保津峡〜山上ヶ峰〜西梅津山探索〜烏ヶ岳〜松尾山


- GPS
- 05:12
- 距離
- 12.2km
- 登り
- 828m
- 下り
- 862m
コースタイム
過去天気図(気象庁) | 2023年07月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
帰り:京都市バス(内田町) |
写真
感想
◇西梅津山について
平成28年、西芳寺川林道に「西梅津山 入口」という石柱が立てられ、入口から踏み跡を辿ってゆくと新しい「西梅津山」の石柱と古い小さな「西梅」の石柱がありました。これまで「西梅津山」というものが謎だったのですが、いくつか予想を立ててみました。
そもそも「西梅津」という地名は江戸時代初め〜昭和初期まで使われていたもので、現在の右京区梅津の一部が「西梅津村」や「大字西梅津」と呼ばれていました。
・江戸時代初めごろ東梅津村と西梅津村が分れる。
・明治22年に両村併せて梅津村になる。ただし大字東梅津、大字西梅津として地名は残る。
・昭和6年、大字西梅津の区域は「梅津」を冠称する6町になる。
https://w.wiki/762q (Wikipedia 梅津村(京都府))
一方、江戸時代の古文書に、松尾の奥山が東西梅津村等の入会山であったとの記録があります。
「東西梅津村等が入込山の処分につき奉行所に訴える。[加藤(幸)家文書]元禄十一年九月二十五日」(国立国会図書館デジタルコレクション(要ログイン)『史料京都の歴史 第14巻 (右京区)』P.128-130)
https://dl.ndl.go.jp/pid/9576728/1/78
古来より松尾の奥山は東西梅津村等の入込山(入会山/一定の村落が木草を採取する山)であったものの、新たに留山(入山禁止)にされてしまったため、東西梅津村等が異議申立てしたとのこと。入込山の具体的範囲としては「則右字惣名ハ長尾幷かや尾と申、東ハ嵐山神領栄(堺)へ山ヲ限り、西北ハ大井川筋を限り、南ハ西芳寺谷川筋ヲ限り、境内分明ニ之有。」と示されていて、やや微妙なところはあるものの、石柱のある区域も東西梅津村等の入込山であった可能性がありそうです。
とすると「西梅津山」というのは「西梅津(村)の入込山」の意味で、古い石柱は境界石だったのではないかと思われます。また西梅津山の石柱まで明瞭な古道が残っているのは、生活(作業)のためかつてはよく歩かれていた名残なのかもしれません。古道を辿ってゆくと、今回新たにもう一つの古い石柱を見つけられたことからも境界石の可能性が高そうです。
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