【山名考察】龍安寺・仁和寺周辺(衣笠山〜朱山〜大内山〜成就山)


- GPS
- 04:10
- 距離
- 12.5km
- 登り
- 547m
- 下り
- 542m
コースタイム
過去天気図(気象庁) | 2023年10月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
バス
帰り:京都市バス(福王子) |
写真
感想
龍安寺境内に入ったところにある「龍安寺全景」には、住吉山・大内山・朱山・妙見嶽・衣笠山が描かれています。今回、鏡容池からそれぞれの山を同定してみました。
※国立国会図書館デジタルコレクションのリンク中には要ログインのURLもあります。
――――――――――――――――――――
◇妙見嶽(春日谷原山)
山頂には円融天皇火葬塚。
人によってはこの地点が朱山の山頂する方もいますが、「龍安寺全景」では明確に別のピークとして描かれています。
「後村上陵(円融天皇) 葛野郡花園村大字宇多野福王子善福寺ノ傍藪林中ニアリ。(中略)火葬所、同郡花園村大字谷口春日谷原山ノ頂ニアリ。」『平安通志 巻之三十八』(京都市参事会,明治28年) https://dl.ndl.go.jp/pid/765931/1/123
→円融天皇の火葬場は「春日谷原山の頂」にあるとのこと。
――――――――――――――――――――
◇朱山
「朱山」という名称は地名でもあるため、明確にココが山頂だと示す資料は意外と少ないです。
朱山の山頂は髻山(もとどりやま)と呼ばれていたとのこと。髻(もとどり)は「髪を頭上で束ねたもの」のことで、朱山を南(龍安寺)から見た場合、南尾根の小ピークの上に山頂ピークが上に重なって見えるのを例えたのかもしれません。また、明治前後には「戻リ山」と呼ばれるピークがあったようですが、発音が似ていることから髻山=戻リ山の可能性も考えられなくはなく。
「朱山は主山ともしるす。一に原山とも称し、俗に龍安寺山とよぶ。衣笠山の支峰にして大内山の東にあり、眼下に花園・太秦一帯をのぞんで眺望はすこぶるよい。山頂を髻山(もとどりやま)といい、尾根伝いに大内山山頂にある宇多天皇御陵にいたる六丁ばかりの山路は、家族連れハイキングに好適なコースである。」『新撰京都名所図会 巻2 (北山・西山の部)』(p.99/竹村俊則,白川書院,1959) https://dl.ndl.go.jp/pid/3008981/1/57
「龍安寺の背を衣笠の主山(ヌシヤマ)と称す、六代の皇陵あり、北峯を髻山(モトドリヤマ)と云ふ乃其絶頂也。」『大日本地名辞書 上巻 二版』(p.103/ 冨山房,1907) https://dl.ndl.go.jp/pid/2937057/1/59
絵図に「今龍安寺領 俗称戻リ山」『聖蹟圖志』(津久井清影,187?年) https://dl.ndl.go.jp/pid/1910951/1/37
谷口村「戻リ山 西北に在り。高さ26丈、周4町50間。嶺上より二分し、東は本村に属し、三面御室村に属し、山脈東は主山、西南は住吉山・大内山に連なる。樹木あり。登路壱条、住吉山より上る。高さ5町。」(『京都府地誌』「山城国葛野郡村誌』明治14〜17年) https://dl.ndl.go.jp/pid/9576728/1/193
→ただ、『京都府地誌』では主山(朱山)と戻リ山は別のピークとみなされてるもよう。
――――――――――――――――――――
◇大内山
大内山はもともと広く周辺の山域を指したもので、今でいう成就山や朱山もその山域に含まれていたとのことです。山頂を特定しようと古文書を調べると混乱するので、あくまで現在の山頂はこの地点とみなされてる、ということです。
大内山の山頂は『山と高原地図』(昭文社)にも記載されていますが、仁和寺からみた大内山の山頂の特定はこちらの方が詳しいです。
きょうのまなざし>大内山の山頂はどこ?
