金沢文庫駅から出発
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2/24 9:54
金沢文庫駅から出発
君ヶ崎交差点から旧道に入り、称名寺からの道との合流点に建つ八幡宮。創建は不詳ながら鎌倉時代にはここにあったとか
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2/24 10:15
君ヶ崎交差点から旧道に入り、称名寺からの道との合流点に建つ八幡宮。創建は不詳ながら鎌倉時代にはここにあったとか
八幡宮から南に下れば龍華寺。源頼朝と文覚上人が文治5年(1189)に建立した六浦浄願寺と金沢光徳寺を併合して明応8年(1499)に創建されたとか
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2/24 10:24
八幡宮から南に下れば龍華寺。源頼朝と文覚上人が文治5年(1189)に建立した六浦浄願寺と金沢光徳寺を併合して明応8年(1499)に創建されたとか
境内では立派な藁ぶきの鐘楼が目をひく。山門裏にもガラスケースに納められた天文10年(1541)と刻まれた梵鐘が置かれていた
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2/24 10:24
境内では立派な藁ぶきの鐘楼が目をひく。山門裏にもガラスケースに納められた天文10年(1541)と刻まれた梵鐘が置かれていた
境内には色とりどりの梅の花が咲き競っていた
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2/24 10:29
境内には色とりどりの梅の花が咲き競っていた
お隣は須崎神社。もとは長浜の地にあったが、応長元年(1311)村全体が大浪にさらわれ、残った住民が鎮守大六天社と共にこの地に移住したものとか
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2/24 10:32
お隣は須崎神社。もとは長浜の地にあったが、応長元年(1311)村全体が大浪にさらわれ、残った住民が鎮守大六天社と共にこの地に移住したものとか
平潟湾の突当り角に建つ「明治憲法草創の碑」。明治20年(1887)、伊藤博文ら4名がこの地で明治憲法制定の草案起草を記念したもの
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2/24 10:36
平潟湾の突当り角に建つ「明治憲法草創の碑」。明治20年(1887)、伊藤博文ら4名がこの地で明治憲法制定の草案起草を記念したもの
第一生命ビル前には「明治憲法起草の地」の説明板。伊藤博文、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎は、この地にあった料亭東屋で憲法の草案づくりをしたとか
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2/24 10:39
第一生命ビル前には「明治憲法起草の地」の説明板。伊藤博文、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎は、この地にあった料亭東屋で憲法の草案づくりをしたとか
瀬戸橋手前を右に入り姫小島跡へ
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2/24 10:41
瀬戸橋手前を右に入り姫小島跡へ
瀬戸の内海が埋め立てられる以前にあった中の島。この島に残る”照天姫”の伝説から”姫小島”と呼ばれるという
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2/24 10:43
瀬戸の内海が埋め立てられる以前にあった中の島。この島に残る”照天姫”の伝説から”姫小島”と呼ばれるという
姫小島横の水門は、新田開発のため永島段右衛門が天明年間(1780-1788)に姫小島の両側に設けた水門を復元したもの
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2/24 10:44
姫小島横の水門は、新田開発のため永島段右衛門が天明年間(1780-1788)に姫小島の両側に設けた水門を復元したもの
その先には平潟湾に突き出すように造られた枇杷島神社
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2/24 10:50
その先には平潟湾に突き出すように造られた枇杷島神社
治承4年(1180)、源頼朝が瀬戸神社を創建した際、夫人の北条政子が琵琶湖の竹生島弁財天を勧請して、瀬戸神社の海中に島を築いて創建したとか
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2/24 10:52
治承4年(1180)、源頼朝が瀬戸神社を創建した際、夫人の北条政子が琵琶湖の竹生島弁財天を勧請して、瀬戸神社の海中に島を築いて創建したとか
琵琶島の先には静かな平潟湾が広がります
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2/24 10:52
琵琶島の先には静かな平潟湾が広がります
国道16号を挟んで瀬戸神社。源頼朝が治承4年(1180)に伊豆三嶋明神をこの地に勧請し、社殿を建てたのがはじまりという
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2/24 10:56
国道16号を挟んで瀬戸神社。源頼朝が治承4年(1180)に伊豆三嶋明神をこの地に勧請し、社殿を建てたのがはじまりという
枇杷島神社の鳥居前には、源頼朝が瀬戸神社参拝のため平潟湾で禊をした時に衣服を掛けたという「福石」がある
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2/24 10:56
