記録ID: 7768023
全員に公開
キャンプ等、その他
房総・三浦
真間川(旧江戸川流末)流域
2025年02月04日(火) [日帰り]


体力度
5
1泊以上が適当
- GPS
- 11:48
- 距離
- 67.2km
- 登り
- 37m
- 下り
- 19m
コースタイム
過去天気図(気象庁) | 2025年02月の天気図 |
---|---|
アクセス |
写真
古川
もともとこの川の右左岸、
新川よりも北側と一之江境川左岸の一之江町よりも東小松川の地域は二之江町といった。
その成立は1932年で、僅か6年で別々の町へ編入して、
二之江町の名前は一之江通り沿いの一部のみに留まる。
もともとこの川の右左岸、
新川よりも北側と一之江境川左岸の一之江町よりも東小松川の地域は二之江町といった。
その成立は1932年で、僅か6年で別々の町へ編入して、
二之江町の名前は一之江通り沿いの一部のみに留まる。
二之江神社
創建年代不詳の旧二之江村の鎮守で村社であった香取神社と、
寛文年間(1661-1673)創建の八幡神社と、
昭和42年に合併して、二之江神社とした。
もともとは二之江村といった。
創建年代不詳の旧二之江村の鎮守で村社であった香取神社と、
寛文年間(1661-1673)創建の八幡神社と、
昭和42年に合併して、二之江神社とした。
もともとは二之江村といった。
妙勝寺
徳治二年(1307)の開山。
その旧本山は、市川市中山にある、文応元年(1260)開山の大本山法華経寺。
寺伝によると、1284年、堀江の浦(葛西沖)に漂着した難破船に残っていた少年を、二之江村の漁師が救いだし、
平家の生き残りだった少年は、法華経寺で学び、
後に妙見社の傍に小堂を建てた、のがこの寺の始まり。
徳治二年(1307)の開山。
その旧本山は、市川市中山にある、文応元年(1260)開山の大本山法華経寺。
寺伝によると、1284年、堀江の浦(葛西沖)に漂着した難破船に残っていた少年を、二之江村の漁師が救いだし、
平家の生き残りだった少年は、法華経寺で学び、
後に妙見社の傍に小堂を建てた、のがこの寺の始まり。
妙見島
1362年、島に妙見堂が建立された記録が最古と見られる。
現在も北部に妙見神社があるとのこと。
島全体が工場地帯かと思われるが、島に降りる事は出来るのだそう。
太日川の河口部にあったとされ、川の流れによって肩が削られていって、現在のような尖った形になった。
1362年、島に妙見堂が建立された記録が最古と見られる。
現在も北部に妙見神社があるとのこと。
島全体が工場地帯かと思われるが、島に降りる事は出来るのだそう。
太日川の河口部にあったとされ、川の流れによって肩が削られていって、現在のような尖った形になった。
桑川神社境内社 竜神社
で、この桑川神社の説明に知りたい情報の多くが含まれるので転載します。
【桑川神社と葛西の歴史考察 】より転写。
令和3年5月
桑川神社第24代副総代長 清水満善
Γ葛西」の地名が最初に出てくるのが下総の国葛西御厨として葛西城(青戸付近)の城主で現在の葛飾区、江戸川区、墨田区などを伊勢神宮の荘園領地として納めた葛西清重が知られる。葛西氏は頼朝の奥州合戦(文治5年1189年VS奥州藤原家)に参加して武功上げたとあるので鎌倉時代であると思われる。
(戦国時代まで17代続いたが秀吉の小田原攻めに参陣しなかった事で咎められ大名として滅びる)但し葛西城は室町時代には関東官領扇谷上杉の最前線城として(VS古河公方)の記載がある。
※江戸城築城(長緑元年1457」)の太田道灌はこの扇谷上杉家の家宰。
葛西城(葛西家)と離れて現在の葛西地区の歴史で戦国時代は小田原北条家の支配下になる
元々は安房里見家の領地であったが北条VS里見の国府台合戦(第2合戦永禄6年1563年)以後北条家となる。
小田原北条家(別称後北条)の時に現在の葛西地区の基盤が築かれていきます。
