JR埼京線・板橋駅を出発
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3/15 12:46
JR埼京線・板橋駅を出発
東口に出てるとすぐ前に近藤勇の墓。
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3/15 13:09
東口に出てるとすぐ前に近藤勇の墓。
近藤勇は板橋宿近くの刑場で処刑され、首級は京都に送られ、胴体はこの地に埋葬されたとか
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3/15 13:08
近藤勇は板橋宿近くの刑場で処刑され、首級は京都に送られ、胴体はこの地に埋葬されたとか
旧中山道に出て埼京線の踏切を渡ります
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3/15 13:12
旧中山道に出て埼京線の踏切を渡ります
頭上を首都高が走るこの辺りが中山道と川越街道の分岐点、平尾追分です
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3/15 13:22
頭上を首都高が走るこの辺りが中山道と川越街道の分岐点、平尾追分です
ガスト手前の道を少し入ると東光寺。本堂左に見えるのは宇喜多秀家の墓
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3/15 13:25
ガスト手前の道を少し入ると東光寺。本堂左に見えるのは宇喜多秀家の墓
境内には石像地蔵菩薩坐像や寛文2年(1661)の庚申塔が並びます
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3/15 13:26
境内には石像地蔵菩薩坐像や寛文2年(1661)の庚申塔が並びます
旧中山道板橋宿にちょっと寄り道
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3/15 13:29
旧中山道板橋宿にちょっと寄り道
観明寺の門柱裏には寛文元年(1661)の庚申塔。青面金剛像が彫られたものとしては都内最古とか
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3/15 13:32
観明寺の門柱裏には寛文元年(1661)の庚申塔。青面金剛像が彫られたものとしては都内最古とか
観明寺の創建は暦応5年(1338)と伝えられ、出世不動は明治6年(1873)に成田山新勝寺の不動尊を勧請したものとか
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3/15 13:33
観明寺の創建は暦応5年(1338)と伝えられ、出世不動は明治6年(1873)に成田山新勝寺の不動尊を勧請したものとか
観明寺のひとつ先の路地を入ると、平尾脇本陣豊田家跡。流山で捕らえられた近藤勇は処刑までの20日間ここに幽閉されていたとか
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3/15 13:37
観明寺のひとつ先の路地を入ると、平尾脇本陣豊田家跡。流山で捕らえられた近藤勇は処刑までの20日間ここに幽閉されていたとか
平尾追分に戻り、現中山道を渡って川越街道に向かいます
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3/15 13:42
平尾追分に戻り、現中山道を渡って川越街道に向かいます
四ツ又交差点を左に折れ、5分ほど歩くと子易神社があります
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3/15 13:50
四ツ又交差点を左に折れ、5分ほど歩くと子易神社があります
入口横には胸突地蔵堂。王子村の長者が夜盗に襲われ、胸を刺され倒れたが意識を取り戻したときには近くにあったお地蔵さまの胸元に傷があったとか
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3/15 13:50
入口横には胸突地蔵堂。王子村の長者が夜盗に襲われ、胸を刺され倒れたが意識を取り戻したときには近くにあったお地蔵さまの胸元に傷があったとか
子易神社。創建年代は不明ながら富士山本宮浅間神社霊を勧請して創建したとか。安産・子育の神として崇敬される小ぶりながら威厳を感じる神社でした
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3/15 13:52
子易神社。創建年代は不明ながら富士山本宮浅間神社霊を勧請して創建したとか。安産・子育の神として崇敬される小ぶりながら威厳を感じる神社でした
街道に戻る途中、宗仙寺にも寄り道。延宝5年(1677)に現東大阪市で創建されましたが、廃仏毀釈の影響を受け、明治21年(1888)にここに移転・復興されたとか
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3/15 13:56
街道に戻る途中、宗仙寺にも寄り道。延宝5年(1677)に現東大阪市で創建されましたが、廃仏毀釈の影響を受け、明治21年(1888)にここに移転・復興されたとか
本堂前に立つ題目碑は宝暦9年(1759)のもので、台座には東大阪市若江から移設したものと刻まれていました
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3/15 13:58
本堂前に立つ題目碑は宝暦9年(1759)のもので、台座には東大阪市若江から移設したものと刻まれていました
川越街道に戻り、山手通りを渡ると
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3/15 14:03
川越街道に戻り、山手通りを渡ると
遊座大山の商店街に入ります
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3/15 14:05
遊座大山の商店街に入ります
東武東上線の踏切を渡ると、アーケードの続くハッピーロード大山商店街に変わります
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3/15 14:13
東武東上線の踏切を渡ると、アーケードの続くハッピーロード大山商店街に変わります
商店街のアーケードを抜け、右の道を進むとマンションの前にきっちり整備された大山福地像尊
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3/15 14:22