枇杷島神社の鳥居前には、源頼朝が瀬戸神社参拝のため平潟湾で禊をした時に衣服を掛けたという「福石」がある
旧街道が通る金沢八景駅の裏道はパスして金龍院へ
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2/24 11:02
旧街道が通る金沢八景駅の裏道はパスして金龍院へ
金龍院の創建は永徳年間(1381〜84)。六浦藩の藩庁(六浦陣屋)が置かれていたこともあるそうです
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2/24 11:03
金龍院の創建は永徳年間(1381〜84)。六浦藩の藩庁(六浦陣屋)が置かれていたこともあるそうです
本堂裏手の断崖絶壁の上には九覧亭があり、庫裡にお願いして上らせていただきました
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2/24 11:06
本堂裏手の断崖絶壁の上には九覧亭があり、庫裡にお願いして上らせていただきました
急な石段を上がった先に建つ九覧亭
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2/24 11:10
急な石段を上がった先に建つ九覧亭
眺望は金沢随一といわれ、江戸時代から観光地として大変な賑わいをみせたとか
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2/24 11:11
眺望は金沢随一といわれ、江戸時代から観光地として大変な賑わいをみせたとか
国道16号を渡り、泥牛庵へ。泥牛庵の創建は1325年。開基は第十四代執権北条高時とのこと
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2/24 11:22
国道16号を渡り、泥牛庵へ。泥牛庵の創建は1325年。開基は第十四代執権北条高時とのこと
山門を入ると牛・・・。当時の農民の風習で春節には、泥で作った牛をお供えし、ムチ打ちをしてその年の豊作を祈願していたという
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2/24 11:23
山門を入ると牛・・・。当時の農民の風習で春節には、泥で作った牛をお供えし、ムチ打ちをしてその年の豊作を祈願していたという
開山の士雲禅師は、牛が泥にまみれ目的を成すために一生懸命に働く姿を私たちの人生の歩みそのものに喩えたとか
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2/24 11:24
開山の士雲禅師は、牛が泥にまみれ目的を成すために一生懸命に働く姿を私たちの人生の歩みそのものに喩えたとか
国道16号線六浦交差点を右折して、環状4号線に入ります
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2/24 11:30
国道16号線六浦交差点を右折して、環状4号線に入ります
間もなく上行寺。日祐開山、六浦妙法開基の日蓮宗寺院で、建長6年(1254)の改宗以前は弘法大師開創の真言宗金勝寺であったという
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2/24 11:33
間もなく上行寺。日祐開山、六浦妙法開基の日蓮宗寺院で、建長6年(1254)の改宗以前は弘法大師開創の真言宗金勝寺であったという
日蓮が鎌倉入りする船中で、乗り合わせた千葉氏重臣・富木常忍を折伏して有力な信徒を獲得し、ここに着岸したことから「船中問答の霊場」と呼ばれる
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2/24 11:38
日蓮が鎌倉入りする船中で、乗り合わせた千葉氏重臣・富木常忍を折伏して有力な信徒を獲得し、ここに着岸したことから「船中問答の霊場」と呼ばれる
山門裏に船繋ぎの松跡。樹齢約千年の松があったようだが昭和22年に枯死し身替りの松が植えられている
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2/24 11:35
山門裏に船繋ぎの松跡。樹齢約千年の松があったようだが昭和22年に枯死し身替りの松が植えられている
旧街道は西六浦の三叉路を左に入り、200mほど先を右折して環状4号に戻る
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2/24 11:45
旧街道は西六浦の三叉路を左に入り、200mほど先を右折して環状4号に戻る
環状4号に復帰すると右手に光傳寺。創建は天正元年(1573)頃と云われる
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2/24 11:50
環状4号に復帰すると右手に光傳寺。創建は天正元年(1573)頃と云われる
本堂前の樹齢500年余りといわれる大きなビャクシンが目をひきます
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2/24 11:51
本堂前の樹齢500年余りといわれる大きなビャクシンが目をひきます
大道中学校前バス停そばに鼻欠地蔵の説明板
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2/24 13:14
大道中学校前バス停そばに鼻欠地蔵の説明板
崖に彫りこまれた4mほどの摩崖仏だということですが、風化が激しく鼻どころか輪郭すらわかりません
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2/24 13:15
崖に彫りこまれた4mほどの摩崖仏だということですが、風化が激しく鼻どころか輪郭すらわかりません
旧街道は環状4号から一旦右に逸れ
