谷街道の起点は千曲市の稲荷山宿ですが長野市の綿内までは北国街道東脇往還(松代通り)とほぼ重なっています。北国街道は別に歩きたいので谷街道との追分である綿内からスタートします。
須坂駅から綿内までは長電バスを予定していましたが日曜日は運休だった(確認不足)🥲長野電鉄に乗ってきて須坂駅で降りてから呆然😱どうしようか散々悩んだ挙句、走って綿内まで移動(約7キロ)🏃♂️💨当初予定から40分遅れで綿内の西宮神社前からスタートです。
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11/30 9:12
谷街道の起点は千曲市の稲荷山宿ですが長野市の綿内までは北国街道東脇往還(松代通り)とほぼ重なっています。北国街道は別に歩きたいので谷街道との追分である綿内からスタートします。
須坂駅から綿内までは長電バスを予定していましたが日曜日は運休だった(確認不足)🥲長野電鉄に乗ってきて須坂駅で降りてから呆然😱どうしようか散々悩んだ挙句、走って綿内まで移動(約7キロ)🏃♂️💨当初予定から40分遅れで綿内の西宮神社前からスタートです。
西宮神社境内にある道標。
右 井上須坂 左 福島村山 小布施中野道
綿内村町邑青年会
御即位記念 大正四年拾壹月建立
綿内村は俗に綿内三千石といわれ須坂藩の重要な穀倉地域でした。江戸時代まれにみる大村綿内をほぼ南北に貫いているのが谷街道です(『歴史の道調査報告書 谷街道』より引用)
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11/30 9:13
西宮神社境内にある道標。
右 井上須坂 左 福島村山 小布施中野道
綿内村町邑青年会
御即位記念 大正四年拾壹月建立
綿内村は俗に綿内三千石といわれ須坂藩の重要な穀倉地域でした。江戸時代まれにみる大村綿内をほぼ南北に貫いているのが谷街道です(『歴史の道調査報告書 谷街道』より引用)
一般的には「綿内駅入口」信号の交差点が追分で右の道が谷街道とされていますが、明治初期の地図では追分は左の北国街道の先にあります。
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11/30 9:14
一般的には「綿内駅入口」信号の交差点が追分で右の道が谷街道とされていますが、明治初期の地図では追分は左の北国街道の先にあります。
信号から100mほど行くと右に曲がる道がある三叉路が北国街道と谷街道の本当の追分です。中山道と北国西街道(善光寺道)の洗馬の追分に似ています。
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11/30 9:15
信号から100mほど行くと右に曲がる道がある三叉路が北国街道と谷街道の本当の追分です。中山道と北国西街道(善光寺道)の洗馬の追分に似ています。
馬頭観音3基、供養塔、お地蔵さんが並んでいます。『歴史の道 北国街道を歩く』(平成12年)では4つの石仏とあるのでその時から増えているようです。そのほかにも両側に名前のない石や土台があります。旧綿内村内の石仏がここに集められているのでしょう🙏
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11/30 9:15
馬頭観音3基、供養塔、お地蔵さんが並んでいます。『歴史の道 北国街道を歩く』(平成12年)では4つの石仏とあるのでその時から増えているようです。そのほかにも両側に名前のない石や土台があります。旧綿内村内の石仏がここに集められているのでしょう🙏
Googleマップでは左の牛池集落の中を通る道を谷街道としていますが、古地図や伊能図では街道は集落の中を通っていないので右の道を進みます。
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11/30 9:25
Googleマップでは左の牛池集落の中を通る道を谷街道としていますが、古地図や伊能図では街道は集落の中を通っていないので右の道を進みます。
すると!家の片隅に何やら古そうな石碑を発見👀上部が欠けている上に文字がはっきり読めませんが馬頭観音でしょうか?これはどこの資料にも出ていなかったものです😆👍こういうのを発見するのが嬉しい🥹
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11/30 9:26
すると!家の片隅に何やら古そうな石碑を発見👀上部が欠けている上に文字がはっきり読めませんが馬頭観音でしょうか?これはどこの資料にも出ていなかったものです😆👍こういうのを発見するのが嬉しい🥹
双体道祖神と石祠があります。街道沿いですが牛池集落の出口にあるとも考えられます。
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11/30 9:28
双体道祖神と石祠があります。街道沿いですが牛池集落の出口にあるとも考えられます。
国道403号を一度離れ、長野電鉄屋代線の廃線跡(旧十九花踏切?)を横切ります。遊歩道になっています。
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11/30 9:31
国道403号を一度離れ、長野電鉄屋代線の廃線跡(旧十九花踏切?)を横切ります。遊歩道になっています。
正面に井上山、奥は妙徳山かな?
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11/30 9:32
正面に井上山、奥は妙徳山かな?
