01ホテルアルファーワン新居浜の朝食…宿泊したホテルの朝食です。おそらく食べ放題なのでしょうが、小鉢に入ったサラダなど、なんとなく複数は取りにくく感じてこれでやめました。食パン、3cm角に切られたポークソーセージパイ、半熟卵の入ったたまごサラダパイ、少し噛み応えのあるプチフランス、アップルクラウン(アップルパイ)、少ししっとりしたクロワッサンのようなバターギッフェリ、ホットコーヒー、野菜&果実ジュース、写ってはいませんが市販のコーンポタージュスープをいただきました。パンは冷めていますが、おいしかったです。
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01ホテルアルファーワン新居浜の朝食…宿泊したホテルの朝食です。おそらく食べ放題なのでしょうが、小鉢に入ったサラダなど、なんとなく複数は取りにくく感じてこれでやめました。食パン、3cm角に切られたポークソーセージパイ、半熟卵の入ったたまごサラダパイ、少し噛み応えのあるプチフランス、アップルクラウン(アップルパイ)、少ししっとりしたクロワッサンのようなバターギッフェリ、ホットコーヒー、野菜&果実ジュース、写ってはいませんが市販のコーンポタージュスープをいただきました。パンは冷めていますが、おいしかったです。
02時雨橋より沓掛山&黒森山…日浦登山口駐車場に向かう途中、別子銅山東平(とうなる)エリア<写真69〜99>への道の分岐にある時雨橋の上より南西方面を望みました。左から沓掛山(くつかけやま)、黒森山南の1,670m峰、黒森山です。動画も撮りました。
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02時雨橋より沓掛山&黒森山…日浦登山口駐車場に向かう途中、別子銅山東平(とうなる)エリア<写真69〜99>への道の分岐にある時雨橋の上より南西方面を望みました。左から沓掛山(くつかけやま)、黒森山南の1,670m峰、黒森山です。動画も撮りました。
03旧別子銅山案内図…天気予報では午前中は風が強そうだったので、とりあえずこの案内図に記載されている範囲を巡り、銅山越<写真64,65>で西赤石山に登るかどうか判断することにしました。
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03旧別子銅山案内図…天気予報では午前中は風が強そうだったので、とりあえずこの案内図に記載されている範囲を巡り、銅山越<写真64,65>で西赤石山に登るかどうか判断することにしました。
04日浦登山口…砂利のような小石がゴロゴロしていたり石段状だったりする道がしばらく続きました。
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04日浦登山口…砂利のような小石がゴロゴロしていたり石段状だったりする道がしばらく続きました。
05円通寺小足谷出張所跡墓地…道標に従い小さな橋を渡ってちょっと寄り道。ここからさらに東、保土野(ほどの)にあった円通寺の小足谷出張所の墓地です。銅山関係者の町があったので、麓まで下りなくてすむようにとここに墓地ができたようです。
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05円通寺小足谷出張所跡墓地…道標に従い小さな橋を渡ってちょっと寄り道。ここからさらに東、保土野(ほどの)にあった円通寺の小足谷出張所の墓地です。銅山関係者の町があったので、麓まで下りなくてすむようにとここに墓地ができたようです。
06円通寺小足谷出張所跡無縁仏の卒塔婆…大正8年(1919年)に円通寺が焼失したため寺の機能は南光院に移りました。これは平成2年に別子銅山開坑300年を記念して建てられたものです。銅山関係者の供養は現在も行われています。
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06円通寺小足谷出張所跡無縁仏の卒塔婆…大正8年(1919年)に円通寺が焼失したため寺の機能は南光院に移りました。これは平成2年に別子銅山開坑300年を記念して建てられたものです。銅山関係者の供養は現在も行われています。
07橋の上より小足谷川…橋の上より左に見下ろして動画も撮りました。
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07橋の上より小足谷川…橋の上より左に見下ろして動画も撮りました。
08小足谷集落跡…道の右側に当然石垣が現れました。別子銅山では最も新しい集落跡です。ここから石畳になりました。道標に従い階段状の道を歩きながら動画を撮りました。
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08小足谷集落跡…道の右側に当然石垣が現れました。別子銅山では最も新しい集落跡です。ここから石畳になりました。道標に従い階段状の道を歩きながら動画を撮りました。
09小足谷醸造所跡の煙突…明治3年(1870年)から酒の醸造を始めました。周辺は平坦で広く、さらに奥まで行けそうでしたが引き返しました。
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09小足谷醸造所跡の煙突…明治3年(1870年)から酒の醸造を始めました。周辺は平坦で広く、さらに奥まで行けそうでしたが引き返しました。
10謎のレンガ遺構…接待館の道標に従い石段を上るとレンガ塀、すぐ東にこれがありました。採鉱課長宅の水くみ場、食料庫といった情報もありましたが、穴が狭く手を入れて中のものが取り出しにくいので、排水用の穴かもしれません。ここから水が流れていることがあるそうですが、今回は確認できませんでした。
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10謎のレンガ遺構…接待館の道標に従い石段を上るとレンガ塀、すぐ東にこれがありました。採鉱課長宅の水くみ場、食料庫といった情報もありましたが、穴が狭く手を入れて中のものが取り出しにくいので、排水用の穴かもしれません。ここから水が流れていることがあるそうですが、今回は確認できませんでした。
11傭人(ようにん)社宅跡(採鉱課長宅跡)…苔むした石段を下りるとここに出ました。周辺には別子銅山の職員が住んでいた社宅が並んでいたようです。隣は醸造課長宅だったそうで、ここは2軒分の敷地なのかもしれません。
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11傭人(ようにん)社宅跡(採鉱課長宅跡)…苔むした石段を下りるとここに出ました。周辺には別子銅山の職員が住んでいた社宅が並んでいたようです。隣は醸造課長宅だったそうで、ここは2軒分の敷地なのかもしれません。