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2/24 13:20
旧街道は環状4号から一旦右に逸れ
環状4号に戻ると朝夷奈切通への道標があります
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2/24 13:24
環状4号に戻ると朝夷奈切通への道標があります
すぐ先が朝夷奈切通入口。すぐ上を横浜横須賀道路が通ています
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2/24 13:27
すぐ先が朝夷奈切通入口。すぐ上を横浜横須賀道路が通ています
朝夷奈切通は仁治元年(1240)に鎌倉幕府執権・北条泰時が六浦道の改修を評議し、仁治2年(1241)に山稜部を開削して建設した鎌倉と六浦を結ぶ重要交通路
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2/24 13:31
朝夷奈切通は仁治元年(1240)に鎌倉幕府執権・北条泰時が六浦道の改修を評議し、仁治2年(1241)に山稜部を開削して建設した鎌倉と六浦を結ぶ重要交通路
切通の途中には樹林帯もあり
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2/24 13:34
切通の途中には樹林帯もあり
熊野神社への分岐があります
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2/24 13:35
熊野神社への分岐があります
熊野神社は源頼朝が鎌倉幕府の鬼門を守護するために熊野三社を勧請したことがはじまりとされ、切通開墾の際に北条泰時が社殿を建立したとか
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2/24 13:39
熊野神社は源頼朝が鎌倉幕府の鬼門を守護するために熊野三社を勧請したことがはじまりとされ、切通開墾の際に北条泰時が社殿を建立したとか
元禄8年(1695)に地頭加藤太郎左エ門尉が社殿を再建し、明治6年(1873)には村社に。社殿の前には小さな鳥居が立っていました
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2/24 13:41
元禄8年(1695)に地頭加藤太郎左エ門尉が社殿を再建し、明治6年(1873)には村社に。社殿の前には小さな鳥居が立っていました
切通の頂上付近、南側・西向きの岩壁に摩崖仏が刻まれています。周辺に荒々しいノミのあともあり、なぜわざわざ西向きに彫ったのか不思議です
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2/24 13:54
切通の頂上付近、南側・西向きの岩壁に摩崖仏が刻まれています。周辺に荒々しいノミのあともあり、なぜわざわざ西向きに彫ったのか不思議です
切通の鎌倉側入口に建つ朝夷奈切通碑。その横には朝夷奈切通を一夜にして切り開いたという大力武勇の猛者・朝比奈三郎義秀に因んで名付けられた三郎の滝が
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2/24 14:06
切通の鎌倉側入口に建つ朝夷奈切通碑。その横には朝夷奈切通を一夜にして切り開いたという大力武勇の猛者・朝比奈三郎義秀に因んで名付けられた三郎の滝が
すぐ先に大刀洗水。源頼朝の御家人の梶原景時が謀反の疑いをかけられた上総介広常を誅殺した後、この湧水で太刀を洗ったといわれています
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2/24 14:08
すぐ先に大刀洗水。源頼朝の御家人の梶原景時が謀反の疑いをかけられた上総介広常を誅殺した後、この湧水で太刀を洗ったといわれています
県道の金沢街道を渡り、十二所神社へ。十二所神社は弘安元年(1278)の創建とされ、天保9年(1838)に光触寺境内から現在の場所に移転したそうです
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2/24 14:18
県道の金沢街道を渡り、十二所神社へ。十二所神社は弘安元年(1278)の創建とされ、天保9年(1838)に光触寺境内から現在の場所に移転したそうです
光触寺にも立寄り。創建は弘安元年(1278)で、開山は作阿上人、開基は一遍上人と伝えられている
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2/24 14:33
光触寺にも立寄り。創建は弘安元年(1278)で、開山は作阿上人、開基は一遍上人と伝えられている
境内の塩嘗地蔵。塩売りが商売繁盛を祈願して塩を供え、帰りに立ち寄ると塩が無くなっているので「地蔵菩薩が塩を舐めたのだろう」との逸話が由来とか
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2/24 14:34
境内の塩嘗地蔵。塩売りが商売繁盛を祈願して塩を供え、帰りに立ち寄ると塩が無くなっているので「地蔵菩薩が塩を舐めたのだろう」との逸話が由来とか
その先、街道北側の明王院へ。寛喜3年(1231)鎌倉幕府4代将軍藤原頼経によって発願されたお寺。こちらは境内撮影禁止です
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2/24 14:51
その先、街道北側の明王院へ。寛喜3年(1231)鎌倉幕府4代将軍藤原頼経によって発願されたお寺。こちらは境内撮影禁止です
街道北側の住宅脇に建つ「足利公方邸跡碑」。碑には頼朝が開府した初め頃、足利義兼はこの地に住まいし、その子孫も二百数十年間この地に住んでいたとある
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2/24 14:56