権五郎川を渡って須坂市に入ります。この川は何とイオンモール須坂の真下を通っているそうです(笑)権五郎川を渡ってすぐ右に曲がる道が谷街道の旧道です。
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11/30 9:34
権五郎川を渡って須坂市に入ります。この川は何とイオンモール須坂の真下を通っているそうです(笑)権五郎川を渡ってすぐ右に曲がる道が谷街道の旧道です。
その先の井上山の尾根の先端に十九ヶ塙(つづがはな)の船寄地蔵と夜燈があります。山の端で千曲川の流れや一面の洪水時に船寄せに利用された場所で、安全の願いから地蔵尊を祀り夜燈を建てたそうです(須坂のまるごと博物館ホームページより引用)上まで登って今日の無事安全を祈願しました🙏
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11/30 9:35
その先の井上山の尾根の先端に十九ヶ塙(つづがはな)の船寄地蔵と夜燈があります。山の端で千曲川の流れや一面の洪水時に船寄せに利用された場所で、安全の願いから地蔵尊を祀り夜燈を建てたそうです(須坂のまるごと博物館ホームページより引用)上まで登って今日の無事安全を祈願しました🙏
旧道は山が張り出している裾を通っていたそうです。まだ道が残っていますが獣除けの電気防護柵で覆われていて入れません。最近の熊出没を受けてでしょうか、ちゃんと電気が流れていて霜に反応してバチバチ音を立てています⚡️✴️昔はこの辺りに茶屋もあったそうです。
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11/30 9:39
旧道は山が張り出している裾を通っていたそうです。まだ道が残っていますが獣除けの電気防護柵で覆われていて入れません。最近の熊出没を受けてでしょうか、ちゃんと電気が流れていて霜に反応してバチバチ音を立てています⚡️✴️昔はこの辺りに茶屋もあったそうです。
長野県天然記念物の井上の枕状溶岩。平成4年指定。すぐ横に井上山、大洞山への登山口があります。
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11/30 9:41
長野県天然記念物の井上の枕状溶岩。平成4年指定。すぐ横に井上山、大洞山への登山口があります。
福島宿から仁礼宿まで歩いた時に通った大笹街道に合流。道標があります。
右 ぜんこうじ 左 まつしろ
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11/30 9:45
福島宿から仁礼宿まで歩いた時に通った大笹街道に合流。道標があります。
右 ぜんこうじ 左 まつしろ
200mほど東へ進むと大笹街道との追分です。「左 須坂中野道」とある道標の通り谷街道は左に曲がります。
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11/30 9:46
200mほど東へ進むと大笹街道との追分です。「左 須坂中野道」とある道標の通り谷街道は左に曲がります。
Googleマップは右の道を谷街道としていますが旧道は左の細い道です。分岐に何かないかなあと探していたら御幣が刺してありました。もしかしたら昔は道標のような石があったのかも?🧐
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11/30 9:49
Googleマップは右の道を谷街道としていますが旧道は左の細い道です。分岐に何かないかなあと探していたら御幣が刺してありました。もしかしたら昔は道標のような石があったのかも?🧐
国道403号にぶつかりますがこれを横切り、幸高南部交番の西側を通って井上小学校の西側へ向かう細い道が谷街道の旧道です。ここには横断歩道はないのでビュンビュン車が通り過ぎるのを待って急いで通過🏃♂️💨
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11/30 9:50
国道403号にぶつかりますがこれを横切り、幸高南部交番の西側を通って井上小学校の西側へ向かう細い道が谷街道の旧道です。ここには横断歩道はないのでビュンビュン車が通り過ぎるのを待って急いで通過🏃♂️💨
井上小学校の敷地の中を旧道が通過しています。
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11/30 9:53
井上小学校の敷地の中を旧道が通過しています。
昇降口近くに谷街道の説明板があります。わかりやすい👍稲荷山〜屋代間は明治23(1890→説明板の西暦が間違っている)年に編入されたというのは初めて知りました🤔でもこの区間はわずか2キロしかないんだよね〜
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11/30 9:53
昇降口近くに谷街道の説明板があります。わかりやすい👍稲荷山〜屋代間は明治23(1890→説明板の西暦が間違っている)年に編入されたというのは初めて知りました🤔でもこの区間はわずか2キロしかないんだよね〜
井上小学校入口に延國供養塔が2基あります。左側が文政7(1824)年、右側が天保14(1843)年建立で谷街道に沿って建てられていると説明板にあります。
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11/30 9:55
井上小学校入口に延國供養塔が2基あります。左側が文政7(1824)年、右側が天保14(1843)年建立で谷街道に沿って建てられていると説明板にあります。
ポカポカ陽気で外にいたネコちゃん🐈近寄ったら逃げてしまった😇
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11/30 9:56
ポカポカ陽気で外にいたネコちゃん🐈近寄ったら逃げてしまった😇
鮎川を渡ってすぐ右手の墓地の前に米持西蓮寺跡の地蔵尊。明和6(1769)年に鮎川の氾濫によって西蓮寺が流され墓地だけが残りました。文化13(1816)年に念佛行者として有名な徳本上人が信濃を巡錫した際に跡地に建立したもので、台座に徳本上人の字で南無阿弥陀佛と刻んであるそうです。
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11/30 9:59
鮎川を渡ってすぐ右手の墓地の前に米持西蓮寺跡の地蔵尊。明和6(1769)年に鮎川の氾濫によって西蓮寺が流され墓地だけが残りました。文化13(1816)年に念佛行者として有名な徳本上人が信濃を巡錫した際に跡地に建立したもので、台座に徳本上人の字で南無阿弥陀佛と刻んであるそうです。
市川橋の上から明覚山、奈良山、破風岳、土鍋山、浦倉山、根子岳まで。スタートが予定より40分遅れだったのでラン&ウォークのマラニックで進みます。
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11/30 10:04
市川橋の上から明覚山、奈良山、破風岳、土鍋山、浦倉山、根子岳まで。スタートが予定より40分遅れだったのでラン&ウォークのマラニックで進みます。
ほっともっとの反対側、「みざる・きかざる・いわざる」の三猿が刻まれているという庚申塔…がなかった⤵️
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11/30 10:07
ほっともっとの反対側、「みざる・きかざる・いわざる」の三猿が刻まれているという庚申塔…がなかった⤵️
