記録ID: 8821034
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ハイキング
近畿
山野辺の道・北コース
2025年10月14日(火) [日帰り]

体力度
2
日帰りが可能
- GPS
- 07:32
- 距離
- 19.9km
- 登り
- 285m
- 下り
- 263m
コースタイム
| 天候 | 晴れ |
|---|---|
| 過去天気図(気象庁) | 2025年10月の天気図 |
| アクセス |
利用交通機関:
電車
復路:近鉄奈良 |
写真
布留社(フルシャ)とは石上神宮のことであり布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ)を御神体として祭っています。
布都(フツ)>布都斯(フツシ)>布留(フル)は親子関係の名前です。
布都斯(フツシ)(=須佐之男命)が父の剣(布都御魂剣)でヤマタノオロチ(化け物ではなく出雲の1豪族だった)を退治し、やがて布都斯(須佐之男命)・布留(饒速日命(ニギハヤヒ))親子は大和入りする。饒速日命(ニギハヤヒ)は大和を支配していた長髄彦(ナガスネヒコ)の妹に婿入りして大和を治め、その後、饒速日命(ニギハヤヒ)の娘に磐余彦尊(いわれびこのみこと)が婿入りして大和を治めて神武天皇となる。古代の母系社会では婿入りしたものが家系を継ぐのは普通であった。しかし、日本書紀を作るにあたり不都合な過去(石上神宮と大神神社の記録)は天武天皇によって隠滅された。
布都(フツ)>布都斯(フツシ)>布留(フル)は親子関係の名前です。
布都斯(フツシ)(=須佐之男命)が父の剣(布都御魂剣)でヤマタノオロチ(化け物ではなく出雲の1豪族だった)を退治し、やがて布都斯(須佐之男命)・布留(饒速日命(ニギハヤヒ))親子は大和入りする。饒速日命(ニギハヤヒ)は大和を支配していた長髄彦(ナガスネヒコ)の妹に婿入りして大和を治め、その後、饒速日命(ニギハヤヒ)の娘に磐余彦尊(いわれびこのみこと)が婿入りして大和を治めて神武天皇となる。古代の母系社会では婿入りしたものが家系を継ぐのは普通であった。しかし、日本書紀を作るにあたり不都合な過去(石上神宮と大神神社の記録)は天武天皇によって隠滅された。
早朝に来ると玉砂利にこのような模様が描かれている。この人の説明によると、神様の通る道をつけているのだそうだ。「どうぞこの上を通ってください」と言われたが、恐れ多いのでこの写真の外側の溝の上を通った。
(後の写真(布留の高橋)の説明になるが)武烈天皇が皇太子のころ影媛という美しい(物部氏の)娘がいた。皇太子がアプローチするも、すでに平群鮪(へぐりのしび)という恋人がいた。皇太子は怒って鮪を追いかけて平城山で殺害した。影媛は・・・
『石上 布留を過ぎて こも枕 高橋を過ぎ ものさわに大宅過ぎ 春日 春日を過ぎ 妻籠もる小佐保を過ぎ 玉げに飯さへもり 玉もひに水さへ盛り 泣きそほちいくも 影姫あはれ』
(訳:布留を過ぎ、高橋を過ぎ、大宅を過ぎ、春日を過ぎ、小佐保を過ぎて、泣きぬれて葬列の後を追う影姫がかわいそうなことよ)(影媛伝説)
山野辺の道・北コースは影媛が泣きながら歩いたコースです。
(訳:布留を過ぎ、高橋を過ぎ、大宅を過ぎ、春日を過ぎ、小佐保を過ぎて、泣きぬれて葬列の後を追う影姫がかわいそうなことよ)(影媛伝説)
山野辺の道・北コースは影媛が泣きながら歩いたコースです。
ここを左に90度曲がって行くログが多いのだが、真っすぐでも行けるはずなので行ってみた。写真に写っている所はよく整備されているのだが、途中で草がぼうぼうに生えて道が見えなくなっていた。同行者は「こんなん道とちゃう」と言ったが、登山をよくする者にとってはよくある道であった。初心者のハイカーにはお勧めしない。
写真の上が見切れているが「狂心渠」と書かれている。下の天理砂岩を撮るために見切れてしまった。斉明天皇が作った狂心渠で、この地の天理砂岩を飛鳥まで運び城壁を作った。それは国防のためだったが庶民はそれを知らず狂心(たぶれごころ)謗った。
前の写真の標識のすぐ右にある歌碑
万葉集 巻一の十八