12採鉱課長宅跡レンガ塀の内側…これを小足谷接待館跡<写真15>と混同している記録も多々ありました。接待館はもう少し下です。
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12採鉱課長宅跡レンガ塀の内側…これを小足谷接待館跡<写真15>と混同している記録も多々ありました。接待館はもう少し下です。
13採鉱課長宅跡レンガ塀ズーム…十字の穴が開いており、外をのぞいてみましたが、木立しか見えませんでした😅
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13採鉱課長宅跡レンガ塀ズーム…十字の穴が開いており、外をのぞいてみましたが、木立しか見えませんでした😅
14石段より石垣&石段&採鉱課長宅跡レンガ塀見上げて…苔むして崩れかけた石段を下りる途中で振り返ってみました。動画も撮りました。この石段はおすすめしません。
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14石段より石垣&石段&採鉱課長宅跡レンガ塀見上げて…苔むして崩れかけた石段を下りる途中で振り返ってみました。動画も撮りました。この石段はおすすめしません。
15小足谷接待館跡…地形図の破線の道まで戻り少し進むと道沿いにありました。明治34年(1901年)に一般人が経営していた泉亭を改装し、要人の休憩・宿泊施設としました。
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15小足谷接待館跡…地形図の破線の道まで戻り少し進むと道沿いにありました。明治34年(1901年)に一般人が経営していた泉亭を改装し、要人の休憩・宿泊施設としました。
16小足谷疏水道(そすいどう)&収銅所跡の対岸…地形図上は西赤石山に向かう道の分岐になっている辺りで前方が二手に分かれ、左側の細道を下りてみました。小足谷川に下りると小足谷疏水道(そすいどう)の坑口があるとのことですが、この辺りで木の枝が絡まったヤブになり歩けなくなりました。おそらく対岸がそうなのでしょうが、よく見えなかったので、足元の石垣を撮って引き返しました。
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16小足谷疏水道(そすいどう)&収銅所跡の対岸…地形図上は西赤石山に向かう道の分岐になっている辺りで前方が二手に分かれ、左側の細道を下りてみました。小足谷川に下りると小足谷疏水道(そすいどう)の坑口があるとのことですが、この辺りで木の枝が絡まったヤブになり歩けなくなりました。おそらく対岸がそうなのでしょうが、よく見えなかったので、足元の石垣を撮って引き返しました。
17山神社跡?…写真だけの案内板と「山神」と書かれた小さな木札がありました。おそらく、銅山関係者が信仰した大山積(おおやまずみ)神をお祀りしていたのでしょう。背後は磐座(いわくら)のようでした。
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17山神社跡?…写真だけの案内板と「山神」と書かれた小さな木札がありました。おそらく、銅山関係者が信仰した大山積(おおやまずみ)神をお祀りしていたのでしょう。背後は磐座(いわくら)のようでした。
18石段&石垣…この辺りが小学校跡<写真21>かと思い、石垣を見上げた後、この石段を上りました。
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18石段&石垣…この辺りが小学校跡<写真21>かと思い、石垣を見上げた後、この石段を上りました。
19カベンタケ?…周辺は広く平坦で、高さ3cm程でたまにスプーン状のキノコがあっちこっちに生えていました。カベンタケ、あるいはカベンタケモドキかもしれません。結局、何の跡地かよくわかりませんでした。
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19カベンタケ?…周辺は広く平坦で、高さ3cm程でたまにスプーン状のキノコがあっちこっちに生えていました。カベンタケ、あるいはカベンタケモドキかもしれません。結局、何の跡地かよくわかりませんでした。
20石段途中より振り返って…<写真18>とは別の石段で道に戻る途中、振り返ってみました。なかなか立派な建物があったのかもしれません。
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20石段途中より振り返って…<写真18>とは別の石段で道に戻る途中、振り返ってみました。なかなか立派な建物があったのかもしれません。
21小学校跡…低い石垣がずっと続いていたので振り返ってみました。明治19年(1886年)に尋常小学校がつくられたのが最初です。最盛期の明治32年には生徒数298人、教員7人でした。石垣の上には苔やシダ植物のヒカゲノカズラがびっしりと生えており、かつての繁栄も今は昔・・・。
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21小学校跡…低い石垣がずっと続いていたので振り返ってみました。明治19年(1886年)に尋常小学校がつくられたのが最初です。最盛期の明治32年には生徒数298人、教員7人でした。石垣の上には苔やシダ植物のヒカゲノカズラがびっしりと生えており、かつての繁栄も今は昔・・・。
22土木課(劇場)跡…山林課と土木課の建物が隣り合っていました。明治22年(1889年)に建設された土木課の巨大な倉庫は、翌年の別子銅山200年祭に劇場として使用され、以来、山内唯一の娯楽場となりました。
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22土木課(劇場)跡…山林課と土木課の建物が隣り合っていました。明治22年(1889年)に建設された土木課の巨大な倉庫は、翌年の別子銅山200年祭に劇場として使用され、以来、山内唯一の娯楽場となりました。
23石垣の穴…40cm四方程の穴が開いていました。元からなのか、崩れて一部抜けたのかよくわかりませんでした。
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23石垣の穴…40cm四方程の穴が開いていました。元からなのか、崩れて一部抜けたのかよくわかりませんでした。
24橋の上より小滝…橋の上より右に見えました。動画も撮りました。
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24橋の上より小滝…橋の上より右に見えました。動画も撮りました。
25高橋製錬所跡&別子銅山住友私立病院跡…別子銅山住友私立病院の写真だけの案内板から対岸を望みました。左の石垣が高橋(たかばし)製錬所跡の一部で、さらに上流300mまで続いています。右の平坦地が別子銅山住友私立病院跡です。