「八幡町西」信号の交差点にある八幡追分の道標。「右 ぜん光寺 左 まつしろ道」と刻まれているそうです。この道を西(写真奥)に進むと福島宿の先にある北国街道の布野の渡しに繋がっていたようです。
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11/30 10:09
「八幡町西」信号の交差点にある八幡追分の道標。「右 ぜん光寺 左 まつしろ道」と刻まれているそうです。この道を西(写真奥)に進むと福島宿の先にある北国街道の布野の渡しに繋がっていたようです。
道路の反対側にあるもう一つの道標。「右 仁礼道 左 須坂道」と刻まれているそうです。仁礼道は大笹街道のことで、この道を東に進むと栃倉の道標のところに繋がっていたようです。
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11/30 10:09
道路の反対側にあるもう一つの道標。「右 仁礼道 左 須坂道」と刻まれているそうです。仁礼道は大笹街道のことで、この道を東に進むと栃倉の道標のところに繋がっていたようです。
寛政6(1794)年の立像と天保10(1839)年の座像の地蔵尊。同じ敷地には八幡町の第二公会堂があり庚申像が安置されているそうです。
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11/30 10:10
寛政6(1794)年の立像と天保10(1839)年の座像の地蔵尊。同じ敷地には八幡町の第二公会堂があり庚申像が安置されているそうです。
八幡の墨坂神社。由緒は難しいので省略します(笑)古い神社で須田氏や堀氏、武田信玄も武運長久(戦に勝ち無事に帰る)の寄進をしたと説明板にありました。
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11/30 10:14
八幡の墨坂神社。由緒は難しいので省略します(笑)古い神社で須田氏や堀氏、武田信玄も武運長久(戦に勝ち無事に帰る)の寄進をしたと説明板にありました。
文化11(1814)年5月4日(新暦6月21日)に伊能忠敬が須坂に来て測量したことが書かれています。伊能は第8次測量で浅野村(現長野市豊野)〜飯山〜小布施〜須坂〜松代と移動して測量をしたことが記録に残っています。須坂には現田中本家(博物館)に泊まったそうです。
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11/30 10:14
文化11(1814)年5月4日(新暦6月21日)に伊能忠敬が須坂に来て測量したことが書かれています。伊能は第8次測量で浅野村(現長野市豊野)〜飯山〜小布施〜須坂〜松代と移動して測量をしたことが記録に残っています。須坂には現田中本家(博物館)に泊まったそうです。
国道403号を一旦離れて左折し細い道に入った所にある上の水神祠。右の水路の水が墨坂神社の境内を流れて清められ飲用水、生活用水、水田の灌漑用水になった、とあります。今はあまりに便利すぎて私たちはそのありがたみをなかなか実感できませんが、水は昔の人にとって本当に大切なものだったのだと考えさせられます。
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11/30 10:17
国道403号を一旦離れて左折し細い道に入った所にある上の水神祠。右の水路の水が墨坂神社の境内を流れて清められ飲用水、生活用水、水田の灌漑用水になった、とあります。今はあまりに便利すぎて私たちはそのありがたみをなかなか実感できませんが、水は昔の人にとって本当に大切なものだったのだと考えさせられます。
この細い道が谷街道の旧道ですが、しばらくすると森上小学校のプールにぶつかり進めなくなるのでグルッと迂回します。
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11/30 10:18
この細い道が谷街道の旧道ですが、しばらくすると森上小学校のプールにぶつかり進めなくなるのでグルッと迂回します。
迂回して森上小学校と横の個人宅の敷地との間にある伊能忠敬測量の谷街道あとの説明板。個人宅の方に説明板が向いているので敷地に入らないと見れません(ちょうど車が出るところでした)💦
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11/30 10:21
迂回して森上小学校と横の個人宅の敷地との間にある伊能忠敬測量の谷街道あとの説明板。個人宅の方に説明板が向いているので敷地に入らないと見れません(ちょうど車が出るところでした)💦
国道403号に合流。右手に延命地蔵尊。延命、出産、子育ての守護菩薩として多くの人が参拝しているそうです。同じ敷地内に庚申塔や馬頭観音、三界萬霊塔などが集められています。
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11/30 10:25
国道403号に合流。右手に延命地蔵尊。延命、出産、子育ての守護菩薩として多くの人が参拝しているそうです。同じ敷地内に庚申塔や馬頭観音、三界萬霊塔などが集められています。
須坂の中心部に入ってきました。谷街道は国道406号と交差し交番のある交差点を右に曲がって横町の方に向かいます。須坂商店街、いわゆる銀座通りです。
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11/30 10:26
須坂の中心部に入ってきました。谷街道は国道406号と交差し交番のある交差点を右に曲がって横町の方に向かいます。須坂商店街、いわゆる銀座通りです。
ぼたもち石の土蔵。手間がかかる高度な職人の技であり、須坂が生糸で大きく繁栄していた当時を偲ばせるとの説明文があります。
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11/30 10:27
ぼたもち石の土蔵。手間がかかる高度な職人の技であり、須坂が生糸で大きく繁栄していた当時を偲ばせるとの説明文があります。
須坂市は蔵の町並みでまちづくりを進めています。古い蔵はなるべく残し、新しく造る建物は周囲の景観に合わせています。すぐに埼玉の川越市のようにはならないと思いますが、長い目線で見た時に地道な取り組みが身を結ぶといいですね(この後通った小布施町と違い観光客らしき人はほとんど歩いていなかったけど)
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11/30 10:28
須坂市は蔵の町並みでまちづくりを進めています。古い蔵はなるべく残し、新しく造る建物は周囲の景観に合わせています。すぐに埼玉の川越市のようにはならないと思いますが、長い目線で見た時に地道な取り組みが身を結ぶといいですね(この後通った小布施町と違い観光客らしき人はほとんど歩いていなかったけど)
YouTubeで有名な廃墟商店街のパルム。昨年9月に閉鎖が決定し店舗はすべて廃業または移転となりました。
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11/30 10:29
YouTubeで有名な廃墟商店街のパルム。昨年9月に閉鎖が決定し店舗はすべて廃業または移転となりました。
観世音菩薩と子育て地蔵尊。芝宮の墨坂神社参道横のお寺に祀られていたが現在の地に移転。近くには道祖神などの石碑もあります。
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11/30 10:32
観世音菩薩と子育て地蔵尊。芝宮の墨坂神社参道横のお寺に祀られていたが現在の地に移転。近くには道祖神などの石碑もあります。