https://www.kyotocity.net/diary/2016/0923-ouchisan-omuroyama/#i
「大内山は一に御室山ともいう。仁和寺の背後にそびえる優婉な山で、高さは海抜二三〇メートル、衣笠山の西につらなる。大内とは皇居をいい、宇多上皇が仁和寺内に御座所をいとなまれたのに因んで、山名となったもので、古来、歌枕の一に数えられている。」『昭和京都名所図会 4 (洛西)』(p.132/竹村俊則,駸々堂出版,1983)
御室門前村「大内山 高さ27丈余、周囲三十七37間、嶺上より二分し、東は谷口村に属し、西南は本村に属す。本村にありては住吉峰と称す。山脈東宇多野山に連り、西は成就山に亘り、樹木鬱蒼、登路二条。一は御陵道より登る。高さ11町40間余。一は仁和寺中より登る。高さ6町。澗水一条。谷口村用に充つ。」『京都府地誌 山城国葛野郡村誌』(明治14〜17年) https://dl.ndl.go.jp/pid/9576728/1/162
→御室門前村からは「住吉峰」とも呼ばれていたようです。住吉山との関連も気になるところ。
――――――――――――――――――――
◇住吉山
龍安寺からみると大内山の左手につづくピーク感の薄い尾根を「住吉山」と呼ぶようです。昔は「徳岡」と呼ばれていたとのことで、やはり山というよりも丘のイメージだったのかもしれません。住吉山は、きぬかけの路が開通する前は、尾根続きの麓に大伴住吉神社があったことからの名称と思われます。
「徳岡氷室 或云徳岡今龍安寺西山住吉山是也」(『山城名勝志』巻八上葛野郡二,正徳元(1711)年) https://dl.ndl.go.jp/pid/2997296/1/209
「大御室墓は大内山より東南にのびる住吉山の山中(※)にある。※住吉山の東南隅、市営住吉山墓地の入口右方にあり、石鳥居を目標に行けばよい。」『昭和京都名所図会 4 (洛西)』(p.133/竹村俊則,駸々堂出版,1983) https://dl.ndl.go.jp/pid/9575416/1/70
→同書巻末地図(レコの写真38に引用)を参照
――――――――――――――――――――
◇丸山(P241)
P241は、以前は現地に「住吉山」のプレートがあったり(現在は残骸のみ)、資料等によっては大内山とも呼ばれていたようです。ただP241は、龍安寺から見ると大内山に遮られて山頂が見えないことから、「龍安寺全景」を前提とすると、大内山や住吉山の山頂とは言い難く、無名の一支峰になるかと思われたのですが、古い資料を調べてみると、大内山の「丸山」という頂として呼ばれていたことがあったようです。そこで仮にP241=丸山という名称にしておきたいと思います。
「大内山陵 宇多天王の御陵なり。山城國葛野郡仁和寺の後山、大内山の内、字丸山の東、下宇多野とよべる山間にありて、字を宇多塚とよぶ。西東四丈、北南五丈許あり。丘陵の形なく、平坦なる、山地の四周に掘廻らしたる隍の跡あり。(中略)山陵志に丸山の頂をそれなりといへれど、(中略)丸山は、大内山のうちに最高く大きなる峯にて、御陵の西上にあり、頂上に御陵といふべき物なし。(中略)今もこの大内山なる丸山の東下に、宇多塚(御廟ともよぶ)とて在り伝はれるは、そのご葬所の御跡にて、諸書にいはゆる大内山陵にぞあるべき。」『山陵考 山城國 上』(谷森善臣)『勤王文庫 第3編 (山陵記集)』収録(p.342/大日本明道会,大正10) https://dl.ndl.go.jp/pid/959963/1/182
→宇多天皇 大内山陵のすぐ西のピーク(P241)=丸山とのこと。
絵図に「丸山」『聖蹟圖志』(津久井清影,187?年) https://dl.ndl.go.jp/pid/1910951/1/38
→絵図では宇多天皇陵のある山を「丸山」としている。
――――――――――――――――――――
参考に
論文『京都北山 の山容景観についての考察』
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jscejd/64/2/64_2_266/_pdf
京都山名マップ
https://www.yamareco.com/modules/diary/325440-detail-227736
コメント
この記録に関連する登山ルート
この場所を通る登山ルートは、まだ登録されていません。
ルートを登録する
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する