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25高橋製錬所跡&別子銅山住友私立病院跡…別子銅山住友私立病院の写真だけの案内板から対岸を望みました。左の石垣が高橋(たかばし)製錬所跡の一部で、さらに上流300mまで続いています。右の平坦地が別子銅山住友私立病院跡です。
26岩盤の間を流れる小足谷川…右に小足谷川を見下ろしました。
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26岩盤の間を流れる小足谷川…右に小足谷川を見下ろしました。
27橋の上より段々滝下段…標高1,000mを過ぎてすぐの橋の上より右に滝が見えました。上のほう<写真28>は木の陰でよく見えなかったので、下のほうだけ撮りました。
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27橋の上より段々滝下段…標高1,000mを過ぎてすぐの橋の上より右に滝が見えました。上のほう<写真28>は木の陰でよく見えなかったので、下のほうだけ撮りました。
28段々滝上段…道の右に少しだけ下りると見えました。<写真27>の上流部です。
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28段々滝上段…道の右に少しだけ下りると見えました。<写真27>の上流部です。
29ダイヤモンド水…昭和26年、金鍋(かんなべ)鉱床を探し当てるためのボーリング調査中に水脈を掘り当てて大量の水が噴出しました。しかも、ダイヤモンドをつけた掘削機の先端部分がねじ切れて穴の底から取り出せなくなってしまいました。こうして、ダイヤモンドが埋まった水脈から湧き出る水をダイヤモンド水と呼ぶようになりました。たいていの湧き水はクセがなくマイルドですが、これは少しクセを感じました。
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29ダイヤモンド水…昭和26年、金鍋(かんなべ)鉱床を探し当てるためのボーリング調査中に水脈を掘り当てて大量の水が噴出しました。しかも、ダイヤモンドをつけた掘削機の先端部分がねじ切れて穴の底から取り出せなくなってしまいました。こうして、ダイヤモンドが埋まった水脈から湧き出る水をダイヤモンド水と呼ぶようになりました。たいていの湧き水はクセがなくマイルドですが、これは少しクセを感じました。
30キレンゲショウマ実…直径1.2cm程の実がたくさんできていました。ここにだけお行儀よく一列に並んでいたので植栽かもしれません。
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30キレンゲショウマ実…直径1.2cm程の実がたくさんできていました。ここにだけお行儀よく一列に並んでいたので植栽かもしれません。
31木道の上より滝…木道の上より斜め右前方に見えました。ここを過ぎるとすぐに足元に水がちょろちょろと流れている箇所がありました。
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31木道の上より滝…木道の上より斜め右前方に見えました。ここを過ぎるとすぐに足元に水がちょろちょろと流れている箇所がありました。
32橋の上より細長滝…橋の上より左に細いものの落差はそこそこある滝が見えました。動画も撮りました。
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32橋の上より細長滝…橋の上より左に細いものの落差はそこそこある滝が見えました。動画も撮りました。
33橋の上より大岩&岩盤…東延地区に立ち寄ろうと渡った橋の上より右に見えました。川の中の岩や岩盤もおもしろいです。
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33橋の上より大岩&岩盤…東延地区に立ち寄ろうと渡った橋の上より右に見えました。川の中の岩や岩盤もおもしろいです。
34江戸時代の六角形の坑木…坑道が崩れないように支柱として使用される材木です。橋のたもとの右側に転がっていました。
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34江戸時代の六角形の坑木…坑道が崩れないように支柱として使用される材木です。橋のたもとの右側に転がっていました。
35開坑課金庫跡…道の左にありました。案内板がないので詳しいことはわかりませんでした。
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35開坑課金庫跡…道の左にありました。案内板がないので詳しいことはわかりませんでした。
36旧別子銅山俯瞰図…ここからさらに北東、素麺滝<写真43,44>を目指します。
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36旧別子銅山俯瞰図…ここからさらに北東、素麺滝<写真43,44>を目指します。
37第一通洞南口…明治19年(1886年)に完成した全長1,021mの別子銅山最初の通洞で、銅山峰の南北をつないでいます。以来、大正5年(1916年)に銅山の中心部が東平(とうなる)<写真69〜99>に移るまでの間、ここが銅山の中心でした。
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37第一通洞南口…明治19年(1886年)に完成した全長1,021mの別子銅山最初の通洞で、銅山峰の南北をつないでいます。以来、大正5年(1916年)に銅山の中心部が東平(とうなる)<写真69〜99>に移るまでの間、ここが銅山の中心でした。
38第一通洞南口内部…中には入れませんが、まだきれいに見えます。しかし、北口側は崩れてしまっているそうです。
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38第一通洞南口内部…中には入れませんが、まだきれいに見えます。しかし、北口側は崩れてしまっているそうです。
39東延地区謎のレンガ建造物…この写真ではわかりにくいですが、形も大きさもほぼ同じものが3つ並んでいました。周辺を歩きながら動画も撮りました。
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39東延地区謎のレンガ建造物…この写真ではわかりにくいですが、形も大きさもほぼ同じものが3つ並んでいました。周辺を歩きながら動画も撮りました。
40東延斜坑…周辺は別子鉱床の東端にあたります。地下深くに三角(みすま)という鉱石に富んだ場所があり、そこをめがけて斜めに掘られたのが東延斜坑です。木が茂って見えにくく、穴は2m四方程でまっすぐ下に開いているように思えましたが、内部に斜面が見えるようです。