宇田川喜兵衛が北条家家臣で弘治元年(1555年)に小松川村へ入り、以後慶弔元年(1596年)葛西浦葦原に三千石の地を開拓(宇田川喜兵衛の新田)宇喜田の地名の始まりとなり、その後宇喜田村(以後の宇喜田、小島地区)、東宇喜田村(中割、雷)、長嶋村、桑川村(新田地区は桑川村の人々が開拓して桑川新田)となる。
桑川に由来する名字(佐久間、笈川、宇田川、星谷等が多数存在する)が時代的には江戸時代からあった。
で、この桑川神社の説明に知りたい情報の多くが含まれるので転載します。
【桑川神社と葛西の歴史考察 】より転写。
令和3年5月
桑川神社第24代副総代長 清水満善
Γ葛西」の地名が最初に出てくるのが下総の国葛西御厨として葛西城(青戸付近)の城主で現在の葛飾区、江戸川区、墨田区などを伊勢神宮の荘園領地として納めた葛西清重が知られる。葛西氏は頼朝の奥州合戦(文治5年1189年VS奥州藤原家)に参加して武功上げたとあるので鎌倉時代であると思われる。
(戦国時代まで17代続いたが秀吉の小田原攻めに参陣しなかった事で咎められ大名として滅びる)但し葛西城は室町時代には関東官領扇谷上杉の最前線城として(VS古河公方)の記載がある。
※江戸城築城(長緑元年1457」)の太田道灌はこの扇谷上杉家の家宰。
葛西城(葛西家)と離れて現在の葛西地区の歴史で戦国時代は小田原北条家の支配下になる
元々は安房里見家の領地であったが北条VS里見の国府台合戦(第2合戦永禄6年1563年)以後北条家となる。
小田原北条家(別称後北条)の時に現在の葛西地区の基盤が築かれていきます。
宇田川喜兵衛が北条家家臣で弘治元年(1555年)に小松川村へ入り、以後慶弔元年(1596年)葛西浦葦原に三千石の地を開拓(宇田川喜兵衛の新田)宇喜田の地名の始まりとなり、その後宇喜田村(以後の宇喜田、小島地区)、東宇喜田村(中割、雷)、長嶋村、桑川村(新田地区は桑川村の人々が開拓して桑川新田)となる。
桑川に由来する名字(佐久間、笈川、宇田川、星谷等が多数存在する)が時代的には江戸時代からあった。
東善寺と長島香取神社
文九年間の火災によって古記録を焼失した為詳細は不明になっている。
もとは長島村の鎮守で茂呂神社といった。
付近に香取神社が多いのは、鎌倉時代の葛西清重の影響がある可能性が高いとのこと。
また、この周辺には長島高城と呼ばれた城館があったとされ、
御北条時代には太田康資の所領であり、江戸時代には“長島殿”と呼ばれた城主の存在が確認できるが、
明確な城郭遺構は残されていない。
文九年間の火災によって古記録を焼失した為詳細は不明になっている。
もとは長島村の鎮守で茂呂神社といった。
付近に香取神社が多いのは、鎌倉時代の葛西清重の影響がある可能性が高いとのこと。
また、この周辺には長島高城と呼ばれた城館があったとされ、
御北条時代には太田康資の所領であり、江戸時代には“長島殿”と呼ばれた城主の存在が確認できるが、
明確な城郭遺構は残されていない。
浦安三社 当代島稲荷神社
御祭神は、豊受大神、應神天皇、春日大神
石祠 八幡神社 八幡大神 大鯨金刀比羅宮
富士塚 浅間神社
当代島地区に鎮座する当社は、元禄二年(1689)、
武蔵国小岩村の善養寺から遷座したもの伝えられる。
相殿は大正時代になってからとのこと。
浦安市の北部の一部に集中している浦安三社だが、
それぞれ別の、すなわち、堀江、猫実、当代島の氏子地区に属している。
御祭神は、豊受大神、應神天皇、春日大神
石祠 八幡神社 八幡大神 大鯨金刀比羅宮
富士塚 浅間神社
当代島地区に鎮座する当社は、元禄二年(1689)、
武蔵国小岩村の善養寺から遷座したもの伝えられる。
相殿は大正時代になってからとのこと。
浦安市の北部の一部に集中している浦安三社だが、
それぞれ別の、すなわち、堀江、猫実、当代島の氏子地区に属している。
葛飾町稲荷神社
創建年代は不詳。
境内を市川市と船橋市の市境が通っているが、
本来は、二俣の地名の由来となったとも考えられる道が古くから存在しており、
その道を跨いで日枝神社の境内がある。
行政区画の都合上、その一部が船橋市になってしまったかと思われる。
