記録ID: 7351287
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ハイキング
東海
鳶ヶ巣山砦跡
2024年10月13日(日) [日帰り]


体力度
1
日帰りが可能
- GPS
- 04:17
- 距離
- 9.1km
- 登り
- 439m
- 下り
- 439m
コースタイム
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2024年10月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
Googlemap:34.920271040217315, 137.56854804052824 Mapcode: 301 008 047*02 |
コース状況/ 危険箇所等 |
愛知県新城市乗本新井貝津の集落から鳶ヶ巣山砦跡 駐車場までの車移動は狭くて急坂、行き止まりでこの道を戻るしかないのでここの駐車は避けた方が良い 山行ではヘリポート手前の約500mは道が崩れたり消えかけている、遠回りでも舗装道路で行くべし |
写真
鳶ヶ巣山陣地
天正3年」(1575)長篠合戦において、武田軍は長篠上包囲態勢の一環として乗本側の鳶ヶ巣を主軸に久間山、中山、姥ヶ懐、君が臥床の5陣地を築き、武田信実兵一千を擁して守っていた。織田・徳川の聠合軍は、5月20日の夜酒井忠次が四千の兵を率い、密に松山峠の天嶮を越え背後を突く奇襲作戦に出た。両軍激闘の末信実は戦死し、五陣地ことごとく壊滅した。 鳳来町観光課
天正3年」(1575)長篠合戦において、武田軍は長篠上包囲態勢の一環として乗本側の鳶ヶ巣を主軸に久間山、中山、姥ヶ懐、君が臥床の5陣地を築き、武田信実兵一千を擁して守っていた。織田・徳川の聠合軍は、5月20日の夜酒井忠次が四千の兵を率い、密に松山峠の天嶮を越え背後を突く奇襲作戦に出た。両軍激闘の末信実は戦死し、五陣地ことごとく壊滅した。 鳳来町観光課
鳶ヶ巣の戦い
武田勝頼は、一万五千の大軍を以て長篠城を包囲した。その時乗本側に五つの砦を築き、守兵一千を配して包囲の一環とした。 二十日の夜、徳川の臣酒井忠次は、四千の兵と五百丁の鉄砲隊を引き連れ、吉川の松山峠を越えひそかに五砦の背後に迫っていた。 二十一日の払暁、酒井軍は鉄砲を合図に、鬨の声を挙げ一斉に攻め込んできた。 武田軍はよく防戦したが信実以下ことごとくここに戦死を遂げた。
武田勝頼は、一万五千の大軍を以て長篠城を包囲した。その時乗本側に五つの砦を築き、守兵一千を配して包囲の一環とした。 二十日の夜、徳川の臣酒井忠次は、四千の兵と五百丁の鉄砲隊を引き連れ、吉川の松山峠を越えひそかに五砦の背後に迫っていた。 二十一日の払暁、酒井軍は鉄砲を合図に、鬨の声を挙げ一斉に攻め込んできた。 武田軍はよく防戦したが信実以下ことごとくここに戦死を遂げた。
天正の杉
この枯木は、明治七年の台風によって倒れた杉の木の残がいである。倒れて後も暫く余命を保っていたが、昭和十二年頃遂に枯死してしまった。樹令は不明であるが、三百年以上はたっており、長篠合戦当時、既に生存していたものと考えられるところから「天正の杉」と呼ばれている。
この枯木は、明治七年の台風によって倒れた杉の木の残がいである。倒れて後も暫く余命を保っていたが、昭和十二年頃遂に枯死してしまった。樹令は不明であるが、三百年以上はたっており、長篠合戦当時、既に生存していたものと考えられるところから「天正の杉」と呼ばれている。
中山砦跡碑
中山砦は天正元年(1573)に徳川家康が長篠城攻めの際、付城として築いたとされる。 天正3年(1575)の「長篠・設楽原の戦い」では、武田五砦の一つに再利用され、長篠城に最も近く、鳶ヶ巣山砦と同様に、本丸を見下すことのできる位置関係にある。 標高約120mの馬の背状の尾根頂部に土塁と堀切が一ヶ所設けられていて戦国時代と推測される鉄製の矢じりが一点出土している。
中山砦は天正元年(1573)に徳川家康が長篠城攻めの際、付城として築いたとされる。 天正3年(1575)の「長篠・設楽原の戦い」では、武田五砦の一つに再利用され、長篠城に最も近く、鳶ヶ巣山砦と同様に、本丸を見下すことのできる位置関係にある。 標高約120mの馬の背状の尾根頂部に土塁と堀切が一ヶ所設けられていて戦国時代と推測される鉄製の矢じりが一点出土している。
装備
個人装備 |
長袖シャツ
日よけ帽子
サブザック
昼ご飯
行動食
非常食
飲料
予備電池
ファーストエイドキット
保険証
携帯
タオル
ストック
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