墓標の日航墜落御巣鷹の尾根40周年の慰霊訪問


- GPS
- 02:05
- 距離
- 2.7km
- 登り
- 293m
- 下り
- 287m
コースタイム
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2025年06月の天気図 |
アクセス |
行動時間 2時間 標高範囲 1350m〜1530m 気温 直射は暑いが日陰は涼しい 山で会った人 20人(報道 関係調査 慰霊 登山道様子 仮説階段も多いが、整備よし 展望 尾根に出ると見渡しできる 日帰り温泉 浜平の湯 600円 営業していた スマホカウント 6800歩 雰囲気 墓標慰霊 お勧め度 関心ある場合 観光 途中に上野ダム ずっと向こうに上ダムも 揚水やっている割に水量低下(やっていない 東電のいい加減ここにも |
写真
感想
ヘロヘロおやじ最終章 NO52
墓標の日航機墜落御巣鷹の尾根40周年の慰霊
あの40年前は、春先に結婚して、夏に披露宴、妻は妊娠中だったが、間もなく盆の夏合宿に参加して、前日は黒部別山の沢の上部に泊まって、あの8月12日は、その奇妙なルートをようやく抜けて別山頂上から仲間の待つ真砂沢のベースに夕方遅く合流した頃だった。そんな山の中の合宿でも「さっき日航機が山に墜落したようだ」「大勢が乗っている」と騒ぎになっていた。しかも「先輩が前に登った御座山(長野)の、あの辺りらしい」。ああその登山は高校生の時で10年以上も前の、のんびりした山行だった。
それからしばらくは、毎日のような事故報道の洪水のなかと、現在でも報じられる事故その後のニュースと同じように、私の夫婦生活家族の歴史も共に刻まれてきた。何かにつけても、この事故経過と比較スライドするような人生の一面を持つことになった。結婚による夫婦家族の誕生日があるとするなら、私も事故も40周年になる。
当時仕事としては、上野村までは数回出かけたことはあるが、聞いた話では、藤岡の女子高体育館には、その500人にも及ぶ遺体と棺が並べられて、遺族との面会と引き取り判断が行われたというが、真夏の異臭のなかでの、壮絶な出来事だったとか、ああ運輸大臣の町田某が、その会場で暑いと扇子で仰ぎながら、「お前は場所をわきまえろ」。その他はニュース報道で知るばかりでもあった。あの夏から40年になると聞かされると、刻まれた我が家は、長男は40歳になろうとし、家庭も同じ40年を経過したと、思いに浸ることになった。
思い返せば不思議なことはいくらでもあるものだ。居住する近くでは、62年に「三河島事故」という鉄道事故で130人もが命を落とし他に300人も負傷したのだが、最寄りの寺に慰霊碑は残るのだが、これの周年報道は聞いたことがない。事故の主犯が国鉄という、もはや消滅した組織(今のJR)だというのは、理屈にならない。ああ、まだこの頃、テレビの普及も一部のみで、事故当時の報道も新聞だけだったか。
いやそれから2年後に東京五輪があって、物事は急速に進み、わずかに20年後のこの日航機は、つい先日の東日本震災と同じくらいの報道が飛び交った。いや東日本は2万人が被災死亡は、けた違いの災害にもなった。さらには、その20年前の敗戦こそは、実体験は何も知らない歴史上の出来事になるのだが、被害はまたさらに大きく、思いも大きい。過去とはそんな、自由に忘れていいものだとも思うが。
40年の慰霊を思ったのは、つい先週に久しぶりに山梨の帰りにこの辺りを通過したのと、これがきっかけではあったが、自身の40年と、この時間の長さを重ね合わせるようなことに、意味を見つけたからでもある。
埼玉の熊谷辺りからでも、この40年でかなり道幅も整備されただろうが、上野村への道は、やはり細くて遠い感じもした。この街中にも広い慰霊塔広場はあるのだが、現場とはさらにそこからクルマで40分というが、上高地にでもいくのかというほど、細い山道を走っていく。