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40東延斜坑…周辺は別子鉱床の東端にあたります。地下深くに三角(みすま)という鉱石に富んだ場所があり、そこをめがけて斜めに掘られたのが東延斜坑です。木が茂って見えにくく、穴は2m四方程でまっすぐ下に開いているように思えましたが、内部に斜面が見えるようです。
41二筋小滝…素麺滝の道標に従って道を歩いているつもりでしたが、小石がゴロゴロした所を東に進んでしまい、円柱状のコンクリートの一本橋を渡るとこれが見えました。ここから東は道がなさそうだったので、渡り返して黒いパイプ沿いに苔むした小石がゴロゴロした所を北東に進みました。
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41二筋小滝…素麺滝の道標に従って道を歩いているつもりでしたが、小石がゴロゴロした所を東に進んでしまい、円柱状のコンクリートの一本橋を渡るとこれが見えました。ここから東は道がなさそうだったので、渡り返して黒いパイプ沿いに苔むした小石がゴロゴロした所を北東に進みました。
42黒パイプ沿い三段小滝…左に見えているのが黒いパイプです。ここが素麵滝かとも思ったのですが、連れがもう少し先らしいと言うので、崩れそうな左の石垣をよじ登ると階段状の砂利道に出合いました。
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42黒パイプ沿い三段小滝…左に見えているのが黒いパイプです。ここが素麵滝かとも思ったのですが、連れがもう少し先らしいと言うので、崩れそうな左の石垣をよじ登ると階段状の砂利道に出合いました。
43素麵滝…素麵(そうめん)滝というと、細い流れが1本だけだったり、今にも涸れそうな糸状の流れが2,3本あったりすることが多いのですが、これは見上げる高さで幅もあり、なかなか見応えがありました。動画も撮りました。
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43素麵滝…素麵(そうめん)滝というと、細い流れが1本だけだったり、今にも涸れそうな糸状の流れが2,3本あったりすることが多いのですが、これは見上げる高さで幅もあり、なかなか見応えがありました。動画も撮りました。
44素麺滝ズーム…糸状の流れがたくさんあります。道はここで行き止まりなので引き返しました。小石がゴロゴロしていたり石段状だったりする明瞭な細道が東延斜坑<写真40>まで続きました。なぜ逸れてしまったのか不思議です。
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44素麺滝ズーム…糸状の流れがたくさんあります。道はここで行き止まりなので引き返しました。小石がゴロゴロしていたり石段状だったりする明瞭な細道が東延斜坑<写真40>まで続きました。なぜ逸れてしまったのか不思議です。
45用水路…レンガでできており古そうです。
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45用水路…レンガでできており古そうです。
46橋の上より樹木越しの滝…東延地区との分岐まで戻り、小足谷川の南側の道に入りました。橋の上より右に木の陰ですが落差のある滝が見えました。動画も撮りました。
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46橋の上より樹木越しの滝…東延地区との分岐まで戻り、小足谷川の南側の道に入りました。橋の上より右に木の陰ですが落差のある滝が見えました。動画も撮りました。
47ノリウツギ…樹木越しの滝<写真46>の手前に見えたのでズームしてみました。花序が円錐形になるのでわかりやすいです。まさかこの時期に花が見られるとは思いませんでした。
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47ノリウツギ…樹木越しの滝<写真46>の手前に見えたのでズームしてみました。花序が円錐形になるのでわかりやすいです。まさかこの時期に花が見られるとは思いませんでした。
48大山積神社跡…元禄7年(1694年)の大火の後から明治25年(1892年)に焼失するまでの間、ここに重任局があり銅山の指令所として機能していました。焼失後、重任局は木方(きかた)に移り、代わりに延喜の端(はな)<写真52,53>にあった大山積(おおやまずみ)神社がここに遷座されました。
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48大山積神社跡…元禄7年(1694年)の大火の後から明治25年(1892年)に焼失するまでの間、ここに重任局があり銅山の指令所として機能していました。焼失後、重任局は木方(きかた)に移り、代わりに延喜の端(はな)<写真52,53>にあった大山積(おおやまずみ)神社がここに遷座されました。
49土持谷…右に石垣のある谷が見えました。名札しかなかったので詳細はわかりません。
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49土持谷…右に石垣のある谷が見えました。名札しかなかったので詳細はわかりません。
50私立住友病院跡…私立住友病院の写真だけの案内板があり、側に高さ数十cmのレンガ積みが残っていました。
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50私立住友病院跡…私立住友病院の写真だけの案内板があり、側に高さ数十cmのレンガ積みが残っていました。
51目出度町鉱山街入口…ちょうど分岐に案内板がありました。
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51目出度町鉱山街入口…ちょうど分岐に案内板がありました。
52延喜の端(はな)より物住頭&前赤石山&石室越…元禄4年(1691年)から明治25年(1892年)まで銅山の神をお祀りした大山積(おおやまずみ)神社<写真48>がありました。岩の上より北東方面を望みました。左が物住頭(ものずみのあたま)、中央が前赤石山、右は石室越です。
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52延喜の端(はな)より物住頭&前赤石山&石室越…元禄4年(1691年)から明治25年(1892年)まで銅山の神をお祀りした大山積(おおやまずみ)神社<写真48>がありました。岩の上より北東方面を望みました。左が物住頭(ものずみのあたま)、中央が前赤石山、右は石室越です。
53延喜の端(はな)より大座礼山&三ツ森山…東南東方面です。左端が大座礼山(おおざれやま)、右端が三ツ森山です。動画も撮りました。
