朝食をしっかり食べて宿を出立
宿から街道に戻ると小さな武田神社
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6/15 8:45
朝食をしっかり食べて宿を出立
宿から街道に戻ると小さな武田神社
祠の中に丸石道祖神は今まで見ない形
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6/15 8:47
祠の中に丸石道祖神は今まで見ない形
いまにも降り出しそうな街道を歩く
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6/15 8:53
いまにも降り出しそうな街道を歩く
釜無川支流神宮川(濁川)を濁川橋で渡る
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6/15 9:06
釜無川支流神宮川(濁川)を濁川橋で渡る
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6/15 9:07
太平洋戦争慰霊碑
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6/15 9:13
太平洋戦争慰霊碑
石尊大権現常夜燈(南参道口)
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6/15 9:23
石尊大権現常夜燈(南参道口)
般若堂
般若堂の文字が無ければ民家の蔵の様だ
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6/15 9:24
般若堂
般若堂の文字が無ければ民家の蔵の様だ
石尊大権現常夜燈(北参道口)
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6/15 9:31
石尊大権現常夜燈(北参道口)
流川
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6/15 9:40
流川
【教来石宿(北杜市白州町) 甲斐國】
9:45 宿より5.5km 教来宿着
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6/15 9:44
【教来石宿(北杜市白州町) 甲斐國】
9:45 宿より5.5km 教来宿着
教化山来福寺(臨済宗)
1261年(弘長元)梅雪和尚が創建し、大覚蘭渓禅師(蘭渓道隆)を懇請して開山。甲斐に臨済宗を布教したのは宋の高僧・蘭渓道隆である。甲斐では3年にわたり布教。この間に教来石に迎え開山となった。御本尊の右曲録に座すのが大覚禅師。(解説版)
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6/15 9:46
教化山来福寺(臨済宗)
1261年(弘長元)梅雪和尚が創建し、大覚蘭渓禅師(蘭渓道隆)を懇請して開山。甲斐に臨済宗を布教したのは宋の高僧・蘭渓道隆である。甲斐では3年にわたり布教。この間に教来石に迎え開山となった。御本尊の右曲録に座すのが大覚禅師。(解説版)
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6/15 9:47
九頭竜ノ宮(九頭竜社)
来福寺と道を挟んであり水防の神 石祠には1800年(寛政12)
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6/15 9:50
九頭竜ノ宮(九頭竜社)
来福寺と道を挟んであり水防の神 石祠には1800年(寛政12)
経(教)来石
日本武尊が東征の折、この石に座って読んだ歌から経来石(へてこいし)と呼び村名の由来となった
大石の上に馬頭観音や双体道祖神が祀られているらしいが草に覆われ判らない
来福寺の近くにあり、周囲は草刈りしてあるが石仏は草にまみれてしまっている
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6/15 9:53
経(教)来石
日本武尊が東征の折、この石に座って読んだ歌から経来石(へてこいし)と呼び村名の由来となった
大石の上に馬頭観音や双体道祖神が祀られているらしいが草に覆われ判らない
来福寺の近くにあり、周囲は草刈りしてあるが石仏は草にまみれてしまっている
教来石宿河西本陣跡 甲州最後の宿 10:00 宿から6.2km
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6/15 10:01
教来石宿河西本陣跡 甲州最後の宿 10:00 宿から6.2km
釜無川河岸段丘 明治天皇御田植御通覧之跡碑
眼下の釜無川沿いの河岸段丘に美田が広がる。奥に七里岩。1880年(明治13)明治天皇巡幸の際にこのあたりから田植えを見た
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6/15 10:05
釜無川河岸段丘 明治天皇御田植御通覧之跡碑
眼下の釜無川沿いの河岸段丘に美田が広がる。奥に七里岩。1880年(明治13)明治天皇巡幸の際にこのあたりから田植えを見た
諏訪神社
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6/15 10:06
諏訪神社
上教来石の街並み