恐らくは二俣日枝神社の境内社であると考えられる、とのこと。
冠している葛飾町は、現在の船橋市葛飾町という町名によるもの。
古代の葛飾郡の中心地を感じる名称は気のせい。
創建年代は不詳。
境内を市川市と船橋市の市境が通っているが、
本来は、二俣の地名の由来となったとも考えられる道が古くから存在しており、
その道を跨いで日枝神社の境内がある。
行政区画の都合上、その一部が船橋市になってしまったかと思われる。
恐らくは二俣日枝神社の境内社であると考えられる、とのこと。
冠している葛飾町は、現在の船橋市葛飾町という町名によるもの。
古代の葛飾郡の中心地を感じる名称は気のせい。
船橋東照宮
御殿稲荷大明神
二代秀忠、三代家光が度々宿泊した船橋御殿の跡地。
家光の頃に御蔵が建てられ、民が大事にしていたことから、江戸の大飢饉でも耐えられたと伝えられる。
四代家綱の時に御殿は廃された。
御殿稲荷大明神
二代秀忠、三代家光が度々宿泊した船橋御殿の跡地。
家光の頃に御蔵が建てられ、民が大事にしていたことから、江戸の大飢饉でも耐えられたと伝えられる。
四代家綱の時に御殿は廃された。
夏見城
夏見山禅宗曹洞宗長福寺
開創は円融期(969-984)の頃で、当時は天台宗の寺であった。
その後伊勢神宮の御厨の地となり、鎌倉時代も荘園として利用されていた。
一時期荒廃していたが、永禄年間に夏見の領主であった夏見氏によって城に取り立てられた。
曹洞宗になったのもその頃とのこと。
夏見山禅宗曹洞宗長福寺
開創は円融期(969-984)の頃で、当時は天台宗の寺であった。
その後伊勢神宮の御厨の地となり、鎌倉時代も荘園として利用されていた。
一時期荒廃していたが、永禄年間に夏見の領主であった夏見氏によって城に取り立てられた。
曹洞宗になったのもその頃とのこと。
船橋大神宮 意富比神社
景行天皇40年、日本武尊が東国平定の際、その平定成就と、
当地の旱天に苦しんでいた民の為に天照大御神を祀った事が始まりであるとされる。
船橋地区では最古最大の神社。
貞観五年の『日本三代実録』に記載された「下総国意富比神」の名が初出、延喜式にも記載されている。
意富比(おおひ)の名前については、
「大炊」であって食物に関する神である説、
古代豪族である意富氏(おほ)の氏神が祀られている説など。
読みは古くは“おほひ”で、日の意味を比と書く慣習であるから、
「大日神」即ち偉大な太陽神が、古くから祀られていた事がうかがえる。
景行天皇40年、日本武尊が東国平定の際、その平定成就と、
当地の旱天に苦しんでいた民の為に天照大御神を祀った事が始まりであるとされる。
船橋地区では最古最大の神社。
貞観五年の『日本三代実録』に記載された「下総国意富比神」の名が初出、延喜式にも記載されている。
意富比(おおひ)の名前については、
「大炊」であって食物に関する神である説、
古代豪族である意富氏(おほ)の氏神が祀られている説など。
読みは古くは“おほひ”で、日の意味を比と書く慣習であるから、
「大日神」即ち偉大な太陽神が、古くから祀られていた事がうかがえる。
江戸川放水路工事前の
稲荷木-大和田-河原地区の地図。
大和田と河原の大半が水没している。
上の“300m”の右にある神社マークが甲大神社。
この地は古くから大和田村の飛地であったので、
北から
大和田村飛地-稲荷木-大和田-河原が正しい。
大和田村の中心地に神社マークがあるが、これが元々何であったかは分からない。
これが河原春日神社か?
神后社は、現在、“大”と“和”の字の間の右側の黒点の辺りに鎮座している。
当時は何も無い田畑である。
稲荷木-大和田-河原地区の地図。
大和田と河原の大半が水没している。
上の“300m”の右にある神社マークが甲大神社。
この地は古くから大和田村の飛地であったので、
北から
大和田村飛地-稲荷木-大和田-河原が正しい。
大和田村の中心地に神社マークがあるが、これが元々何であったかは分からない。
これが河原春日神社か?
