記録ID: 9058417
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ハイキング
奥武蔵
【里山ハイク】官ノ倉山〜石尊山〜腰越城跡〜仙元山【電車で】
2025年12月13日(土) [日帰り]

体力度
3
日帰りが可能
- GPS
- 04:27
- 距離
- 14.6km
- 登り
- 597m
- 下り
- 636m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 3:25
- 休憩
- 1:03
- 合計
- 4:28
距離 14.6km
登り 597m
下り 636m
| 天候 | 晴れてましたが、遠くでは雲もあり、東京方面の見渡しはあまり望めませんでした。 |
|---|---|
| 過去天気図(気象庁) | 2025年12月の天気図 |
| アクセス |
利用交通機関:
電車
(東武鉄道の株主優待券を使用するため池袋を経由したした。) |
| コース状況/ 危険箇所等 |
とても歩きやすい。 石尊山からの破線コースで、腰越城跡手前の旧林道に出るところ一箇所だけ急降のロープ場が一瞬あり。それ以外は危険箇所なし。 |
写真
線路をくぐると詩の石碑や案内板がある。
なにやら
この句は、俳人金子兜太の句だそうで、金子兜太は埼玉県秩父郡皆野町の医師金子元春の長男として、大正8年(1919)に小川町の母の実家で生まれた。昭和24年(1949)6月から翌年の4月まで妻と長男の3人で、竹沢村(現小川町)木部に移り住んだことがあり、この句はその頃の生活を反映した句という事だそうだ。
なにやら
この句は、俳人金子兜太の句だそうで、金子兜太は埼玉県秩父郡皆野町の医師金子元春の長男として、大正8年(1919)に小川町の母の実家で生まれた。昭和24年(1949)6月から翌年の4月まで妻と長男の3人で、竹沢村(現小川町)木部に移り住んだことがあり、この句はその頃の生活を反映した句という事だそうだ。
靭負慈光尊
「慈光尊の由来
ここ小川町靱負(区)は遠く平安の末期から鎌倉時代にかけて地方武将としてその名を馳せた武蔵七党の支族竹沢二郎行高が居を構えた所(竹沢館)、下って天正十八年(一五九〇)小田原北條支配の腰越城が豊臣勢による北條攻で落城した際城主(守護職)山田伊賀守一族の一部が当地にのがれて農民として定住したとされる地、更にはこの奥の台地慈光平は関東天台の中心慈光寺(ときがわ町西平)前身の地であったともされているところ、かてて加えてこの区は交通の要衝に位置することなど正史と伝説、そして自然にも恵まれた条件の下で今日を迎えてきた。
こうした中一昨々年の始め国道バイパス関連野竹川改修工事中石碑が出土、これの紋章などから六百余年前の供養塔と判明、続く平成二年末小川町教育委員会が主催した石佛調査では、東武竹沢駅前路傍の石仏二体がいずれも三百余年を経た貴重なものと判断された。
さて、これより先区では駅前以北の町道(二〇六号)の土堤を整備して「躑躅どおり」としたが、たまたまこの道路が都市計画関連道路として拡巾改良となるため、町では特に計らい、環境景観等を配慮した工事を施工、これが動機となって石佛保存運動が台頭、これの一角に設置を見たものである。
慈光尊名は石碑出土場所に因み、他の二体(弁財天・庚申)と合せての呼称、施設は「房」と名付け、資金は協賛金を充てた。(以下省略)
(小川町竹沢東部郷土の文化財保存を勧める会掲示より)」(「猫のあと、寺社案内」より)
「慈光尊の由来
ここ小川町靱負(区)は遠く平安の末期から鎌倉時代にかけて地方武将としてその名を馳せた武蔵七党の支族竹沢二郎行高が居を構えた所(竹沢館)、下って天正十八年(一五九〇)小田原北條支配の腰越城が豊臣勢による北條攻で落城した際城主(守護職)山田伊賀守一族の一部が当地にのがれて農民として定住したとされる地、更にはこの奥の台地慈光平は関東天台の中心慈光寺(ときがわ町西平)前身の地であったともされているところ、かてて加えてこの区は交通の要衝に位置することなど正史と伝説、そして自然にも恵まれた条件の下で今日を迎えてきた。
こうした中一昨々年の始め国道バイパス関連野竹川改修工事中石碑が出土、これの紋章などから六百余年前の供養塔と判明、続く平成二年末小川町教育委員会が主催した石佛調査では、東武竹沢駅前路傍の石仏二体がいずれも三百余年を経た貴重なものと判断された。
さて、これより先区では駅前以北の町道(二〇六号)の土堤を整備して「躑躅どおり」としたが、たまたまこの道路が都市計画関連道路として拡巾改良となるため、町では特に計らい、環境景観等を配慮した工事を施工、これが動機となって石佛保存運動が台頭、これの一角に設置を見たものである。
慈光尊名は石碑出土場所に因み、他の二体(弁財天・庚申)と合せての呼称、施設は「房」と名付け、資金は協賛金を充てた。(以下省略)
(小川町竹沢東部郷土の文化財保存を勧める会掲示より)」(「猫のあと、寺社案内」より)
木部三光神社
三光神社は、建久年間(1190〜)奥州大河兼任の乱に際して活躍し、その後も武蔵荘園の武士として鎌倉幕府の基礎となってきた、児玉党(武蔵七党の一つ)の一族竹沢氏の子孫が建立したと伝えられている。
江戸時代までは、妙見社といわれ北辰妙見大菩薩を祀っていたが、明治初年の神仏分離により、日・月・星を祀る三光神社と改称している。
古くは、うろこぶきの神明造りの神殿であったが、明治二年に再建された。また、本堂上屋並びに拝殿は、昭和二十六年に建てられたものである。
昭和五十九年三月 埼玉県 小川町
三光神社は、建久年間(1190〜)奥州大河兼任の乱に際して活躍し、その後も武蔵荘園の武士として鎌倉幕府の基礎となってきた、児玉党(武蔵七党の一つ)の一族竹沢氏の子孫が建立したと伝えられている。
江戸時代までは、妙見社といわれ北辰妙見大菩薩を祀っていたが、明治初年の神仏分離により、日・月・星を祀る三光神社と改称している。
古くは、うろこぶきの神明造りの神殿であったが、明治二年に再建された。また、本堂上屋並びに拝殿は、昭和二十六年に建てられたものである。
昭和五十九年三月 埼玉県 小川町
スタート地点
「楽しくすべってください!!」
と注意喚起が書かれている。
楽しく滑れればいいが…
ちなみに、大人1回200円(別途100円で段ボールマットを買える…もちろん買う)
「楽しくすべってください!!」
と注意喚起が書かれている。
楽しく滑れればいいが…
ちなみに、大人1回200円(別途100円で段ボールマットを買える…もちろん買う)
撮影機器:
感想
全体的に非常に歩きやすいコースでした。
官ノ倉山は低山で初心者に人気のようで、けっこう団体さんがいました。石尊山あたりまでは人もそれなりにいましたが、石尊山から破線コースに行くと人気が少なく、また仙元山のコースは、登山者と出会いませんでした。人気ないようです。
初心者コースを2つ足したようなコースで、標高差が少ない反面、ロードが長かったです。
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