街道北側の住宅脇に建つ「足利公方邸跡碑」。碑には頼朝が開府した初め頃、足利義兼はこの地に住まいし、その子孫も二百数十年間この地に住んでいたとある
明王院から15分ほどで浄妙寺に。足利義兼による文治4年(1188)の創建と伝えられる鎌倉五山の第五位の寺院
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2/24 15:05
明王院から15分ほどで浄妙寺に。足利義兼による文治4年(1188)の創建と伝えられる鎌倉五山の第五位の寺院
浄妙寺は梅の名所としても知られていますが、境内の紅梅は既に時期を過ぎたように見える
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2/24 15:06
浄妙寺は梅の名所としても知られていますが、境内の紅梅は既に時期を過ぎたように見える
本堂裏手の坂を上がって行くと、やぐらの中に足利直義の墓があった。鎌倉らしい景色のひとつですね
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2/24 15:15
本堂裏手の坂を上がって行くと、やぐらの中に足利直義の墓があった。鎌倉らしい景色のひとつですね
報国寺交差点を南に入り報国寺へ。建武元年(1334)に創建。開基は足利家時で、家時を弔うために上杉重兼によって創建された。竹の庭が有名だが今回はパス
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2/24 15:30
報国寺交差点を南に入り報国寺へ。建武元年(1334)に創建。開基は足利家時で、家時を弔うために上杉重兼によって創建された。竹の庭が有名だが今回はパス
その奥、旧華頂宮邸まで足を延ばしたが入園時間の15時を過ぎていた。仕方なくフェンス越しにパチリ
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2/24 15:37
その奥、旧華頂宮邸まで足を延ばしたが入園時間の15時を過ぎていた。仕方なくフェンス越しにパチリ
天平6年(734)に創建された鎌倉最古の寺、杉本寺に立寄るも、15:45の拝観受付終了でぎりOUT
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2/24 15:49
天平6年(734)に創建された鎌倉最古の寺、杉本寺に立寄るも、15:45の拝観受付終了でぎりOUT
鎌倉十橋のひとつ、歌ノ橋を渡る。歌ノ橋は源実朝に無罪放免にしてもらった渋川刑部六郎兼守が御礼に架けたという。(振返り撮影)
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2/24 15:55
鎌倉十橋のひとつ、歌ノ橋を渡る。歌ノ橋は源実朝に無罪放免にしてもらった渋川刑部六郎兼守が御礼に架けたという。(振返り撮影)
大御堂橋交差点を南に下、勝長寿院跡へ。勝長寿院は、源頼朝が父義朝の菩提を弔うために建立した寺。当時は大御堂とも呼ばれ、その名が地名として残されている
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2/24 16:02
大御堂橋交差点を南に下、勝長寿院跡へ。勝長寿院は、源頼朝が父義朝の菩提を弔うために建立した寺。当時は大御堂とも呼ばれ、その名が地名として残されている
大御堂橋の南側に「文覚上人屋敷跡碑」。文覚上人はもとは武士で、文治元年(1185)、頼朝が勝長寿院を建立するにあたり、義朝の首を京より持ち帰ったという
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2/24 16:05
大御堂橋の南側に「文覚上人屋敷跡碑」。文覚上人はもとは武士で、文治元年(1185)、頼朝が勝長寿院を建立するにあたり、義朝の首を京より持ち帰ったという
街道に戻ると北側に「関取場跡碑」。1548年北条氏が関所をここに設け、通行税を取って荏柄天神の修復費に当てさせた所だという
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2/24 16:07
街道に戻ると北側に「関取場跡碑」。1548年北条氏が関所をここに設け、通行税を取って荏柄天神の修復費に当てさせた所だという
すぐ先、岐れ道交差点北角には大師堂道標と庚申供養塔が立っています。大師堂とは覚円寺を指すらしい
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2/24 16:10
すぐ先、岐れ道交差点北角には大師堂道標と庚申供養塔が立っています。大師堂とは覚円寺を指すらしい
ここを北に上がれば頼朝の墓があるが、今日はスルー
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2/24 16:11
ここを北に上がれば頼朝の墓があるが、今日はスルー
筋替橋交差点から八幡宮の流鏑馬道にに入り
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2/24 16:17
筋替橋交差点から八幡宮の流鏑馬道にに入り
鶴岡八幡宮に到着
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2/24 16:19
鶴岡八幡宮に到着
源頼朝の旗挙げに際しては、家運長久の守護神として弁財天が現れ、霊験があったと伝わる旗上弁財天社を今回のゴールとした
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2/24 16:22
源頼朝の旗挙げに際しては、家運長久の守護神として弁財天が現れ、霊験があったと伝わる旗上弁財天社を今回のゴールとした
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