記録ID: 8944456
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ハイキング
東海
四方浄(しほうじょう)とは?
2025年11月15日(土) [日帰り]

- GPS
- 00:53
- 距離
- 1.9km
- 登り
- 81m
- 下り
- 76m
コースタイム
四方浄(しほうじょう)という変わった地名に惹かれて付近の山行を計画したが、出発直前に四方浄を検索し、行基ゆかりの地と知り予定を変更 行基が彫った4体の仏像を四方浄の東西南北に安置した場所を訪ねた
| 天候 | 晴れ |
|---|---|
| 過去天気図(気象庁) | 2025年11月の天気図 |
| アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
写真
新東名高速道路浜松いなさJCT近くに四方浄(しほうじょう)という不思議な地名があり、以前からとても気になっていたのでその付近の散策に出かけようとした。出発直前に”四方浄”を検索してみたらなんと飛鳥時代から奈良時代にかけて活動した仏教僧、行基誕生の地であるという説があり、もともとは”仲田の里”と呼ばれていたここの地名を”四方浄”と名付けたのは行基自身。幼いころ仏門に引き取られ、のちに一度帰郷したときに4体の仏像を彫った。
東: 薬師如来(病気平癒)
南: 観世音菩薩(衆生救済)
西: 阿弥陀如来(極楽往生)
北: 釈迦如来(悟りを開いた仏)
今日はこの4体が安置された場所を探索をすることにした。
AIに尋ねると
行基は、奈良の大仏建立の実質的な責任者です。彼は「大仏造立の勧進」を依頼され、民衆の圧倒的な支持を得て事業を推し進めました。その功績から、朝廷から日本初の「大僧正」に任命されています。
大仏建立の責任者として勧進役: 743年、聖武天皇からの依頼を受け、大仏建立の勧進役(寄付を募る役割)を務めました。
東: 薬師如来(病気平癒)
南: 観世音菩薩(衆生救済)
西: 阿弥陀如来(極楽往生)
北: 釈迦如来(悟りを開いた仏)
今日はこの4体が安置された場所を探索をすることにした。
AIに尋ねると
行基は、奈良の大仏建立の実質的な責任者です。彼は「大仏造立の勧進」を依頼され、民衆の圧倒的な支持を得て事業を推し進めました。その功績から、朝廷から日本初の「大僧正」に任命されています。
大仏建立の責任者として勧進役: 743年、聖武天皇からの依頼を受け、大仏建立の勧進役(寄付を募る役割)を務めました。
ネットで入手した場所をMapcodeに落として最初に東の薬師如来がある川名の郵便局へ行く。何もないので道端で立ち話中のご婦人3人に聞いてみたら詳しい人を呼んでくれた。この展開はまるでぽつんと一軒家の様だ。
行基は知っているが行基の薬師如来とは知らなかったとのこと。
Googlemapにも記載がある郵便局は閉鎖中だった。
行基は知っているが行基の薬師如来とは知らなかったとのこと。
Googlemapにも記載がある郵便局は閉鎖中だった。
奥が万福寺
ひよんどりは火踊りがなまったものと言われています。寺野のひよんどりと同じ「ひよんどり」と呼ばれていますが、舞や形式が異なります。山深い厳しい寒さの中、約600年近く伝えられてきました。薬師堂の棟札に「応永33年(1426年)に焼失した本尊・薬師如来が大檀那・井伊直貞の支援のもと再造立」と記載があります。
川名のひよんどりは1月4日毎年催されます。
ひよんどりは火踊りがなまったものと言われています。寺野のひよんどりと同じ「ひよんどり」と呼ばれていますが、舞や形式が異なります。山深い厳しい寒さの中、約600年近く伝えられてきました。薬師堂の棟札に「応永33年(1426年)に焼失した本尊・薬師如来が大檀那・井伊直貞の支援のもと再造立」と記載があります。
川名のひよんどりは1月4日毎年催されます。
次は南の観音様 ネット情報の場所に見当たらないので2軒隣の家にちょうど帰宅したご婦人に尋ねるとだいぶ遠いが仏坂に観音様があるとのこと。そういえば以前から気になっていた看板が道沿いにあったな!と1.5km車で移動
ここかな!
ここかな!
