記録ID: 8200134
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ハイキング
近畿
山の辺の道
2025年05月23日(金) [日帰り]


体力度
2
日帰りが可能
- GPS
- 06:47
- 距離
- 16.9km
- 登り
- 262m
- 下り
- 275m
コースタイム
日帰り
- 山行
- 6:41
- 休憩
- 0:05
- 合計
- 6:46
距離 16.9km
登り 262m
下り 275m
15:48
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2025年05月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車
復路・近鉄・天理 |
写真
仏教伝来の地
難波津から大和川を遡行してきた舟運の終着地で、大和朝廷と交渉を持つ国々の使節が発着する都の外港として重要な役割を果たしてきた。
「欽明天皇の十三年冬十月、百済の聖明王は西部姫氏達率怒唎斯致契達を遣して釈迦仏金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻を献る」と日本書紀に記された仏教伝来の百済の使節もこの港に上陸し、すぐ南方の磯城嶋金刺宮に向かったとされています。また「推古天皇十六年、遣隋使小野妹子が隋使裴世清を伴って帰国し飛鳥の京に入るとき、飾り馬七十五頭を遣して海石榴市の路上で額田部比羅夫に迎えさせた」と記されているのもこの地でありました。
難波津から大和川を遡行してきた舟運の終着地で、大和朝廷と交渉を持つ国々の使節が発着する都の外港として重要な役割を果たしてきた。
「欽明天皇の十三年冬十月、百済の聖明王は西部姫氏達率怒唎斯致契達を遣して釈迦仏金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻を献る」と日本書紀に記された仏教伝来の百済の使節もこの港に上陸し、すぐ南方の磯城嶋金刺宮に向かったとされています。また「推古天皇十六年、遣隋使小野妹子が隋使裴世清を伴って帰国し飛鳥の京に入るとき、飾り馬七十五頭を遣して海石榴市の路上で額田部比羅夫に迎えさせた」と記されているのもこの地でありました。
大神神社(おおみわじんじゃ)
ご祭神の大物主大神(おおものぬしのおおかみ)がお山に鎮まるために、古来本殿は設けずに拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し三輪山を拝するという原初の神祀りの様を伝える我が国最古の神社です。
ご祭神の大物主大神(おおものぬしのおおかみ)がお山に鎮まるために、古来本殿は設けずに拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し三輪山を拝するという原初の神祀りの様を伝える我が国最古の神社です。
相撲神社
垂仁天皇7年7月7日、当麻蹴速(たいまのけはや)と野見宿禰(のみのすくね)による天覧相撲が行われた相撲発祥の地とされる。
当時の相撲は蹴ってもよく、野見宿は當麻の蹶速を蹴殺した。
垂仁天皇7年7月7日、当麻蹴速(たいまのけはや)と野見宿禰(のみのすくね)による天覧相撲が行われた相撲発祥の地とされる。
当時の相撲は蹴ってもよく、野見宿は當麻の蹶速を蹴殺した。
穴師坐兵主神社(あなしにますひょうずじんじゃ)
崇神天皇60年、纏向穴師山に皇女倭姫命が帝の御前の守護神として、穴師兵主明神を祀られたことに始まるとされています。
纏向(遺跡)の中心線も箸墓古墳の中心線もこの神社に向いているそうです。
崇神天皇60年、纏向穴師山に皇女倭姫命が帝の御前の守護神として、穴師兵主明神を祀られたことに始まるとされています。
纏向(遺跡)の中心線も箸墓古墳の中心線もこの神社に向いているそうです。
山の辺の道から20mほど入った場所に、石がたてられています。『日本書紀』の崇神天皇の条に、天照大神を「やまとの笠縫邑(かさぬいのむら)に祭る。よりて磯堅城(しかたき)の神籬を立つ」とあり、周辺に暮らしていた古代の人々は、この場所に神籬を設けて神霊をお迎えする神祭りを行っていたといわれています。
額田王(ぬかたのおおきみ)の歌碑
味酒(うまさけ)、三輪(みわ)の山、あをによし、奈良の山の、山の際(ま)に、い隠(かく)るまで、道の隈(くま)、い積(つ)もるまでに、つばらにも、見つつ行(ゆ)かむを、しばしばも、見(み)放(さ)けむ山を、心なく、雲の、隠(かく)さふべしや
味酒(うまさけ)、三輪(みわ)の山、あをによし、奈良の山の、山の際(ま)に、い隠(かく)るまで、道の隈(くま)、い積(つ)もるまでに、つばらにも、見つつ行(ゆ)かむを、しばしばも、見(み)放(さ)けむ山を、心なく、雲の、隠(かく)さふべしや
渋谷向山古墳
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「山辺道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ、山邊道上陵)」として第12代景行天皇の陵に治定されている。
江戸時代までは崇神天皇陵と景行天皇陵は逆だったらしいです。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「山辺道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ、山邊道上陵)」として第12代景行天皇の陵に治定されている。
江戸時代までは崇神天皇陵と景行天皇陵は逆だったらしいです。
真ん中の灯篭に「太神宮」とあるのは伊勢神宮のことであり、お伊勢参りのコースにあった灯篭らしい。右の「金刀比羅宮」の石標は香川県の金毘羅さんに向かう道標だった(同行者の解説による)。その他の珍しいお地蔵さんもある。
西山塚古墳の頂上より
右に二上山、中央に金剛山、左1/3の所に耳成山と畝傍山が重なって見え、左の手前にあるのが天の香久山。
この古墳の南東にある西殿塚古墳が手白香皇女の古墳と治定されているが、こちら(西山塚古墳)が真陵ではないかと言われている。
手白香皇女の夫の継体天皇は茨木市の太田茶臼山古墳に治定されているが高槻の今城塚古墳が真陵ではないかと言われている。夫婦ともに真陵と言われている方が自由に立ち入ることが出来るのが面白い。また西山塚古墳と今城塚古墳の埴輪が同じ所(新池ハニワ工場)で作られているのも両方の真陵性に関係していて面白い。
右に二上山、中央に金剛山、左1/3の所に耳成山と畝傍山が重なって見え、左の手前にあるのが天の香久山。
この古墳の南東にある西殿塚古墳が手白香皇女の古墳と治定されているが、こちら(西山塚古墳)が真陵ではないかと言われている。
手白香皇女の夫の継体天皇は茨木市の太田茶臼山古墳に治定されているが高槻の今城塚古墳が真陵ではないかと言われている。夫婦ともに真陵と言われている方が自由に立ち入ることが出来るのが面白い。また西山塚古墳と今城塚古墳の埴輪が同じ所(新池ハニワ工場)で作られているのも両方の真陵性に関係していて面白い。
芭蕉句碑(内山永久寺跡)
うち山の
とざましらずの
花ざかり
宋房
今、内山永久寺に参拝してみると、見事なまでに満開の桜でうめつくされている。
土地の人々はこの桜の花盛りをよく知っているのであろうが、外様(よその土地の人々)は知るよしもない。
松尾芭蕉が江戸へ上る以前、まだ出生地の伊賀上野に住んで「宗房」と号していた頃の作品である。
うち山の
とざましらずの
花ざかり
宋房
今、内山永久寺に参拝してみると、見事なまでに満開の桜でうめつくされている。
土地の人々はこの桜の花盛りをよく知っているのであろうが、外様(よその土地の人々)は知るよしもない。
松尾芭蕉が江戸へ上る以前、まだ出生地の伊賀上野に住んで「宗房」と号していた頃の作品である。
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