三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや
(雲よ。どうして神聖な三輪山(あの方の麗姿)を隠すのか。雲よ、心があるならなぜ隠したりするの。)
額田王
コース上にはこのような歌碑がいくつもある。
万葉集 巻一の十八
三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや
(雲よ。どうして神聖な三輪山(あの方の麗姿)を隠すのか。雲よ、心があるならなぜ隠したりするの。)
額田王
コース上にはこのような歌碑がいくつもある。
圓照寺
斑鳩の中宮寺、佐保路の法華寺と共に大和三門跡と呼ばれる門跡寺院。非公開寺院のため拝観は不可。
三島由紀夫の小説『豊饒の海』に登場する「月修寺」は、圓照寺をモデルに書かれている。貴族社会の華麗な世界を描いている。
・・・知らんけど。
斑鳩の中宮寺、佐保路の法華寺と共に大和三門跡と呼ばれる門跡寺院。非公開寺院のため拝観は不可。
三島由紀夫の小説『豊饒の海』に登場する「月修寺」は、圓照寺をモデルに書かれている。貴族社会の華麗な世界を描いている。
・・・知らんけど。
崇道天皇八島陵
崇道天皇とは歴代天皇ではなく早良(さわら)親王のこと。藤原種継暗殺の疑いをかけられ、淡路への流罪の途中、身の潔白を証明するため断食し、みずからの命を断った。その死後、恒武天皇の身の回りには不吉なことばかりが起こり早良親王の祟りだと恐れられた。それを鎮めるために崇道天皇の称号を与え、陵を建てた。
崇道天皇とは歴代天皇ではなく早良(さわら)親王のこと。藤原種継暗殺の疑いをかけられ、淡路への流罪の途中、身の潔白を証明するため断食し、みずからの命を断った。その死後、恒武天皇の身の回りには不吉なことばかりが起こり早良親王の祟りだと恐れられた。それを鎮めるために崇道天皇の称号を与え、陵を建てた。
ここの分岐も過去ログでは左右どちらにも行っている。
ここを右へ行くのが脇道だと書かれているが、その道が上にある祠へ向かう道であり本道と言えるかもしれない。しかし多少のアップダウンがあり、真っすぐ左へ行く方が楽かもしれない。
ここを右へ行くのが脇道だと書かれているが、その道が上にある祠へ向かう道であり本道と言えるかもしれない。しかし多少のアップダウンがあり、真っすぐ左へ行く方が楽かもしれない。
百毫寺はもともと志貴皇子(天智天皇第7皇子)の別荘だった。皇位継承とは全く無縁で文化人としての人生を送った。ところが死の54年後、ひょんなことから第6男子の白壁王が光仁天皇となった。以降、この系統が現在の天皇家に繋がる。
比賣神社(ひめかみしゃ)
十市皇女(とおちのひめみこ)は大海人皇子(のちの天武天皇)と額田王の間に生まれた。天智天皇の子、大友皇子に嫁ぐ。仲睦まじく暮らしたのは束の間だった。壬申の乱は父と夫の戦いになった。敗れた夫は自害、十市は天武に引き取られた。のちに天武は飛鳥にも斎宮を作ろうとし、讃良皇女(のちの持統天皇)の助言で十市に斎王を命じた。十市は抗することもなく従った。が…
十市皇女(とおちのひめみこ)は大海人皇子(のちの天武天皇)と額田王の間に生まれた。天智天皇の子、大友皇子に嫁ぐ。仲睦まじく暮らしたのは束の間だった。壬申の乱は父と夫の戦いになった。敗れた夫は自害、十市は天武に引き取られた。のちに天武は飛鳥にも斎宮を作ろうとし、讃良皇女(のちの持統天皇)の助言で十市に斎王を命じた。十市は抗することもなく従った。が…
『斎宮は完成し、十市皇女は斎王となって宮にこもった。天武七年四月七日、天武が斎宮に着き斎王が待ち受けているはずの社の扉を開けると、梁に縄をかけ縊れ果てた十市皇女の姿が目に入った。』(三田誠広:炎の女帝・持統天皇より)
十市は死をもって天皇に抗議したのだ。
(写真の像は、前の写真の鳥居の後ろにある。)
十市は死をもって天皇に抗議したのだ。
(写真の像は、前の写真の鳥居の後ろにある。)
感想
北コースは南コースほどの人気はなく訪れるは少ない。しかしよく調べると興味深いこともある。悲劇的なことが多いようだ。
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