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53延喜の端(はな)より大座礼山&三ツ森山…東南東方面です。左端が大座礼山(おおざれやま)、右端が三ツ森山です。動画も撮りました。
54歓東間符(まぶ)…延喜の端(はな)<写真52,53>から引き返す途中に分岐があり、右の道を進むとここに出ました。東延斜坑<写真40>ができるまでの約200年間、歓喜坑(歓喜間符)<写真56,57>とともに主生産坑であり続けました。
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54歓東間符(まぶ)…延喜の端(はな)<写真52,53>から引き返す途中に分岐があり、右の道を進むとここに出ました。東延斜坑<写真40>ができるまでの約200年間、歓喜坑(歓喜間符)<写真56,57>とともに主生産坑であり続けました。
55歓東間符内部…さすがにきっちり閉められていました。
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55歓東間符内部…さすがにきっちり閉められていました。
56歓喜坑(歓喜間符)…標柱には「歓喜間符」(まぶ)と書かれていましたが、一般的には歓喜坑と呼ばれています。元禄3年(1690年)に現岡山県高梁市成羽町の吉岡銅山(閉山)の支配人らが調査し、翌年に開坑した別子銅山最初の坑道です。抱き合って歓喜し開鉱を祝ったのが名前の由来です。復路でこの辺りから歩きながら動画を撮りました。
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56歓喜坑(歓喜間符)…標柱には「歓喜間符」(まぶ)と書かれていましたが、一般的には歓喜坑と呼ばれています。元禄3年(1690年)に現岡山県高梁市成羽町の吉岡銅山(閉山)の支配人らが調査し、翌年に開坑した別子銅山最初の坑道です。抱き合って歓喜し開鉱を祝ったのが名前の由来です。復路でこの辺りから歩きながら動画を撮りました。
57歓喜坑内部…平成13年に復元されました。側のベンチで休憩していると、下山中の方にお会いしました。西赤石山頂上はガスって真っ白だったとのことです。ここでも十分寒くまだ風があるので、今回は銅山越<写真64,65>から引き返すことにしました。
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57歓喜坑内部…平成13年に復元されました。側のベンチで休憩していると、下山中の方にお会いしました。西赤石山頂上はガスって真っ白だったとのことです。ここでも十分寒くまだ風があるので、今回は銅山越<写真64,65>から引き返すことにしました。
58蘭塔場ズーム…南東方面にある1,170m峰を見下ろしました。元禄7年(1694年)の大火災の焼死者132名を埋葬し供養したのが始まりで、以来、殉職者の供養場となりました。現在も盆供養が行われています。土持谷<写真49>の東にそこまで登れる道があったのですが、勘違いでスルーしてしまいました。
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58蘭塔場ズーム…南東方面にある1,170m峰を見下ろしました。元禄7年(1694年)の大火災の焼死者132名を埋葬し供養したのが始まりで、以来、殉職者の供養場となりました。現在も盆供養が行われています。土持谷<写真49>の東にそこまで登れる道があったのですが、勘違いでスルーしてしまいました。
59牛車道より西山北東斜面…道の左(西)に見えました。岩だらけの斜面に興味が湧きました。
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59牛車道より西山北東斜面…道の左(西)に見えました。岩だらけの斜面に興味が湧きました。
60牛車道の岩…別子銅山の鉱床はキースラーガー型と呼ばれ、層状で黄鉄鉱や黄銅鉱を含んでいます。これも一部、黄色っぽい部分が見えます。見上げて動画も撮りました。この周辺だけ足元に板状の石が積み重なっていました。
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60牛車道の岩…別子銅山の鉱床はキースラーガー型と呼ばれ、層状で黄鉄鉱や黄銅鉱を含んでいます。これも一部、黄色っぽい部分が見えます。見上げて動画も撮りました。この周辺だけ足元に板状の石が積み重なっていました。
61銅山越南尾根より東山…東北東方面に標高1,390mの東山が見えました。
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61銅山越南尾根より東山…東北東方面に標高1,390mの東山が見えました。
62銅山越南尾根より東光森山…東南東方面に東光森山が見えました。
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62銅山越南尾根より東光森山…東南東方面に東光森山が見えました。
63銅山越南尾根より大座礼山&三ツ森山…南東方面です。左端が大座礼山(おおざれやま)、右端が三ツ森山です。動画も撮りました。
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63銅山越南尾根より大座礼山&三ツ森山…南東方面です。左端が大座礼山(おおざれやま)、右端が三ツ森山です。動画も撮りました。
64銅山越…周辺は少し開けていますが展望は効きません。ここからお地蔵さん<写真65>まで歩きながら動画を撮りました。今回はここで引き返しました。
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64銅山越…周辺は少し開けていますが展望は効きません。ここからお地蔵さん<写真65>まで歩きながら動画を撮りました。今回はここで引き返しました。
65峠のお地蔵さん…元禄15年(1702年)に別子銅山で採掘された粗銅(あらどう)はここを経由して新居浜市の大江の浜まで2日で運搬できるようになり、明治19年(1886年)までこの峠が主要通路でした。しかし、風雪などによる犠牲者も多く、無縁仏の供養のために地蔵像が祀られました。
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65峠のお地蔵さん…元禄15年(1702年)に別子銅山で採掘された粗銅(あらどう)はここを経由して新居浜市の大江の浜まで2日で運搬できるようになり、明治19年(1886年)までこの峠が主要通路でした。しかし、風雪などによる犠牲者も多く、無縁仏の供養のために地蔵像が祀られました。
66坑夫修行の跡…道標に従い細道を進むと、道の左にありました。直径3cm程の穴は削岩機で開けられたものでしょうか。さらに進み小石がゴロゴロして多少足元の悪い所を経由して歓東間符(まぶ)と歓喜坑のある場所<写真54〜57>に戻りました。