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6/15 10:11
上教来石の街並み
御膳水跡
明治天皇巡幸の際にこの細入沢の湧水を飲み褒めたとされる
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6/15 10:16
御膳水跡
明治天皇巡幸の際にこの細入沢の湧水を飲み褒めたとされる
上教来石の旧道から国道へ出ると教慶寺の地蔵菩薩があり再び旧道へ
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6/15 10:21
上教来石の旧道から国道へ出ると教慶寺の地蔵菩薩があり再び旧道へ
山口関所跡(町指定文化財)
関所は武田信玄が設けた、甲州二十四ケ所の口留番所のひとつで、信州口を見張った國境の関所跡
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6/15 10:36
山口関所跡(町指定文化財)
関所は武田信玄が設けた、甲州二十四ケ所の口留番所のひとつで、信州口を見張った國境の関所跡
西番所跡
西番所は徳川幕府が設置
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6/15 10:36
西番所跡
西番所は徳川幕府が設置
新国界橋 甲斐の国と信濃の国の境 10:47 宿から9.2km
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6/15 10:46
新国界橋 甲斐の国と信濃の国の境 10:47 宿から9.2km
江戸方面からは新国界橋手前を左に土道を進むと300m程上流に国界橋
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6/15 10:50
江戸方面からは新国界橋手前を左に土道を進むと300m程上流に国界橋
国界橋
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6/15 10:53
国界橋
釜無川第一発電所取水堰
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6/15 10:53
釜無川第一発電所取水堰
国界橋出口には獣害避けの電気柵が設けてあり触ると痺れる、何度か感電してやっと開門
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6/15 10:56
国界橋出口には獣害避けの電気柵が設けてあり触ると痺れる、何度か感電してやっと開門
日蓮上人高座石の解説版があるが御本尊は藪の中
「文永十一年(1274)流罪を赦免された日蓮上人は身延に草庵を結び、甲斐の村々を回り巡錫(じゅんしゃく:布教)した。当時、下蔦木村では悪疫が流行り、村人は難渋していたので、上人は高座石の上に立って、三日三晩説法と加持祈祷を行い、霊験あらわした」(解説版)
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6/15 10:58
日蓮上人高座石の解説版があるが御本尊は藪の中
「文永十一年(1274)流罪を赦免された日蓮上人は身延に草庵を結び、甲斐の村々を回り巡錫(じゅんしゃく:布教)した。当時、下蔦木村では悪疫が流行り、村人は難渋していたので、上人は高座石の上に立って、三日三晩説法と加持祈祷を行い、霊験あらわした」(解説版)
敬冠院 石仏群
敬冠院は日蓮を祀る祖師堂、日蓮の像を安置
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6/15 10:58
敬冠院 石仏群
敬冠院は日蓮を祀る祖師堂、日蓮の像を安置
三ツ辻柳 堂坂 ここから坂が始まる
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6/15 10:59
三ツ辻柳 堂坂 ここから坂が始まる
祠の中に道標
「古道逸見道(へみじみち)と原路道(はらぢみち)の入口で、二つの道は小淵沢まで一緒で、そこから逸見道は高根町方面へ、原路道は七理岩の上部を通り台ケ原・韮崎方面へ。甲州道中蔦木宿と台ケ原・韮崎宿の間が豪雨などにより通行不能になった際、原路道をう回路とした。その当時造られた道標」(解説版)
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6/15 11:00
祠の中に道標
「古道逸見道(へみじみち)と原路道(はらぢみち)の入口で、二つの道は小淵沢まで一緒で、そこから逸見道は高根町方面へ、原路道は七理岩の上部を通り台ケ原・韮崎方面へ。甲州道中蔦木宿と台ケ原・韮崎宿の間が豪雨などにより通行不能になった際、原路道をう回路とした。その当時造られた道標」(解説版)
雨が激しくなってきたので道標前の集落センターの玄関先で雨宿りさせてもらった
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6/15 11:28
雨が激しくなってきたので道標前の集落センターの玄関先で雨宿りさせてもらった
日蓮宗真福寺
日蓮上人の三日三晩説法と加持祈祷の高徳に帰依し、真言宗から日蓮宗に改宗した
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6/15 11:30
日蓮宗真福寺