谷街道、仁礼道(大笹街道)、山田道(草津道)の四辻に立つ須坂町並みの起点道標。横には再建された須坂町道路元標もあります。かつてはこの近くに高札場もあったそうです。明治大正期に製糸業で栄えた須坂の中心地だったのですね。
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11/30 10:33
谷街道、仁礼道(大笹街道)、山田道(草津道)の四辻に立つ須坂町並みの起点道標。横には再建された須坂町道路元標もあります。かつてはこの近くに高札場もあったそうです。明治大正期に製糸業で栄えた須坂の中心地だったのですね。
長野県宝の旧小田切家住宅。小田切家は大笹街道と谷街道が交差する町の中心地に居を構え、麹(こうじ)、酒造、油、蚕糸、呉服商などを営む豪商として、幕末まで町年寄りや須坂藩の御用達を勤めていました。明治3(1870)年の須坂騒動の際に多くの建物が打ちこわしにあったと伝えられ、現存する建物のほとんどは明治時代に小田切辰之助が再建したものです(いけいけすざかホームページより引用)
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11/30 10:35
長野県宝の旧小田切家住宅。小田切家は大笹街道と谷街道が交差する町の中心地に居を構え、麹(こうじ)、酒造、油、蚕糸、呉服商などを営む豪商として、幕末まで町年寄りや須坂藩の御用達を勤めていました。明治3(1870)年の須坂騒動の際に多くの建物が打ちこわしにあったと伝えられ、現存する建物のほとんどは明治時代に小田切辰之助が再建したものです(いけいけすざかホームページより引用)
国登録有形文化財の旧越家住宅。須坂の製糸王と称された越寿三郎ゆかりの建物だそうです。
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11/30 10:37
国登録有形文化財の旧越家住宅。須坂の製糸王と称された越寿三郎ゆかりの建物だそうです。
「春木町」信号の交差点。この交差点は大正期以降に作られたものですが右角に道標があります。
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11/30 10:39
「春木町」信号の交差点。この交差点は大正期以降に作られたものですが右角に道標があります。
「右 をふせ 左 大島 道」
上部が欠けていており側面に刻まれた建立年も読みづらいのですが「文政十年丁亥之春三月」と刻まれているようです。前述の通り、この交差点は大正期以降にできたものなので、この道標も本来は30mほど南側にあったものだと推察します。
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11/30 10:40
「右 をふせ 左 大島 道」
上部が欠けていており側面に刻まれた建立年も読みづらいのですが「文政十年丁亥之春三月」と刻まれているようです。前述の通り、この交差点は大正期以降にできたものなので、この道標も本来は30mほど南側にあったものだと推察します。
古地図などから春木町交差点の南側の道が谷街道の旧道と思われます。
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11/30 10:42
古地図などから春木町交差点の南側の道が谷街道の旧道と思われます。
国道403号に合流し旧日滝村の相杜神社。今この周辺は相森(おおもり)といいますが、江戸時代はじめに計画された開拓村で慶安5(1652)年に相森堰が道路中央に引かれ4年後の明暦2年に相森新田組として発足した…と少し離れた場所にある説明板にありました。
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11/30 10:47
国道403号に合流し旧日滝村の相杜神社。今この周辺は相森(おおもり)といいますが、江戸時代はじめに計画された開拓村で慶安5(1652)年に相森堰が道路中央に引かれ4年後の明暦2年に相森新田組として発足した…と少し離れた場所にある説明板にありました。
真っ直ぐ進んでいる国道403号は昭和9年に開通した新道です。谷街道の旧道は左の道です。Googleマップでも谷街道としています。
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11/30 10:52
真っ直ぐ進んでいる国道403号は昭和9年に開通した新道です。谷街道の旧道は左の道です。Googleマップでも谷街道としています。
分岐に立つ蚕神さん。これも養蚕と製糸の町であった須坂らしい名前の祠です。
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11/30 10:52
分岐に立つ蚕神さん。これも養蚕と製糸の町であった須坂らしい名前の祠です。
人気店のつけめん丸長の反対側にある庚申塔と二十三夜塔。
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11/30 10:58
人気店のつけめん丸長の反対側にある庚申塔と二十三夜塔。
居(ゐ)ずか地蔵。善光寺が焼け再建寄付に回った帰り、如来様が夢に出て「ここにいずか(いようか)」といわれたのが由来とのこと(説明板より)。初代は慶安3(1650)年に建てられていて、これは嘉永3(1851)年の二代目だという。周りにたくさんの石仏が集められています。
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11/30 11:02
居(ゐ)ずか地蔵。善光寺が焼け再建寄付に回った帰り、如来様が夢に出て「ここにいずか(いようか)」といわれたのが由来とのこと(説明板より)。初代は慶安3(1650)年に建てられていて、これは嘉永3(1851)年の二代目だという。周りにたくさんの石仏が集められています。
「旭ヶ丘」信号の交差点。正面の家の左右に道があり、左が国道403号、右が慶長年間(1596〜1614)までの谷街道で小布施の六川村へ抜けていました。それ以降は左の道が谷街道に付け替えられたそうです。右の横断歩道の奥に道標があります。
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11/30 11:04
「旭ヶ丘」信号の交差点。正面の家の左右に道があり、左が国道403号、右が慶長年間(1596〜1614)までの谷街道で小布施の六川村へ抜けていました。それ以降は左の道が谷街道に付け替えられたそうです。右の横断歩道の奥に道標があります。
馬頭観音道標。
右 湯田中澁湯道 左 小布施道
裏面に「天保五甲午年」と刻んでありました(1834年)
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11/30 11:04
馬頭観音道標。
右 湯田中澁湯道 左 小布施道
裏面に「天保五甲午年」と刻んでありました(1834年)
昭和初期までの谷街道は現在の松川橋の東側に橋があって渡っていました。谷街道の名残りの道を歩きます。
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11/30 11:13
昭和初期までの谷街道は現在の松川橋の東側に橋があって渡っていました。谷街道の名残りの道を歩きます。
松川橋の上から北信五岳、なんとか全部入りました。
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11/30 11:14
松川橋の上から北信五岳、なんとか全部入りました。
