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ハイキング
東海
東海道53次+4次を歩く その2(6日目:箱根宿〜原宿)
2025年11月25日(火) [日帰り]

体力度
3
日帰りが可能
- GPS
- 10:24
- 距離
- 34.6km
- 登り
- 160m
- 下り
- 968m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 9:38
- 休憩
- 0:46
- 合計
- 10:24
距離 34.6km
登り 160m
下り 968m
6:17
17分
スタート地点
16:41
| 天候 | 曇り・小雨 |
|---|---|
| 過去天気図(気象庁) | 2025年11月の天気図 |
| アクセス |
利用交通機関:
電車
|
| コース状況/ 危険箇所等 |
箱根峠から接待茶屋跡の間の兜石坂を通る旧道は令和元年の台風災害以来通行止め |
写真
新箱根八里記念碑
「橋本聖子、杉本苑子、橋田寿賀子、黒柳徹子、穐吉敏子、向井千秋、宮城まり子、桜井よしこの8人の女性による揮毫を得て建てられたものである。」草に埋もれた説明版・地蔵の姿もどこへやら?
「橋本聖子、杉本苑子、橋田寿賀子、黒柳徹子、穐吉敏子、向井千秋、宮城まり子、桜井よしこの8人の女性による揮毫を得て建てられたものである。」草に埋もれた説明版・地蔵の姿もどこへやら?
接待茶屋跡
江戸時代中期の箱根山金剛院別当が、箱根山を往来する者の苦難を救うため、人や馬に粥や飼葉、焚き火を無料で施したと伝えられている。この接待所も一時途絶え、ついで文政7年(1824)、江戸の豪商加勢屋与兵衛が再興したが、これも明治維新とともに中断してしまった
江戸時代中期の箱根山金剛院別当が、箱根山を往来する者の苦難を救うため、人や馬に粥や飼葉、焚き火を無料で施したと伝えられている。この接待所も一時途絶え、ついで文政7年(1824)、江戸の豪商加勢屋与兵衛が再興したが、これも明治維新とともに中断してしまった
雲助徳利の墓:「この墓の雲助は日頃、仲間の取り締まりをしていましたが、困っている仲 間や若者の面倒をよくみてやり、仲間から慕われていました。また、街道筋の百姓からも厚い信頼を受けていました。彼は終生酒を愛し、酒を楽しみ、酒の中で一生を終わりました。その死後、彼を慕う後輩の雲助や土地の人々の手によって、盃と徳利を刻んだこの墓がたてられました。」(広報みしま)
坂公民館わきに「三島市眺望地点」というのがあり寄ってみた。ここから愛鷹連山と富士山が良く見えるらしい、愛鷹連山は見えるが富士山は雲の中。それどころかとうとう雨が降ってきた。時刻は10時半。昼まで天気はもたなかった
感想
雨の山行や街道歩きには慣れているものの、富士山の眺めが楽しみな本日のコース、富士山が見られないのは残念でした
箱根八里は急峻な山越えに加え、降雨雪の度にぬかるんだため延宝8年(1680)に石畳が敷かれた。しかし、この石畳の坂は濡れると滑りやすい。富士山は見られませんでしたが、雨が本降りにならず転倒せず澄んだのは良かった。
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