日蓮上人の三日三晩説法と加持祈祷の高徳に帰依し、真言宗から日蓮宗に改宗した
富士見町指定 応安の古碑
銘に北朝の1372年(応安5)があり、石碑の刻文としては諏訪郡で一番古いも
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6/15 11:35
富士見町指定 応安の古碑
銘に北朝の1372年(応安5)があり、石碑の刻文としては諏訪郡で一番古いも
雨にも負けず進む
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6/15 11:35
雨にも負けず進む
庚申塔群
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6/15 11:35
庚申塔群
【蔦木宿(諏訪郡富士見町) 信濃國】
蔦木宿案内板 11:30 宿から10.0km
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6/15 11:41
【蔦木宿(諏訪郡富士見町) 信濃國】
蔦木宿案内板 11:30 宿から10.0km
宿入口の道祖神
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6/15 11:41
宿入口の道祖神
信濃國にきても未だ丸石道祖神はある
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6/15 11:42
信濃國にきても未だ丸石道祖神はある
宿入口の桝形
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6/15 11:43
宿入口の桝形
蔦木宿本陣大阪屋表門
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6/15 11:46
蔦木宿本陣大阪屋表門
蔦木宿の街並み
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6/15 11:48
蔦木宿の街並み
与謝野晶子歌碑
歌碑は『白じらと並木のもとの石の樋が 秋の水吐く蔦木宿かな』
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6/15 11:49
与謝野晶子歌碑
歌碑は『白じらと並木のもとの石の樋が 秋の水吐く蔦木宿かな』
御前水
明治天皇巡幸の折に使用された御前水は、七里ケ岩からの湧水
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6/15 11:49
御前水
明治天皇巡幸の折に使用された御前水は、七里ケ岩からの湧水
川除(かわよけ)古木 富士見町指定天然記念物
「川除古木は、信玄堤と共に釜無川の氾濫による水害から地域を守るために植えられた川除木の名残りの古木であり、現存しているものはキササゲ一株、サイカチ二株、ケヤキ一株である。明治31年(1898)の大水のときには、ここの大木を切り倒して集落内に向かおうとする大水の向きをかえ、集落を水害から守ったといわれる。」(解説版)
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6/15 11:57
川除(かわよけ)古木 富士見町指定天然記念物
「川除古木は、信玄堤と共に釜無川の氾濫による水害から地域を守るために植えられた川除木の名残りの古木であり、現存しているものはキササゲ一株、サイカチ二株、ケヤキ一株である。明治31年(1898)の大水のときには、ここの大木を切り倒して集落内に向かおうとする大水の向きをかえ、集落を水害から守ったといわれる。」(解説版)
平岡の一里塚 江戸日本橋より46里 12:20 宿より13.0km
国道下の法面下にあり草に覆われ分かりにくい
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6/15 12:19
平岡の一里塚 江戸日本橋より46里 12:20 宿より13.0km
国道下の法面下にあり草に覆われ分かりにくい
釜無川沿いの田圃の中道を進むと明治天皇御野立所跡がある
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6/15 12:21
釜無川沿いの田圃の中道を進むと明治天皇御野立所跡がある
明治天皇巡行跡各地には石碑が建てられており膨大な手間と費用が掛かっている
「明治は遠くなりにけり」と言ったのはいつのことやら
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6/15 12:26
明治天皇巡行跡各地には石碑が建てられており膨大な手間と費用が掛かっている
「明治は遠くなりにけり」と言ったのはいつのことやら
明王山竹林寺机観音堂
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6/15 12:38
明王山竹林寺机観音堂
境内に六地蔵石幢(せきどう):富士見町指定有形文化財
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6/15 12:39
境内に六地蔵石幢(せきどう):富士見町指定有形文化財
石仏石塔群
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6/15 12:48