神后社は、現在、“大”と“和”の字の間の右側の黒点の辺りに鎮座している。
当時は何も無い田畑である。
甲大神社
永延二年(988)当地に鎮座、葛飾八幡宮の摂社で「注連下」と称し、大和田村の鎮守社であった。
御祭神は誉田別命。
“甲”については、応神天皇の兜、若しくはその母である神功皇后の兜、
若しくは平将門の兜、若しくは源義家の兜を祀っているからなどと説は様々。
『江戸名所図会』には、「甲の宮」と称され、
国府台合戦で戦った大将の兜が祀られていると紹介されている。
『葛飾記』では、「兜八幡」と紹介されている。
永延二年(988)当地に鎮座、葛飾八幡宮の摂社で「注連下」と称し、大和田村の鎮守社であった。
御祭神は誉田別命。
“甲”については、応神天皇の兜、若しくはその母である神功皇后の兜、
若しくは平将門の兜、若しくは源義家の兜を祀っているからなどと説は様々。
『江戸名所図会』には、「甲の宮」と称され、
国府台合戦で戦った大将の兜が祀られていると紹介されている。
『葛飾記』では、「兜八幡」と紹介されている。
←河原春日神社 胡録神社→
河原春日神社は、江戸川放水路開鑿の為に大正三年に当地に遷座された。
元は河原58番地西側に鎮座しており、大永七年(1527)の創建。
天児屋命が御祭神。
胡録神社は、御祭神は面足命、創建は寛永12年(1635)、としか分からない。
河原春日神社は、江戸川放水路開鑿の為に大正三年に当地に遷座された。
元は河原58番地西側に鎮座しており、大永七年(1527)の創建。
天児屋命が御祭神。
胡録神社は、御祭神は面足命、創建は寛永12年(1635)、としか分からない。
行徳神明神社 豊受神社
寛永十二年に当地に遷座。
その以前は、大永年間(1521-28)に江戸川の対岸に鎮座していたというので、
篠崎の何処かにあったものである可能性があるらしい。
正確な位置は不明。
伊勢内宮の土砂を遷し、内外両皇大神宮を勧請している。
寛永十二年に当地に遷座。
その以前は、大永年間(1521-28)に江戸川の対岸に鎮座していたというので、
篠崎の何処かにあったものである可能性があるらしい。
正確な位置は不明。
伊勢内宮の土砂を遷し、内外両皇大神宮を勧請している。
前川神社
伝承によると、応永年間(1394-1428)の時の川の氾濫の後に鎌田村・今井村に砂州が出来、その後も60年程は洪水によって川筋が度々変化していった。
その後に、葛西御厨によって開発が進んでいき、その過程で祠が建てられたとの事。
前野村の鎮守であり、当初の名称は大六天。
御祭神は素戔男尊、面足尊(おもだるのみこと)・綾惶根尊(あやかしこねのみこと)、豊受姫神。
伝承によると、応永年間(1394-1428)の時の川の氾濫の後に鎌田村・今井村に砂州が出来、その後も60年程は洪水によって川筋が度々変化していった。
その後に、葛西御厨によって開発が進んでいき、その過程で祠が建てられたとの事。
前野村の鎮守であり、当初の名称は大六天。
御祭神は素戔男尊、面足尊(おもだるのみこと)・綾惶根尊(あやかしこねのみこと)、豊受姫神。
南篠崎天祖神社
上鎌田村の鎮守。
創建年代は不詳だが、西光寺住職権大僧都智賢により伊勢神宮の東葛西領上鎌田村の御厨として創建されたという。
当初は神明大神宮といい、明治初期に天祖神社に改称した。
御祭神は天照皇大神。
上鎌田村の鎮守。
創建年代は不詳だが、西光寺住職権大僧都智賢により伊勢神宮の東葛西領上鎌田村の御厨として創建されたという。
当初は神明大神宮といい、明治初期に天祖神社に改称した。
御祭神は天照皇大神。
篠崎浅間神社
(当社HPより)
当社は平安時代承平二年(932年)九月、下総国弥山の人、弥山佐奈比神人として奉仕した社であり後の、天慶承平の乱のとき、平貞盛朝臣関東の平安を祈って、霧島神社を祀り、金幣・弓矢を捧げ祈願致しました。その時が天慶元年(938年)五月十五日であり、その時を神社の創建としております。一千百年前(江戸川区最古)の鎮座でございます。村上天皇の宝剣などを有し、明治の神仏御改革により郷社に列し、終戦後は宗教法人浅間神社として現在にいたっております。
(当社HPより)