商店街のアーケードを抜け、右の道を進むとマンションの前にきっちり整備された大山福地像尊
江戸時代、お福という名の行者がこの地を訪れ、人々の難病苦行を癒して大山周辺の住人から慕われ、のちに大山の人々によりお福地蔵として祀られたとか
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3/15 14:22
江戸時代、お福という名の行者がこの地を訪れ、人々の難病苦行を癒して大山周辺の住人から慕われ、のちに大山の人々によりお福地蔵として祀られたとか
旧街道はここを右の旧道に入ります
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3/15 14:28
旧街道はここを右の旧道に入ります
旧道には「下頭橋通り(旧川越街道)」の標識がありました
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3/15 14:29
旧道には「下頭橋通り(旧川越街道)」の標識がありました
防災辻広場を右に入り、3分ほど先の左路地に轡神社。名の由来は、この地を訪れた徳川家康の馬の轡を祀ったからとも馬蹄を祀ったものともいわれているそうです
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3/15 14:37
防災辻広場を右に入り、3分ほど先の左路地に轡神社。名の由来は、この地を訪れた徳川家康の馬の轡を祀ったからとも馬蹄を祀ったものともいわれているそうです
旧街道に戻るとすぐ先に豊敬稲荷神社。昭和の初め、民家の隅に遷されていた市神様を、近くに住む福本芳太郎が私財を投じてこの地を購入し社を建てたものとか
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3/15 14:41
旧街道に戻るとすぐ先に豊敬稲荷神社。昭和の初め、民家の隅に遷されていた市神様を、近くに住む福本芳太郎が私財を投じてこの地を購入し社を建てたものとか
豊敬稲荷神社の境内には「旧上板橋宿概要図」がありました
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3/15 14:41
豊敬稲荷神社の境内には「旧上板橋宿概要図」がありました
その先にある古民家は米穀商を営んでいた旧三春屋
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3/15 14:45
その先にある古民家は米穀商を営んでいた旧三春屋
下頭橋の手前に六蔵祠。寛政の頃、六蔵という乞食がここで喜捨を受けていたが、六蔵が亡くなると大金が現れ、この金で丸木橋を石橋に架け替えられたという
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3/15 14:50
下頭橋の手前に六蔵祠。寛政の頃、六蔵という乞食がここで喜捨を受けていたが、六蔵が亡くなると大金が現れ、この金で丸木橋を石橋に架け替えられたという
下頭橋の名は、乞食の六蔵が永年頭を下げていたからとも、川越藩主の出府・下向に際に家臣が出迎え見送りで頭を下げていたからともいわれている
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3/15 14:53
下頭橋の名は、乞食の六蔵が永年頭を下げていたからとも、川越藩主の出府・下向に際に家臣が出迎え見送りで頭を下げていたからともいわれている
下頭橋を渡ったら斜め左の道を進み、環七通りの板橋中央陸橋に出る
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3/15 14:58
下頭橋を渡ったら斜め左の道を進み、環七通りの板橋中央陸橋に出る
交差点の先には開基寛文10年(1670)と云われる長命寺
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3/15 14:59
交差点の先には開基寛文10年(1670)と云われる長命寺
墓地入り口の両側にたくさんの石仏や石塔が並んでいました。手前の観音様の台座には「常盤台観世音菩薩」の文字。造立は不明
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3/15 15:03
墓地入り口の両側にたくさんの石仏や石塔が並んでいました。手前の観音様の台座には「常盤台観世音菩薩」の文字。造立は不明
現川越街道の国道254号線を15分ほど歩き、再び右の旧道へ
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3/15 15:20
現川越街道の国道254号線を15分ほど歩き、再び右の旧道へ
国道に架かる歩道橋の先に見えるのは5本けやき。昭和初期の川越街道拡幅工事の際、飯島彌十郎が屋敷林の一部のけやきを残すことを条件に土地を提供したとか
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3/15 15:21
国道に架かる歩道橋の先に見えるのは5本けやき。昭和初期の川越街道拡幅工事の際、飯島彌十郎が屋敷林の一部のけやきを残すことを条件に土地を提供したとか
旧道に入って数分歩くと子育地蔵尊。お堂の中には3体の地蔵菩薩があり、古いものは貞亮5年(1688)と安永6年(1777)造立のもの
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3/15 15:34
旧道に入って数分歩くと子育地蔵尊。お堂の中には3体の地蔵菩薩があり、古いものは貞亮5年(1688)と安永6年(1777)造立のもの
街道沿い南側の民家の角には元文4年(1739)の庚申塔も
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3/15 15:41
街道沿い南側の民家の角には元文4年(1739)の庚申塔も
街道北側の下宿広場には下練馬宿の案内図。この辺りから下練馬宿が始まっていたようです
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3/15 15:42
街道北側の下宿広場には下練馬宿の案内図。この辺りから下練馬宿が始まっていたようです
すぐ先には大正2年(1913)創業の野瀬米店
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3/15 15:44
すぐ先には大正2年(1913)創業の野瀬米店
その先、道の北側奥に見えたのは「三又の馬頭観音」。三又といわれていますが変則十字路の交差点真ん中に鎮座しています