石仏石塔群
三面六臂の馬頭観音
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6/15 12:48
三面六臂の馬頭観音
『左 橋道 右 縣道』
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6/15 13:05
『左 橋道 右 縣道』
「左すワ 右山浦」
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6/15 13:06
「左すワ 右山浦」
途中水分を切らし途中やっと見つけた自販機では日本銀行券が使えずここまで来た
幸い千円札が使える自販機だったので早速ペットボトル2本を購入しぐい飲み
店は休みだったのでベンチで休ませてもらった
(ここはパンとジビエ製品を製造販売する就労継続支援事業所「Jumpin'」)
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6/15 13:32
途中水分を切らし途中やっと見つけた自販機では日本銀行券が使えずここまで来た
幸い千円札が使える自販機だったので早速ペットボトル2本を購入しぐい飲み
店は休みだったのでベンチで休ませてもらった
(ここはパンとジビエ製品を製造販売する就労継続支援事業所「Jumpin'」)
尾片瀬神社
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6/15 13:42
尾片瀬神社
旧とちの木村(富士見町)西口入口の道祖神
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6/15 13:44
旧とちの木村(富士見町)西口入口の道祖神
とちの木風除林 富士見町指定天然記念物
「この辺りは風が強く、農作物が育たなかったため、寛政年間(1789〜1800)にとちの木農民が高島藩へ願い出て、防風林の赤松を植えたものである」(解説版)
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6/15 13:52
とちの木風除林 富士見町指定天然記念物
「この辺りは風が強く、農作物が育たなかったため、寛政年間(1789〜1800)にとちの木農民が高島藩へ願い出て、防風林の赤松を植えたものである」(解説版)
重修(塚平)一里塚碑 江戸日本橋より47里 13:55 宿より17.4km
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6/15 13:56
重修(塚平)一里塚碑 江戸日本橋より47里 13:55 宿より17.4km
大規模な太陽光発電所を迂回し原の茶屋へ
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6/15 13:59
大規模な太陽光発電所を迂回し原の茶屋へ
この辺りが釜無川と諏訪湖へ注ぐ宮川の分水嶺か
ここを超えると川は北の諏訪湖へ流れる
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6/15 14:09
この辺りが釜無川と諏訪湖へ注ぐ宮川の分水嶺か
ここを超えると川は北の諏訪湖へ流れる
富士見公園
アララギ同人の富士見来訪者が多く明治四十四年(1911)アララギ派の伊藤左千代が設計
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6/15 14:15
富士見公園
アララギ同人の富士見来訪者が多く明治四十四年(1911)アララギ派の伊藤左千代が設計
明治天皇御前水
この辺り明治天皇と日蓮上人の痕跡が多い
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6/15 14:18
明治天皇御前水
この辺り明治天皇と日蓮上人の痕跡が多い
原の茶屋の街並み 左は旅館桔梗屋跡
アララギ派の島木赤彦、伊藤左千夫、土屋文明、竹久夢二、斎藤茂吉等多くの歌人、文人が訪れた
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6/15 14:19
原の茶屋の街並み 左は旅館桔梗屋跡
アララギ派の島木赤彦、伊藤左千夫、土屋文明、竹久夢二、斎藤茂吉等多くの歌人、文人が訪れた
三崎三方功神(火の神、かまどの神)
この辺りカゴメの工場やビニールハウスなどが広がっている
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6/15 14:34
三崎三方功神(火の神、かまどの神)
この辺りカゴメの工場やビニールハウスなどが広がっている
御射山神戸集落 石仏群
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6/15 14:41
御射山神戸集落 石仏群
御射山(みさやま)神戸八幡神社
今回の2泊3日の旅はここまでとして、「すずらんの里駅」より帰宅
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6/15 14:53
御射山(みさやま)神戸八幡神社
今回の2泊3日の旅はここまでとして、「すずらんの里駅」より帰宅
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