逢瀬神社。小布施の旧十六ヶ郷の総鎮守(氏神)だそう。小布施の地名はこの「逢瀬」から来ているという説が一般的には有力のようだが、神社の横の説明文には「明治22年小布施諏訪宮又は諏訪社と称せしを逢瀬神社と改称」とあり年代がズレているので少し怪しいかも?北側が正門と書いてあったのでそちらから出ます。
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11/30 11:19
逢瀬神社。小布施の旧十六ヶ郷の総鎮守(氏神)だそう。小布施の地名はこの「逢瀬」から来ているという説が一般的には有力のようだが、神社の横の説明文には「明治22年小布施諏訪宮又は諏訪社と称せしを逢瀬神社と改称」とあり年代がズレているので少し怪しいかも?北側が正門と書いてあったのでそちらから出ます。
「上町」信号の交差点にある道標。
右 すさか道 左 山田道
とあり、ここが上州干俣に抜ける信州側の毛無道の起点とされています。
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11/30 11:23
「上町」信号の交差点にある道標。
右 すさか道 左 山田道
とあり、ここが上州干俣に抜ける信州側の毛無道の起点とされています。
どら焼山で有名な竹風堂本店。テレビでドラえもんが放映される直前には必ずといっていいほど竹風堂のどら焼山のCMが流れていましたが長野県だけだったのかな?🤔カブト虫のオブジェは奥に移動しています。
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11/30 11:26
どら焼山で有名な竹風堂本店。テレビでドラえもんが放映される直前には必ずといっていいほど竹風堂のどら焼山のCMが流れていましたが長野県だけだったのかな?🤔カブト虫のオブジェは奥に移動しています。
進行方向向かって左手奥に小布施陣屋跡。小布施は松代藩、椎谷藩(新潟県柏崎市)など複雑な支配下に置かれていましたが、幕府直轄の天領もあり陣屋が置かれたそうです(1701〜1715年)
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11/30 11:26
進行方向向かって左手奥に小布施陣屋跡。小布施は松代藩、椎谷藩(新潟県柏崎市)など複雑な支配下に置かれていましたが、幕府直轄の天領もあり陣屋が置かれたそうです(1701〜1715年)
小布施堂・桝一市村酒造を営む市村家の江戸時代中期から残る正門。葛飾北斎は83〜89歳までの間に都合4度小布施に逗留しました。天保の改革(1841年)により浮世絵が娯楽として規制の対象になったこともあり、江戸で出会った小布施の豪農商・高井鴻山を頼って来訪、肉筆画を中心に自身の画業の集大成となる数々の作品を制作しました。 天保13(1842)年、北斎が中山道〜北国街道〜谷街道と繋いで初めてこの正門をくぐったのは夜のことだったそうです。
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11/30 11:26
小布施堂・桝一市村酒造を営む市村家の江戸時代中期から残る正門。葛飾北斎は83〜89歳までの間に都合4度小布施に逗留しました。天保の改革(1841年)により浮世絵が娯楽として規制の対象になったこともあり、江戸で出会った小布施の豪農商・高井鴻山を頼って来訪、肉筆画を中心に自身の画業の集大成となる数々の作品を制作しました。 天保13(1842)年、北斎が中山道〜北国街道〜谷街道と繋いで初めてこの正門をくぐったのは夜のことだったそうです。
正門前にある駒つなぎ石。馬の出綱を結んだ石です。元々ここにあったわけではなく都度移動しているようです。
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11/30 11:26
正門前にある駒つなぎ石。馬の出綱を結んだ石です。元々ここにあったわけではなく都度移動しているようです。
小布施堂本店前の栗木歩道。栗の木を敷き詰めた風情ある町並みに年間120万人の観光客が訪れるといいますが、2025年の上高地の観光客数が166万人と聞き、小布施にそんなに来ているか?というのが最近の私の感覚です🙂
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11/30 11:26
小布施堂本店前の栗木歩道。栗の木を敷き詰めた風情ある町並みに年間120万人の観光客が訪れるといいますが、2025年の上高地の観光客数が166万人と聞き、小布施にそんなに来ているか?というのが最近の私の感覚です🙂
「中町南」信号の交差点にある市神様。江戸時代、谷街道と谷脇街道(福島宿〜村山〜小布施)の交差点であるこの場所を中心に開かれていたという六斎市の守護神です。明治期以降、今も続く安市のためこの先の皇大神社に移動されていたものを近年またこちらに移動したようです。
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11/30 11:27
「中町南」信号の交差点にある市神様。江戸時代、谷街道と谷脇街道(福島宿〜村山〜小布施)の交差点であるこの場所を中心に開かれていたという六斎市の守護神です。明治期以降、今も続く安市のためこの先の皇大神社に移動されていたものを近年またこちらに移動したようです。
市神様の反対側にある小布施村道路元標。
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11/30 11:27
市神様の反対側にある小布施村道路元標。
小布施はオシャレで落ち着いたカフェがどんどんできています。まだまだ現在進行形のまちづくりですね。
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11/30 11:28
小布施はオシャレで落ち着いたカフェがどんどんできています。まだまだ現在進行形のまちづくりですね。
皇大神社前を通る谷街道、古地図や昭和初期までの地図を見ると以前はもっと桝形のようになっていたようです。谷街道は幕府や諸藩の公式な街道ではないので宿場町はないのですが小布施は宿場も兼ねていたと思われ、宿場の北端であるこの場所に桝形と神社があったのでしょうか。
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11/30 11:29
皇大神社前を通る谷街道、古地図や昭和初期までの地図を見ると以前はもっと桝形のようになっていたようです。谷街道は幕府や諸藩の公式な街道ではないので宿場町はないのですが小布施は宿場も兼ねていたと思われ、宿場の北端であるこの場所に桝形と神社があったのでしょうか。
皇大神社。伊勢神宮の御分霊を歓請して守護神として祀っています。1月14・15日には安市というだるま市が行われ、行者による火渡りの神事などで賑やかになります。
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11/30 11:30
皇大神社。伊勢神宮の御分霊を歓請して守護神として祀っています。1月14・15日には安市というだるま市が行われ、行者による火渡りの神事などで賑やかになります。
国道403号は長野電鉄の上を通る陸橋となりますが当然、昔はこんな橋があるわけはなく、谷街道は左下に降りていく道です。ただし今は長野電鉄の線路もあり真っ直ぐ抜けられないので迂回します。
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11/30 11:33
国道403号は長野電鉄の上を通る陸橋となりますが当然、昔はこんな橋があるわけはなく、谷街道は左下に降りていく道です。ただし今は長野電鉄の線路もあり真っ直ぐ抜けられないので迂回します。