佛坂(ほとけざか)十一面観世音菩薩由来
仏坂十一面観世音菩薩は、当所深厳山竹馬寺の秘仏御本尊として世の変遷を見守り、幾世代に亘り数知れぬ善男善女に、慈悲と霊験を垂示(すいじ)されて来た。
仏坂十一面観世音菩薩の起源については詳かではないが、延宝七年に記録された三ヶ日町摩訶耶寺(まかやじ)の縁起書に「元正天皇の霊亀年間、行基菩薩開発の勝地也、其頃行基菩薩井伊の奥に隠遁禅念し給う此処に五仏を建立四方浄土と名付け仏坂という有これ行基菩薩居住の地以って今にあり」と、又江戸時 代の国学者内山真龍の遠江風土記伝に「・・・四仏中尊の木像を彫み茲(ここ)に安置す故に仏坂とゆうなり仏堂今に存す」とある。
古来より四方浄土を中心に東方川名に薬師如来、西方的場に阿弥陀如来北方別所に釈迦如来、南方当所に十一面観音を安置したことが伝えられている。
仏坂十一面観世音菩薩は、当所深厳山竹馬寺の秘仏御本尊として世の変遷を見守り、幾世代に亘り数知れぬ善男善女に、慈悲と霊験を垂示(すいじ)されて来た。
仏坂十一面観世音菩薩の起源については詳かではないが、延宝七年に記録された三ヶ日町摩訶耶寺(まかやじ)の縁起書に「元正天皇の霊亀年間、行基菩薩開発の勝地也、其頃行基菩薩井伊の奥に隠遁禅念し給う此処に五仏を建立四方浄土と名付け仏坂という有これ行基菩薩居住の地以って今にあり」と、又江戸時 代の国学者内山真龍の遠江風土記伝に「・・・四仏中尊の木像を彫み茲(ここ)に安置す故に仏坂とゆうなり仏堂今に存す」とある。
古来より四方浄土を中心に東方川名に薬師如来、西方的場に阿弥陀如来北方別所に釈迦如来、南方当所に十一面観音を安置したことが伝えられている。
仏坂古戦場
元亀3年(1572)に武田信玄が遠江に侵攻し、三方ヶ原合戦の前哨戦ともいうべき戦いが此の地で展開しました。遠江に侵攻する際、武田方は軍勢を信玄率いる本隊と別動隊に分けて侵攻し、その内、山県昌景率いる別動隊と徳川方の井伊家が戦いました。徳川方は敗北し、井伊家配下の伊平城も落城し、しばらくはこの地域が武田の支配下となりました。この地に残る「ふろんぼ様」という石塔群は、この戦いで討死した88名を供養するためのものと伝わります。国道257号が開通する以前は、この旧道が引佐と三河を結ぶ街道でした。
元亀3年(1572)に武田信玄が遠江に侵攻し、三方ヶ原合戦の前哨戦ともいうべき戦いが此の地で展開しました。遠江に侵攻する際、武田方は軍勢を信玄率いる本隊と別動隊に分けて侵攻し、その内、山県昌景率いる別動隊と徳川方の井伊家が戦いました。徳川方は敗北し、井伊家配下の伊平城も落城し、しばらくはこの地域が武田の支配下となりました。この地に残る「ふろんぼ様」という石塔群は、この戦いで討死した88名を供養するためのものと伝わります。国道257号が開通する以前は、この旧道が引佐と三河を結ぶ街道でした。
ふろんぼは古坊か古い墓が訛ったものらしい
元亀三年(1572)この戦いで井伊飛騨守直成をはじめ多くの武将が武田軍の鉄砲に撃たれて戦死した。
その菩提をこの地に葬ったものと伝えている。
元亀三年(1572)この戦いで井伊飛騨守直成をはじめ多くの武将が武田軍の鉄砲に撃たれて戦死した。
その菩提をこの地に葬ったものと伝えている。
新光山長福寺(的場のお堂)
ご本尊 阿弥陀如来
脇仏 四天王・弘法大師・馬頭観世音
四天王のうち向かって右から二番目の像は藤原時代に遡る古像であり他の三像は室町時代の造立?と考えられる。
ご本尊 阿弥陀如来
脇仏 四天王・弘法大師・馬頭観世音
四天王のうち向かって右から二番目の像は藤原時代に遡る古像であり他の三像は室町時代の造立?と考えられる。
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