終点に小さなPがあり、そこから徒歩40分余り、標高差200mで、現場の御巣鷹の尾根に到着するらしい。
確かに沢沿いの古い伐採道を広げたような山道が半分くらい続いて、そこから山の斜面のジグザグ急登がさらに半分続いて、道は御巣鷹の尾根に上がった。その途中からもうここは、墓標の山である。遺族のために斜面の部分を相当に提供したのだろうが「パパ安らかに眠って」とか、○○家族とは、数十から百にもなる立派な石造りの墓標が点在していく。
尾根に上がると、正確にいえば、奥秩父連山1900mほどの稜線からなだらかな尾根が1530mほどに下がった辺りが墜落地点であった。なおその稜線とは秩父中津川林道の峠付近、三国山から北へ蟻ヶ峰ともう少し北よりの無名峰連山であるが、反対の南へ向かえば先週歩いた十文字から甲武信岳へ続く稜線にもなる。
ああ、操縦不能のジャンボが高度1万mからヨタヨタと沈下して、エンジンは最弱の時速250キロ程度まで推力を落として、山の標高すれすれになって、ついに逆噴射停止したかそこに墜落するにいたったか。
慰霊碑のあるそこから、向こうの尾根に今でも主翼が最初に引っかかったという樹林のV字型の切れ目があり、そこから眼下の谷を越えて足元の尾根に突っ込んできたと、この慰霊碑上の太い立木は焼かれて、その下の部分にだけ黒焦げが未だ残って、それも残骸だという。ここに500人乗りが突っこんできたとは、想像絶する大惨事だったろうとしか、表現できない。520人が死んで4人が生き残った。単独の飛行災害で世界最悪で、今後もジャンボが小型化した理由などで、これ以上の単独災害はもうあり得ないと言われる。(当時からそういわれたのに、2001年の911テロでは、3000人もの死者を出したのだから、イスラムハイジャックテロは気違い沙汰ともいわれた)
40年という時間は、独身生活のちょろい時間を過ごしてから、今の大半の時間を共有した。ここの惨事では、500人余りの犠牲者の時間が止まって、それは社会の大きな損失と犠牲を強いた。そういえばこの事故の原因は「金属疲労」ゆえの破損ということになったが、その事故責任というのは、特定できなかった。日航はもちろん民事の責任は全部負ったが(保険が降りたのだろう)、実は金属疲労なるものは、後にX線だの、レーザーだのによって細かく指摘できるようになって、その疲労を修正補強すれば、同じような事故は二度と起こらないようになっているらしいことも、これまでに報道によって、知ることになる。奇妙だと思った。ジェット機を作ったボーイングにも責任がない。運行の日航にも、その整備にも。つまり天災と同じような不可避な事故だったらしい。その金属疲労さえ指摘取り除ければ、こういう事故は二度と起こらない、実際に起こっていないようだ。
この真夏に、また40年のニュースが流れる。慰霊なんてもんは、登っただけ、それを知るだけでも慰霊になるらしいとは、私の登山仲間でも遭難者がいて、その慰霊に参加すると、現場に行くだけで、そこに残って閉ざされた魂は、来てくれた人にその時間寄り添って、彼の霊は、大いに慰められるのであるからと聞かされたことがあって、慰霊の根本とは、その行為の達成だけで十分なのだと。それならよかった。
私としても自分事の40年を考える。この夏は奇妙にも戦後80年であり、御巣鷹はその半分の時に起こった。しかし後半の半分が私の人生ほとんどと解釈するなら、前半の半分はその10分の1でもいいし、さらに生まれる11年前に終戦したということは、それが100年も500年前の戦国時代でも、知らないことは同じ部類に入るとも思う。
今はこの際残された時間の少しを、なるべく楽しい時間を過ごしたいと思うばかりと、家族の幸せな時間を思うばかり。事故によって、人生との比較対象は奇妙には思うが、必然と同じ時間が、こちらは自由に平和に過ごせたことに、その経過を思い浮かべた。
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