国道403号に戻ってしばらく行くと栗の木の大木。昔はこうした大木の栗の木が多かったようですが最近はJA等の指導で矮化栽培が増え、うっそうとしたいわゆる「栗林」は姿を消しつつあるようです。
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11/30 11:40
国道403号に戻ってしばらく行くと栗の木の大木。昔はこうした大木の栗の木が多かったようですが最近はJA等の指導で矮化栽培が増え、うっそうとしたいわゆる「栗林」は姿を消しつつあるようです。
嘉永3(1850)年の庚申塔(右)と浮彫青面金剛(左)。2つともここに移動されてきたもののようです。
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11/30 11:41
嘉永3(1850)年の庚申塔(右)と浮彫青面金剛(左)。2つともここに移動されてきたもののようです。
国道403号は真っ直ぐですが谷街道の旧道は左の細い道です。200mほど進むと道が消えてプチ藪漕ぎでまたひっつき虫だらけに😇
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11/30 11:42
国道403号は真っ直ぐですが谷街道の旧道は左の細い道です。200mほど進むと道が消えてプチ藪漕ぎでまたひっつき虫だらけに😇
「矢島」信号の交差点が三軒茶屋跡。北東に松の木が数本あり江戸末期には3軒の茶屋があった。標柱には「昭和7〜8年頃まで運送は馬車や荷車で馬方はここで馬を松の木につなぎ「一杯」の酒を楽しんだ」と記されています。三軒茶屋なので私もここで一息入れます☕️🍫正面に道標があります。
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11/30 11:47
「矢島」信号の交差点が三軒茶屋跡。北東に松の木が数本あり江戸末期には3軒の茶屋があった。標柱には「昭和7〜8年頃まで運送は馬車や荷車で馬方はここで馬を松の木につなぎ「一杯」の酒を楽しんだ」と記されています。三軒茶屋なので私もここで一息入れます☕️🍫正面に道標があります。
(南面)右 飯山道 左 あん源ぢ
(北面)右 松志ろ道 左 高いの道
ただし35年ほど前の小布施町の資料ではここに以前あったとされる庚申塔道標は清水公会堂に移転したとあります(庚申塔は現存)。この道標はそれ以降にどこからか移設されたのもののようですが、いつからここにあるのか、元々どこにあった道標なのかは不明です。
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11/30 11:47
(南面)右 飯山道 左 あん源ぢ
(北面)右 松志ろ道 左 高いの道
ただし35年ほど前の小布施町の資料ではここに以前あったとされる庚申塔道標は清水公会堂に移転したとあります(庚申塔は現存)。この道標はそれ以降にどこからか移設されたのもののようですが、いつからここにあるのか、元々どこにあった道標なのかは不明です。
ここも旧道は左の細い道へ。200mほど行くと建設会社の敷地にぶつかりまたまたプチ藪漕ぎ、幅広い用水路をジャンプして通過🏃💨
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11/30 11:59
ここも旧道は左の細い道へ。200mほど行くと建設会社の敷地にぶつかりまたまたプチ藪漕ぎ、幅広い用水路をジャンプして通過🏃💨
右手に三沢山。とてもいい天気です☀️
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11/30 12:05
右手に三沢山。とてもいい天気です☀️
草間の入口に大正14年に建てられたという道標があります。谷街道側に矢印(↔︎)があり、右側には「中野町ニ至ル」左側には「小布施ニ至ル」と刻まれています。草間に通じる道側には「草間ヲ経テ豊野駅及上今井駅(ニ至ル?)」と刻まれています。豊野駅は明治21(1888)年、上今井駅は大正10(1921)年開業でそれ以前にはこの東西の道は地図にはありません。信越線の開通によって新たに作られた道と道標なのですね。
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11/30 12:06
草間の入口に大正14年に建てられたという道標があります。谷街道側に矢印(↔︎)があり、右側には「中野町ニ至ル」左側には「小布施ニ至ル」と刻まれています。草間に通じる道側には「草間ヲ経テ豊野駅及上今井駅(ニ至ル?)」と刻まれています。豊野駅は明治21(1888)年、上今井駅は大正10(1921)年開業でそれ以前にはこの東西の道は地図にはありません。信越線の開通によって新たに作られた道と道標なのですね。
正面に高社山、右に飯盛山と夕日山。
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11/30 12:08
正面に高社山、右に飯盛山と夕日山。
「東江部」信号の交差点。谷街道はここで2手に分かれます。右の道は中野市街地を通り、左の道(国道403号)は江部から吉田を経て若宮で合流します。Googleマップは右の道を谷街道としています。
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11/30 12:15
「東江部」信号の交差点。谷街道はここで2手に分かれます。右の道は中野市街地を通り、左の道(国道403号)は江部から吉田を経て若宮で合流します。Googleマップは右の道を谷街道としています。
交差点の奥に庚申塔道標と馬頭観音があります。
道標には「右 中野 左 いい山」と刻まれているそうです。
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11/30 12:15
交差点の奥に庚申塔道標と馬頭観音があります。
道標には「右 中野 左 いい山」と刻まれているそうです。
今日は左の国道403号の谷街道を進んでみます。200mほど進むと左側に秋葉大権現の鳥居と祠があります。正面の祠には「寶歴十三癸未三月」「東江部村山田庄左衛門」と彫られています。脇にも3つほど古い祠があります。
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11/30 12:18
今日は左の国道403号の谷街道を進んでみます。200mほど進むと左側に秋葉大権現の鳥居と祠があります。正面の祠には「寶歴十三癸未三月」「東江部村山田庄左衛門」と彫られています。脇にも3つほど古い祠があります。
国登録有形文化財の旧山田家住宅。江戸時代初期の来住と伝わる山田庄左衛門家(先ほどの秋葉大権現の祠に刻まれている人と同じの名前)の土蔵郡、家屋敷、庭園と収蔵資料を公開しているそうです。
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11/30 12:21
国登録有形文化財の旧山田家住宅。江戸時代初期の来住と伝わる山田庄左衛門家(先ほどの秋葉大権現の祠に刻まれている人と同じの名前)の土蔵郡、家屋敷、庭園と収蔵資料を公開しているそうです。
間口が100m以上ある旧山田家住宅の北東の交差点角にある石仏群。お地蔵さんや供養塔など様々な石碑がまとめられています。
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11/30 12:23
間口が100m以上ある旧山田家住宅の北東の交差点角にある石仏群。お地蔵さんや供養塔など様々な石碑がまとめられています。