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66坑夫修行の跡…道標に従い細道を進むと、道の左にありました。直径3cm程の穴は削岩機で開けられたものでしょうか。さらに進み小石がゴロゴロして多少足元の悪い所を経由して歓東間符(まぶ)と歓喜坑のある場所<写真54〜57>に戻りました。
67寛政谷…道の右に見えました。案内板がなかったので詳細はわかりませんでしたが、奥は石垣か何かのように見えました。
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67寛政谷…道の右に見えました。案内板がなかったので詳細はわかりませんでしたが、奥は石垣か何かのように見えました。
68ヤマトアシナガバチ巣…直径5cm程とかなり小さくまゆの蓋が黄色いので、ヤマトアシナガバチの巣だろうと思います。我が家の敷地内で見られることもありますが、愛媛県のレッドデータブックでは情報不足となっています。
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68ヤマトアシナガバチ巣…直径5cm程とかなり小さくまゆの蓋が黄色いので、ヤマトアシナガバチの巣だろうと思います。我が家の敷地内で見られることもありますが、愛媛県のレッドデータブックでは情報不足となっています。
69東平エリアのヨメナ群生地…日浦登山口駐車場まで戻り、時雨橋を渡って別子銅山東平(とうなる)エリア<写真69〜99>に向かう途中、舗装道路脇に群生していたので動画も撮りました。
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69東平エリアのヨメナ群生地…日浦登山口駐車場まで戻り、時雨橋を渡って別子銅山東平(とうなる)エリア<写真69〜99>に向かう途中、舗装道路脇に群生していたので動画も撮りました。
70別子銅山東平案内図…別子銅山東平(とうなる)駐車場にありました。東洋のマチュピチュと呼ばれ人気の観光スポットです。10月26日には倒木によりここまでの道が通行止めになっていましたが、この日の午前10時に解除になりました。諦めていたのでうれしかったです。
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70別子銅山東平案内図…別子銅山東平(とうなる)駐車場にありました。東洋のマチュピチュと呼ばれ人気の観光スポットです。10月26日には倒木によりここまでの道が通行止めになっていましたが、この日の午前10時に解除になりました。諦めていたのでうれしかったです。
71東平歴史資料館ガスランプなど…休館日は12月1日〜翌2月末は全日、それ以外の月は月曜(祝日は翌日)、開館時間は10〜17時で入館無料です。林業用ののこぎりやせいろなどの調理用具もありました。また、マチュピチュで有名なペルーの大使が訪問された際の集合パネルが展示されていました。
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71東平歴史資料館ガスランプなど…休館日は12月1日〜翌2月末は全日、それ以外の月は月曜(祝日は翌日)、開館時間は10〜17時で入館無料です。林業用ののこぎりやせいろなどの調理用具もありました。また、マチュピチュで有名なペルーの大使が訪問された際の集合パネルが展示されていました。
72焼けた銅鉱石…2階にありました。火事で焼けたのでしょうか。
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72焼けた銅鉱石…2階にありました。火事で焼けたのでしょうか。
73熱変成作用を受けた緑色片岩(塩基性ホルンフェルス)…火山灰が固結してできた凝灰岩(ぎょうかいがん)が、地下深くに運ばれ、熱や圧力の影響を受けてできた変成岩を緑色片岩といいます。愛媛県には多く、「伊予の青石」と呼ばれて石垣などによく使用されます。これが熱により再結晶し硬くなったものです。
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73熱変成作用を受けた緑色片岩(塩基性ホルンフェルス)…火山灰が固結してできた凝灰岩(ぎょうかいがん)が、地下深くに運ばれ、熱や圧力の影響を受けてできた変成岩を緑色片岩といいます。愛媛県には多く、「伊予の青石」と呼ばれて石垣などによく使用されます。これが熱により再結晶し硬くなったものです。
74小マンプ…東平歴史資料館<写真71〜73>から外に出ると、鉱山運搬機展示場がありました。別子ではトンネルや坑道の入口をマンプと呼びます。これは鉱山鉄道のトンネルだった所で、通り抜けられます。動画を撮りながら入りました。
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74小マンプ…東平歴史資料館<写真71〜73>から外に出ると、鉱山運搬機展示場がありました。別子ではトンネルや坑道の入口をマンプと呼びます。これは鉱山鉄道のトンネルだった所で、通り抜けられます。動画を撮りながら入りました。
75かご電車…別子銅山の関係者以外も無料で乗車できました。
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75かご電車…別子銅山の関係者以外も無料で乗車できました。
76充電電車…坑道内の鉱車の牽引などに使用された蓄電車のバッテリーを充電するための機械類を積み込んだ電車です。
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76充電電車…坑道内の鉱車の牽引などに使用された蓄電車のバッテリーを充電するための機械類を積み込んだ電車です。
77第三広場より旧第三変電所…遊歩道を進むと広場に出ました。大正5年(1916年)から昭和5年(1930年)まで採鉱本部があった所です。
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77第三広場より旧第三変電所…遊歩道を進むと広場に出ました。大正5年(1916年)から昭和5年(1930年)まで採鉱本部があった所です。
78旧第三変電所…大正6年(1917年)頃に変電所となった建物です。
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78旧第三変電所…大正6年(1917年)頃に変電所となった建物です。
79旧第三変電所一階…隅に古い道具類が転がっていました。
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79旧第三変電所一階…隅に古い道具類が転がっていました。