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3/15 15:47
その先、道の北側奥に見えたのは「三又の馬頭観音」。三又といわれていますが変則十字路の交差点真ん中に鎮座しています
お堂の中には2基の馬頭観音。いずれも道標を兼ねているとのことですが確認はできず
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3/15 15:47
お堂の中には2基の馬頭観音。いずれも道標を兼ねているとのことですが確認はできず
環八通りのトンネル上には、宝暦3年(1753)に建てられた大山道道標と東高野山道標。東高野山とは長命寺のことだという
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3/15 15:52
環八通りのトンネル上には、宝暦3年(1753)に建てられた大山道道標と東高野山道標。東高野山とは長命寺のことだという
和菓子屋伊勢屋の先の角を左に入ると北町小学校の手前に徳川綱吉御殿跡の碑。綱吉はこの地を鷹場とし、宿泊所の御殿があったという
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3/15 16:04
和菓子屋伊勢屋の先の角を左に入ると北町小学校の手前に徳川綱吉御殿跡の碑。綱吉はこの地を鷹場とし、宿泊所の御殿があったという
旧街道に戻ると北側に浅間神社。鳥居の左には旧川越街道の説明板がありました
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3/15 16:09
旧街道に戻ると北側に浅間神社。鳥居の左には旧川越街道の説明板がありました
浅間神社の創建は不明ですが明治前時代に築かれたものとか。社殿左側には江戸時代に築かれたといわれる富士塚があります
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3/15 16:10
浅間神社の創建は不明ですが明治前時代に築かれたものとか。社殿左側には江戸時代に築かれたといわれる富士塚があります
富士塚は登ることができ、山頂の標高は37.76m。ちょうど100分の1の高さですがマジですか?
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3/15 16:16
富士塚は登ることができ、山頂の標高は37.76m。ちょうど100分の1の高さですがマジですか?
東武練馬駅入口近くには北町観音堂。小さな山門には可愛い仁王像が。天和3年(1683)の銘があるそうです
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3/15 16:20
東武練馬駅入口近くには北町観音堂。小さな山門には可愛い仁王像が。天和3年(1683)の銘があるそうです
北町聖観音は片膝を立てた石仏で天和2年(1682)の銘があるそうです
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3/15 16:21
北町聖観音は片膝を立てた石仏で天和2年(1682)の銘があるそうです
その左には睨みを利かせる馬頭観音。造立は不明ですが江戸時代のもののようです
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3/15 16:21
その左には睨みを利かせる馬頭観音。造立は不明ですが江戸時代のもののようです
北町観音堂の川越街道側には4基の石仏が並んでいます。右から2番目の石仏は重ねた両手に薬壺を載せた薬師如来。貞享3年(1686)の銘があります
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3/15 16:23
北町観音堂の川越街道側には4基の石仏が並んでいます。右から2番目の石仏は重ねた両手に薬壺を載せた薬師如来。貞享3年(1686)の銘があります
すぐ先の右側には金色の大根が立つ練馬大根献上の地の碑。台座にはこの場所に下練馬宿の本陣があったとの記述もありました
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3/15 16:27
すぐ先の右側には金色の大根が立つ練馬大根献上の地の碑。台座にはこの場所に下練馬宿の本陣があったとの記述もありました
国道17号の立体交差を過ぎると、5分ほどで現川越街道・国道254号線に合流します
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3/15 16:39
国道17号の立体交差を過ぎると、5分ほどで現川越街道・国道254号線に合流します
国道の南側・地下鉄赤塚駅4番出口そばに石塔が立っています。正面に「庚申塚、右 川こ江、 左 ところ沢」とあり道標のようです。明治14年(1881)のもの
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3/15 16:50
国道の南側・地下鉄赤塚駅4番出口そばに石塔が立っています。正面に「庚申塚、右 川こ江、 左 ところ沢」とあり道標のようです。明治14年(1881)のもの
国道を北側に渡り、地下鉄赤塚駅1番出口横には小さな騎馬武者像が載った鎌倉古道の碑。荒川早瀬の渡しから鎌倉へ通じる古道がここを通っていたようだ
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3/15 16:58
国道を北側に渡り、地下鉄赤塚駅1番出口横には小さな騎馬武者像が載った鎌倉古道の碑。荒川早瀬の渡しから鎌倉へ通じる古道がここを通っていたようだ
赤塚交番前には小治兵衛窪庚申尊。この地名は悪者であった小治兵衛が罪滅ぼしに橋を架けた民話に由来。庚申塔は珍しい青面金剛坐像で造立天明3年(1783)のもの
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3/15 17:11
赤塚交番前には小治兵衛窪庚申尊。この地名は悪者であった小治兵衛が罪滅ぼしに橋を架けた民話に由来。庚申塔は珍しい青面金剛坐像で造立天明3年(1783)のもの
地下鉄成増駅に到着。ここを入れば今日の旅のゴール、東武東上線成増駅です
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3/15 17:16
地下鉄成増駅に到着。ここを入れば今日の旅のゴール、東武東上線成増駅です
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