石仏群からポツンと離れて置かれている出征軍馬馬頭観音。裏には昭和十三年と刻まれています。日中戦争では戦車の利用が困難な中国大陸の戦況の中、馬は重要な輸送・牽引手段であり軍役に服した馬は100万頭ともいわれているそうです。
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11/30 12:23
石仏群からポツンと離れて置かれている出征軍馬馬頭観音。裏には昭和十三年と刻まれています。日中戦争では戦車の利用が困難な中国大陸の戦況の中、馬は重要な輸送・牽引手段であり軍役に服した馬は100万頭ともいわれているそうです。
大草稲荷(西江部神社)。寛保2(1742)年の「戌の満水」により甚大な被害を受けた西江部では、年貢の切り替え嘆願を出しつづけ、70数年後の文政元(1818)年にやっと受け入れられ、この時の代官に感謝し設置したものだそうです。
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11/30 12:29
大草稲荷(西江部神社)。寛保2(1742)年の「戌の満水」により甚大な被害を受けた西江部では、年貢の切り替え嘆願を出しつづけ、70数年後の文政元(1818)年にやっと受け入れられ、この時の代官に感謝し設置したものだそうです。
平野小学校南にある「市民プール入口」信号の交差点にある平野村道路元標。
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11/30 12:30
平野小学校南にある「市民プール入口」信号の交差点にある平野村道路元標。
「江部」信号の交差点の少し西側にある庚申祠と地蔵尊。庚申祠には「元文二丁巳十月 西江部村同行十八人」と刻まれており、一里塚の庚申塔と呼ばれている。文久2(1862)年の吉田村絵図に一里塚の名が見えるとのこと(『歴史の道調査報告書 谷街道』より)
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11/30 12:33
「江部」信号の交差点の少し西側にある庚申祠と地蔵尊。庚申祠には「元文二丁巳十月 西江部村同行十八人」と刻まれており、一里塚の庚申塔と呼ばれている。文久2(1862)年の吉田村絵図に一里塚の名が見えるとのこと(『歴史の道調査報告書 谷街道』より)
「江部」信号の交差点を東に曲がり国道403号を離れて県道29号中野豊野線を進みます。ある家のガレージ下に石祠。氏神様でしょうか。
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11/30 12:37
「江部」信号の交差点を東に曲がり国道403号を離れて県道29号中野豊野線を進みます。ある家のガレージ下に石祠。氏神様でしょうか。
谷街道の旧道は天領誉酒造の方に曲がっています。道がそのまま残っています。
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11/30 12:39
谷街道の旧道は天領誉酒造の方に曲がっています。道がそのまま残っています。
道の突き当たりに岩船地蔵尊。日本三大岩船地蔵だそう。伊能忠敬も第8次測量(文化11(1814)年)の際に訪れ「岩船村字新田に岩舟地蔵堂あり、日本三地蔵の内なりという」と記録しているそうです。周辺には金毘羅大権現、天満天宮、如意輪観音堂のほか供養塔や庚申塔、観音像などの石碑がたくさんあります。
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11/30 12:41
道の突き当たりに岩船地蔵尊。日本三大岩船地蔵だそう。伊能忠敬も第8次測量(文化11(1814)年)の際に訪れ「岩船村字新田に岩舟地蔵堂あり、日本三地蔵の内なりという」と記録しているそうです。周辺には金毘羅大権現、天満天宮、如意輪観音堂のほか供養塔や庚申塔、観音像などの石碑がたくさんあります。
岩船地蔵尊略縁起。弘法大師、平城天皇第三皇子、源頼朝が御参詣したとあります(ほんとかいな)🙄
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11/30 12:41
岩船地蔵尊略縁起。弘法大師、平城天皇第三皇子、源頼朝が御参詣したとあります(ほんとかいな)🙄
船乗り地蔵。子宝・安産・長寿の地蔵菩薩です。周りにたくさんの石仏があります。お地蔵さんが多い。
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11/30 12:42
船乗り地蔵。子宝・安産・長寿の地蔵菩薩です。周りにたくさんの石仏があります。お地蔵さんが多い。
「かみよ塚」または「しんのう塚」の名がある石仏群。南無阿弥陀仏念仏供養塔、石祠、馬頭観音、百番観音供養塔などがあります。隣接して茶屋があったと伝えられています。吉田のものが集められているのでしょう。
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11/30 12:43
「かみよ塚」または「しんのう塚」の名がある石仏群。南無阿弥陀仏念仏供養塔、石祠、馬頭観音、百番観音供養塔などがあります。隣接して茶屋があったと伝えられています。吉田のものが集められているのでしょう。
「岩船」信号の交差点を左に曲がる所に道標が2つあります。
左の馬頭観音道標
右 なか能ミち 左 いひ山ミち
右の棒状の道標
→中野町ヲ経テ平穏温泉ニ通ス
←高丘村ヲ経テ◯◯方面に通ス
←當吉田ヲ経テ平岡村 若宮ニテ谷街道ニ合ス
谷街道という文字があるので明治中期以降のものですね。吉田青年団が建てたそう。草間入口にあった道標に似ています。途中で折れてしまったものを修復してあるように見えます。
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11/30 12:45
「岩船」信号の交差点を左に曲がる所に道標が2つあります。
左の馬頭観音道標
右 なか能ミち 左 いひ山ミち
右の棒状の道標
→中野町ヲ経テ平穏温泉ニ通ス
←高丘村ヲ経テ◯◯方面に通ス
←當吉田ヲ経テ平岡村 若宮ニテ谷街道ニ合ス
谷街道という文字があるので明治中期以降のものですね。吉田青年団が建てたそう。草間入口にあった道標に似ています。途中で折れてしまったものを修復してあるように見えます。
千手観音。文字塔は珍しい。浅川西条から白岩峰に登っていくと文字ばかりの観音様あったなぁ。裏に文字が彫ってあったが読めず。
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11/30 12:47
千手観音。文字塔は珍しい。浅川西条から白岩峰に登っていくと文字ばかりの観音様あったなぁ。裏に文字が彫ってあったが読めず。
分岐に庚申塔が2つ。左側のものは3mはあろうかというくらいビッグでビッグリ🤭庚申塔の反対側には線彫りの石仏がありました。
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11/30 12:52
分岐に庚申塔が2つ。左側のものは3mはあろうかというくらいビッグでビッグリ🤭庚申塔の反対側には線彫りの石仏がありました。
信州中野自動車学校の脇を抜けて長野電鉄木島線の踏切跡を渡ります。
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11/30 12:54
信州中野自動車学校の脇を抜けて長野電鉄木島線の踏切跡を渡ります。
妙高山。外輪山の赤倉山と三田原山がはっきり見えます。左は金山と天狗原山かな?