80旧第三変電所二階…階段は一部崩れていましたが大丈夫でした。ここで寝泊まりしていたのでしょうか、畳がありました。
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80旧第三変電所二階…階段は一部崩れていましたが大丈夫でした。ここで寝泊まりしていたのでしょうか、畳がありました。
81第三通洞前より小女郎川…第三通洞<写真82,83>の左が小女郎川、右は寛永谷川<写真85>です。水量があったので動画も撮りました。
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81第三通洞前より小女郎川…第三通洞<写真82,83>の左が小女郎川、右は寛永谷川<写真85>です。水量があったので動画も撮りました。
82第三通洞…明治35年(1902年)に完成した多目的坑道で東延斜坑<写真40>につながっています。坑内の排水や通気などに利用されました。
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82第三通洞…明治35年(1902年)に完成した多目的坑道で東延斜坑<写真40>につながっています。坑内の排水や通気などに利用されました。
83第三通洞内部…比較的新しいのでとてもきれいでした。
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83第三通洞内部…比較的新しいのでとてもきれいでした。
84うねる小女郎川…第三通洞<写真82,83>から小石がゴロゴロした道を東に進んでみましたが、登山道らしいので引き返しました。小女郎川の中の石に水が当たってうねる様子を動画にも撮りました。
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84うねる小女郎川…第三通洞<写真82,83>から小石がゴロゴロした道を東に進んでみましたが、登山道らしいので引き返しました。小女郎川の中の石に水が当たってうねる様子を動画にも撮りました。
85第三通洞前より寛永谷川…石垣を登って苔むした木橋を渡り、寛永谷川のすぐ東側を登ってみました。かなり水量がありましたが、10月27日から11月中旬まで新寛永谷横坑から放水されるためのようです。動画も撮りました。ここからさらに南に道が続いているようでしたが引き返しました。
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85第三通洞前より寛永谷川…石垣を登って苔むした木橋を渡り、寛永谷川のすぐ東側を登ってみました。かなり水量がありましたが、10月27日から11月中旬まで新寛永谷横坑から放水されるためのようです。動画も撮りました。ここからさらに南に道が続いているようでしたが引き返しました。
86第三通洞の上謎のトンネル…適当に下りていると、第三通洞<写真82,83>の上に出ました。これも排水用のトンネルだったのでしょうか。
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86第三通洞の上謎のトンネル…適当に下りていると、第三通洞<写真82,83>の上に出ました。これも排水用のトンネルだったのでしょうか。
87火薬庫…第三広場<写真77>まで戻ると西端にありました。明治45年(1912年)に設置され、昭和43年(1968年)までダイナマイトなどを保管していました。
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87火薬庫…第三広場<写真77>まで戻ると西端にありました。明治45年(1912年)に設置され、昭和43年(1968年)までダイナマイトなどを保管していました。
88大マンプ…火薬庫<写真87>の少し北です。小マンプ<写真74>とともに鉱山鉄道のトンネルとして使用されていました。
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88大マンプ…火薬庫<写真87>の少し北です。小マンプ<写真74>とともに鉱山鉄道のトンネルとして使用されていました。
89大マンプ内部…奥に光が見えますが、やはり閉鎖されているようです。
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89大マンプ内部…奥に光が見えますが、やはり閉鎖されているようです。
90別子銅山東平駐車場より新居浜市街地&高井神島&魚島…駐車場の北東端より北方面を望みました。手前が新居浜市街地、奥の瀬戸内海に見える島は左が高井神島で中央少し右寄りが魚島です。
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90別子銅山東平駐車場より新居浜市街地&高井神島&魚島…駐車場の北東端より北方面を望みました。手前が新居浜市街地、奥の瀬戸内海に見える島は左が高井神島で中央少し右寄りが魚島です。
91別子銅山東平駐車場より兜岩&西赤石山…東方面です。左の岩だらけなのが兜岩、右が今回諦めた西赤石山です。
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91別子銅山東平駐車場より兜岩&西赤石山…東方面です。左の岩だらけなのが兜岩、右が今回諦めた西赤石山です。
92別子銅山東平駐車場より東平貯鉱庫跡&索道基地跡…東北東方面です。手前が東平(とうなる)貯鉱庫跡、奥が索道基地跡で、両者が東洋のマチュピチュとしてよく紹介されています。動画も撮りました。
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92別子銅山東平駐車場より東平貯鉱庫跡&索道基地跡…東北東方面です。手前が東平(とうなる)貯鉱庫跡、奥が索道基地跡で、両者が東洋のマチュピチュとしてよく紹介されています。動画も撮りました。
93インクライン跡…大正5年(1916年)頃に物資運搬の接続施設として設置されました。ケーブルカーのようなもので電気で巻き上げて動くようになっていました。現在は220段の階段に作り替えられています。とりあえず一番下まで下りてみることにしました。段差が小さいので歩きやすいです。
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93インクライン跡…大正5年(1916年)頃に物資運搬の接続施設として設置されました。ケーブルカーのようなもので電気で巻き上げて動くようになっていました。現在は220段の階段に作り替えられています。とりあえず一番下まで下りてみることにしました。段差が小さいので歩きやすいです。
94社宅跡…階段をいくつか下りました。どうやらここが最下部のようです。案内板はなかったので、すぐに階段で一段上<写真95,96>に上がりました。