当社は平安時代承平二年(932年)九月、下総国弥山の人、弥山佐奈比神人として奉仕した社であり後の、天慶承平の乱のとき、平貞盛朝臣関東の平安を祈って、霧島神社を祀り、金幣・弓矢を捧げ祈願致しました。その時が天慶元年(938年)五月十五日であり、その時を神社の創建としております。一千百年前(江戸川区最古)の鎮座でございます。村上天皇の宝剣などを有し、明治の神仏御改革により郷社に列し、終戦後は宗教法人浅間神社として現在にいたっております。
伊予田北野神社
創建年代不詳ながら、江戸期には天神稲荷合社と称していたらしい。
さらにもう一社、天神稲荷合社が存在していたらしいが、
明治42年に合祀して北野神社となり、
さらに昭和39年に一里塚近くにあった須賀神社を合祀した。
創建年代不詳ながら、江戸期には天神稲荷合社と称していたらしい。
さらにもう一社、天神稲荷合社が存在していたらしいが、
明治42年に合祀して北野神社となり、
さらに昭和39年に一里塚近くにあった須賀神社を合祀した。
市川春日神社
春日神社の御祭神は天児屋命。
創建は不詳だが、承応三年(1654)に再建したとあるので、それ以前から鎮座していたらしい事がわかる。
里見城の城下町であった当地の鎮守として崇拝され今日に至るとある。
春日神社の御祭神は天児屋命。
創建は不詳だが、承応三年(1654)に再建したとあるので、それ以前から鎮座していたらしい事がわかる。
里見城の城下町であった当地の鎮守として崇拝され今日に至るとある。
下総府中六所神社
御祭神:大己貴尊・伊弉諾尊・素盞嗚尊・大宮売尊・布留之御魂・彦火瓊々杵尊
由緒は、境内の掲示より、
当六所之宮は、いまを去る1881年前人皇十二代景行天皇の勅願によって
大己貴尊 伊弉諾尊 素盞嗚尊
大宮売尊 布留之御魂 彦火瓊々杵尊
六神を祭礼した宮と伝えられ国府台字府中の六所の森(現在の国府台スポーツセンター内市民体育館)北に鎮座していました。
その後下総国の総社として国守による祭礼が行われて来ましたが戦国時代には里見氏、北条氏、千葉氏の各諸将の守護を受け、さらに徳川氏からは朱印賜り、篤崇敬されていました。
御神徳勇武の神として宏く、幸運招来、厄払い、縁結びさらに学問の神として須和田、真間、根本、市川の四カ村の鎮守として古くから崇められて来ました。
明治十九年境内が陸軍用地となったため此の地に遷座されました。
御祭神:大己貴尊・伊弉諾尊・素盞嗚尊・大宮売尊・布留之御魂・彦火瓊々杵尊
由緒は、境内の掲示より、
当六所之宮は、いまを去る1881年前人皇十二代景行天皇の勅願によって
大己貴尊 伊弉諾尊 素盞嗚尊
大宮売尊 布留之御魂 彦火瓊々杵尊
六神を祭礼した宮と伝えられ国府台字府中の六所の森(現在の国府台スポーツセンター内市民体育館)北に鎮座していました。
その後下総国の総社として国守による祭礼が行われて来ましたが戦国時代には里見氏、北条氏、千葉氏の各諸将の守護を受け、さらに徳川氏からは朱印賜り、篤崇敬されていました。
御神徳勇武の神として宏く、幸運招来、厄払い、縁結びさらに学問の神として須和田、真間、根本、市川の四カ村の鎮守として古くから崇められて来ました。
明治十九年境内が陸軍用地となったため此の地に遷座されました。
弘法寺手児奈霊神堂
奥が手児奈池
手児奈とは、舒明時代(593-641)の人物で、(当地の?)国造の娘であり、
近隣の国へ嫁いでいたが、勝鹿(葛飾)の国府と諍いがあったので、真間に戻らなくてはならなくなった。
実家にも帰る事ができず一人で子育てしてひっそりと暮らしていたが、男達が黙っておらず、彼女を巡って争いが起こる。
これを嫌がって遂には身を投げてしまったのだとか。
これが、万葉集に詠まれている。
奥が手児奈池
手児奈とは、舒明時代(593-641)の人物で、(当地の?)国造の娘であり、
近隣の国へ嫁いでいたが、勝鹿(葛飾)の国府と諍いがあったので、真間に戻らなくてはならなくなった。
実家にも帰る事ができず一人で子育てしてひっそりと暮らしていたが、男達が黙っておらず、彼女を巡って争いが起こる。
これを嫌がって遂には身を投げてしまったのだとか。
これが、万葉集に詠まれている。
撮影機器:
感想
編集途中
石浜城、隅田川河口沿岸、葛西城を確保したその次は、
太日川河口沿岸部と、真間川河口部を掌握、
そしてついに国府台城へと辿り着いた。
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