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11/30 12:57
妙高山。外輪山の赤倉山と三田原山がはっきり見えます。左は金山と天狗原山かな?
デリシアの横を北上し国道292号を渡る手前に石仏群。供養塔、庚申塔、道祖神、猿田彦神塔など7基。丁寧な説明板があります。道路整備などで撤去されここに集められたのでしょう。
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11/30 13:02
デリシアの横を北上し国道292号を渡る手前に石仏群。供養塔、庚申塔、道祖神、猿田彦神塔など7基。丁寧な説明板があります。道路整備などで撤去されここに集められたのでしょう。
国道292号を渡ってすぐ、ここにも道標が2つあります。
右の庚申塔道標
右 松しろ 左 中の道
左の棒状の道標
長丘村ヲ経テ豊野方面ニ至ル
長丘村は明治22(1889)年に七瀬村、田麦村、壁田村、大俣村、厚貝村が合併してできた村なのでそれ以降の道標ですね。側面を確認するのを忘れた。
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11/30 13:03
国道292号を渡ってすぐ、ここにも道標が2つあります。
右の庚申塔道標
右 松しろ 左 中の道
左の棒状の道標
長丘村ヲ経テ豊野方面ニ至ル
長丘村は明治22(1889)年に七瀬村、田麦村、壁田村、大俣村、厚貝村が合併してできた村なのでそれ以降の道標ですね。側面を確認するのを忘れた。
未舗装の道を経て県道29号にぶつかりました。東江部で分岐して中野市街地を通ってきた谷街道とここで合流します。スタートは計画より40分遅れでしたがランニングも絡めてマラニック的に歩いてきたので、予定の時間より少し早くこの合流点に到着です。
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11/30 13:10
未舗装の道を経て県道29号にぶつかりました。東江部で分岐して中野市街地を通ってきた谷街道とここで合流します。スタートは計画より40分遅れでしたがランニングも絡めてマラニック的に歩いてきたので、予定の時間より少し早くこの合流点に到着です。
『歴史の道調査報告書 谷街道』ではこの付近に丸い自然石に「庚申塔」と刻まれ「右松ハしろ 左中の道」と刻んだ道標があるとされているが発見できず。ただ合流点の横に針金で括られた石がありました。文字は確認できませんでしたが道標のような役割の石なのかも。
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11/30 13:11
『歴史の道調査報告書 谷街道』ではこの付近に丸い自然石に「庚申塔」と刻まれ「右松ハしろ 左中の道」と刻んだ道標があるとされているが発見できず。ただ合流点の横に針金で括られた石がありました。文字は確認できませんでしたが道標のような役割の石なのかも。
二十三夜塔。文化という元号だけ読めました。
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11/30 13:12
二十三夜塔。文化という元号だけ読めました。
左に竜王山、その手前に臂出山(わかりづらい)。雪が見えるのは小丸山スキー場と竜王スキーパークかな?右は五輪山。
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11/30 13:12
左に竜王山、その手前に臂出山(わかりづらい)。雪が見えるのは小丸山スキー場と竜王スキーパークかな?右は五輪山。
若宮八幡神社。境内には金刀比羅大神、猿田彦大神、牛頭天王、霊神碑などが建っています。今日の谷街道歩きはここで終了、信州中野駅まで歩いて戻り長野電鉄で帰ります。
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11/30 13:17
若宮八幡神社。境内には金刀比羅大神、猿田彦大神、牛頭天王、霊神碑などが建っています。今日の谷街道歩きはここで終了、信州中野駅まで歩いて戻り長野電鉄で帰ります。
信州中野駅近くまで行ったが待ち時間が40分もあったので延徳駅まで歩きます。左手に箱山と鴨ヶ嶽。晩秋のポカポカ天気が気持ちいい😊歩いている人が結構います。
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11/30 14:26
信州中野駅近くまで行ったが待ち時間が40分もあったので延徳駅まで歩きます。左手に箱山と鴨ヶ嶽。晩秋のポカポカ天気が気持ちいい😊歩いている人が結構います。
延徳駅から帰ります。駅舎内でいちゃついていた高校生が乗ってこないよ(何してんねん)🙄綿内までラン7キロ+谷街道マラニック22キロ+若宮神社〜延徳駅6キロ=35キロよく歩きよく走りました👍荷物を背負っていたせいかランニングより疲れました😮💨おつかれヤマレコ🏔️
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11/30 14:39
延徳駅から帰ります。駅舎内でいちゃついていた高校生が乗ってこないよ(何してんねん)🙄綿内までラン7キロ+谷街道マラニック22キロ+若宮神社〜延徳駅6キロ=35キロよく歩きよく走りました👍荷物を背負っていたせいかランニングより疲れました😮💨おつかれヤマレコ🏔️
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