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94社宅跡…階段をいくつか下りました。どうやらここが最下部のようです。案内板はなかったので、すぐに階段で一段上<写真95,96>に上がりました。
95一部復元された社宅跡…奥のみ骨組みが復元されています。集合住宅だったようですが、一区画は2m四方もないかもしれません。
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95一部復元された社宅跡…奥のみ骨組みが復元されています。集合住宅だったようですが、一区画は2m四方もないかもしれません。
96かまど跡…直径30cm程の穴が2つありました。
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96かまど跡…直径30cm程の穴が2つありました。
97索道基地跡…階段でさらに上へ。明治38年(1905年)に設置された自動複式索道(ロープウェイやリフトなど)の中継所です。東平(とうなる)貯鉱庫跡<写真99>とともに東洋のマチュピチュと呼ばれる東平を代表する遺構です。
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97索道基地跡…階段でさらに上へ。明治38年(1905年)に設置された自動複式索道(ロープウェイやリフトなど)の中継所です。東平(とうなる)貯鉱庫跡<写真99>とともに東洋のマチュピチュと呼ばれる東平を代表する遺構です。
98索道基地跡越しに三の森北尾根…南西方面です。上のほうに東平(とうなる)貯鉱庫跡<写真99>の一部が写っています。左奥は三の森の北尾根です。見上げて動画も撮りました。
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98索道基地跡越しに三の森北尾根…南西方面です。上のほうに東平(とうなる)貯鉱庫跡<写真99>の一部が写っています。左奥は三の森の北尾根です。見上げて動画も撮りました。
99東平貯鉱庫跡…坑内から運び出された鉱石の一時保管場所でした。こちらはレンガではなく石積みです。
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99東平貯鉱庫跡…坑内から運び出された鉱石の一時保管場所でした。こちらはレンガではなく石積みです。
100焼肉きんぐ新居浜店プレミアムコース「ドでか!ロース」…平日の17時過ぎだったので空いていました。そのためか、岡山県内ではお会いしたことのない焼肉ポリスさんが来られ、これを焼いてくださいました。三つ折りにしてたまに広げながらこまめにひっくり返すと、網に張り付くことなくきれいに焼けるとのことです。
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100焼肉きんぐ新居浜店プレミアムコース「ドでか!ロース」…平日の17時過ぎだったので空いていました。そのためか、岡山県内ではお会いしたことのない焼肉ポリスさんが来られ、これを焼いてくださいました。三つ折りにしてたまに広げながらこまめにひっくり返すと、網に張り付くことなくきれいに焼けるとのことです。
101「厚切り牛タン」&「厚切り上ロース」…下段の厚切り上ロースは肉の味がしっかりしており、今回食べた中では最もおいしかったです。後でおかわりしました。
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101「厚切り牛タン」&「厚切り上ロース」…下段の厚切り上ロースは肉の味がしっかりしており、今回食べた中では最もおいしかったです。後でおかわりしました。
102「みすじステーキ」&「大判サーロイン」&「チュクミサムギョプサル」&「幻の鶏ハラミ」&「ハラミ」…上段のみすじステーキは肉厚で食べ応えがありました。下段のチュクミサムギョプサルはフェアメニューで、イイダコのホイル焼きを豚肉で巻いて食べます。
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102「みすじステーキ」&「大判サーロイン」&「チュクミサムギョプサル」&「幻の鶏ハラミ」&「ハラミ」…上段のみすじステーキは肉厚で食べ応えがありました。下段のチュクミサムギョプサルはフェアメニューで、イイダコのホイル焼きを豚肉で巻いて食べます。
103「石焼牛タンバーグ」&「ムルマンドゥ」&「ベーコンとチーズのシーザーサラダ」&「ひとくちニラチヂミ」…上段の石焼牛タンバーグはナツメグとコショウが効いていました。下段のムルマンドゥはフェアメニューで韓国の水餃子です。ニラ風味が強く、スープにはゴマ油が入っていました。
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103「石焼牛タンバーグ」&「ムルマンドゥ」&「ベーコンとチーズのシーザーサラダ」&「ひとくちニラチヂミ」…上段の石焼牛タンバーグはナツメグとコショウが効いていました。下段のムルマンドゥはフェアメニューで韓国の水餃子です。ニラ風味が強く、スープにはゴマ油が入っていました。
104「悪魔のチュモッパ」&「とろ〜りチーズの石焼キーマカレー」…上段は運ばれてきたところ、下段は食べる直前です。悪魔のチュモッパはフェアメニューで韓国の混ぜご飯おにぎりのようなものです。具材はキムチや韓国のり、たくわん?などで、マヨネーズ風味が強くマイルドでした。
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104「悪魔のチュモッパ」&「とろ〜りチーズの石焼キーマカレー」…上段は運ばれてきたところ、下段は食べる直前です。悪魔のチュモッパはフェアメニューで韓国の混ぜご飯おにぎりのようなものです。具材はキムチや韓国のり、たくわん?などで、マヨネーズ風味が強くマイルドでした。
105「チュロススロッピー」&「やわもちアイス(黒蜜きなこ)」&「井村屋のカステラ」&「10ウォンパン」「みかんゼリー」&「プレミアムシャーベット(ブドウ)」&「やわらか杏仁豆腐」…下段の10ウォンパンはフェアメニューです。甘さ控えめのドーナツのような生地で中にとろけるチーズが入っており、熱々で出てきました。
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105「チュロススロッピー」&「やわもちアイス(黒蜜きなこ)」&「井村屋のカステラ」&「10ウォンパン」「みかんゼリー」&「プレミアムシャーベット(ブドウ)」&「やわらか杏仁豆腐」…下段の10ウォンパンはフェアメニューです。甘さ控えめのドーナツのような生地で中にとろけるチーズが入っており、熱々で出てきました。
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