが衝撃的でした。北アルプスなどにしかいないと思い込んでいました。
 外に出て小マンプ内<写真74〜76>を見学し旧第三変電所<写真78〜80>へ。広々とした第三広場<写真77>は大正5年(1916年)から昭和5年(1930年)まで採鉱本部があった所です。
 さらに進むと第三通洞<写真82,83>の左に小女郎川<写真81>、右に寛永谷川<写真85>が見えました。第三通洞は明治35年(1902年)に完成した長さ1,795mの多目的坑道で東延斜坑<写真40>につながっています。ここから小石がゴロゴロした道を東に進んでみましたが、登山道らしいので引き返しました。第三通洞前まで戻ると、石垣を登って苔むした木橋を渡り、寛永谷川<写真85>のすぐ東側を登ってみました。かなり水量がありましたが、10月27日から11月中旬まで新寛永谷横坑から放水されるためのようです。道標はないもののさらに南に道が続いているようでしたが引き返しました。適当に下りていると、第三通洞<写真82,83>の上に小さなトンネル<写真86>がありました。こうした小さな発見が楽しいです。
 駐車場に戻ると東平貯鉱庫跡と索道基地跡<写真92>が見下ろせました。両者が「東洋のマチュピチュ」としてよく紹介されています。本家マチュピチュのあるペルーの大使が訪問され、似ているとおっしゃったそうで、「東洋のマチュピチュ」はペルー公認だそうです。
 インクライン跡<写真93>は大正5年(1916年)頃に物資運搬の接続施設として設置されました。現在は220段の階段に作り替えられています。途中で東平貯鉱庫跡<写真99>や索道基地跡<写真97,98>に寄れますがとりあえず一番下まで下りてみることにしました。段差が小さいので歩きやすいのですが、下りきったらまた別の階段がありました。下りたらまた次が😅これ、登り返しよなあと思いながら、下りきると社宅跡<写真94>でした。ここから見学しながら階段を上ります。
 索道基地跡は明治38年(1905年)に設置された自動複式索道(ロープウェイやリフトなど)の中継所です。山の斜面に連なる鉱石を一時的に貯め置く貯鉱庫とともに「東洋のマチュピュ」といわれ、日本の近代化を支えた別子銅山の栄華を今に伝えています。

 この2日間、別子銅山産業遺産をエリアごとに個々に見てきましたが、最後の東平(とうなる)エリアを巡ることで、昭和48年(1973年)に閉山するまで江戸・明治・大正・昭和の4時代のべ283年にわたり銅を産出し続け、工業都市新居浜発展の原点となった別子銅山の歴史とその意義がより深く心に刻まれることになりました。
 また、今回の目的は別子銅山産業遺跡の見学でしたが、知的好奇心が満たされ冒険心がくすぐられただけではありませんでした。別子銅山を支えた名もなき人々の存在に気づかされ、我々が立っている現在という足元にはたくさんの人生が積み重なっていることを実感しました。遺跡ならば発掘され日の目を見ることもあるでしょうが、普段、我々の無意識から掘り起こされることもない多くの魂。今でも供養を続けているという住友金属鉱山株式会社の姿勢は見習いたいと思いました。
 遺跡や廃墟に我々が惹かれるのは、自分たちにたどり着くまでに経てきた歴史が垣間見えるからだけではありません。滅び廃れゆくものに我が身を重ね命のはかなさを思うとき、同情ではない仲間意識、愛おしさが募るからではないでしょうか。おそらく、後世の人々の意識からは漏れてしまう平凡な人生。それでも悔いはありませんが、せめて終わるまでになるべく多くの魂を掘り起こし光を当てたい。自分はともかく、より多くの誰かを。誰かに語られる人生を歩むことはできませんが、誰かを語り心揺さぶられ一生を終えることはできるかもしれない。光が見えました。



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