記録ID: 7252476
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ハイキング
京都・北摂
平安京四神相応の地「船岡山」(建勲神社)〜雲林院、玄武神社、斎院跡、妙蓮寺
2024年09月18日(水) [日帰り]


体力度
1
日帰りが可能
- GPS
- 01:34
- 距離
- 3.8km
- 登り
- 27m
- 下り
- 51m
コースタイム
過去天気図(気象庁) | 2024年09月の天気図 |
---|---|
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
|
写真
「四神相応之地」
北に玄武、南に朱雀、東に青竜、西に白虎が配されている。
四神には、地形上のシンボルがあり、
北の玄武は大岩、
南の朱雀は大池(湖)、
東の青竜は大川、
西の白虎は大道とされる。
これは現在、北は船岡山、
南は巨椋池(昭和十六年干拓)、
東は鴨川、西は山陰道とされる。
北に玄武、南に朱雀、東に青竜、西に白虎が配されている。
四神には、地形上のシンボルがあり、
北の玄武は大岩、
南の朱雀は大池(湖)、
東の青竜は大川、
西の白虎は大道とされる。
これは現在、北は船岡山、
南は巨椋池(昭和十六年干拓)、
東は鴨川、西は山陰道とされる。
建勲神社
(北区紫野北舟岡町)
察神 織田信長、織田信忠
正式には建勲神社と呼称する。
天正十年(一五八二)の本能寺の変ののち、豊臣秀吉が正親町天皇の勅許を得て、船岡山を織田信長の霊地と定めたことに始まるという。
明治二年(一八六九)、明治天皇の命により織田信長を祭神とした神杜を創建し、建勲神社の神号を賜わった。
同八年には別格官幣社に列し、社地を船岡山に得て、社殿を新営した。
同十三年には信長の子信忠を配祀し、同四十三年に本殿以下、諸舎を船岡山中腹から山上に移した。
船岡山一帯は国の史跡。
(京都検定テキスト)
(北区紫野北舟岡町)
察神 織田信長、織田信忠
正式には建勲神社と呼称する。
天正十年(一五八二)の本能寺の変ののち、豊臣秀吉が正親町天皇の勅許を得て、船岡山を織田信長の霊地と定めたことに始まるという。
明治二年(一八六九)、明治天皇の命により織田信長を祭神とした神杜を創建し、建勲神社の神号を賜わった。
同八年には別格官幣社に列し、社地を船岡山に得て、社殿を新営した。
同十三年には信長の子信忠を配祀し、同四十三年に本殿以下、諸舎を船岡山中腹から山上に移した。
船岡山一帯は国の史跡。
(京都検定テキスト)
雲林院
(北区紫野雲林院町)
本尊 十一面干手観音
現在は大徳寺の門外塔頭であるが、かつては天台宗の寺院であった。
天長年間(八二四〜三四)に淳和天皇が創設した離宮紫野院に始まり、のち仁明天皇皇子常康親王に伝領されて、雲林院と称されるようになった。
さらに常康親王より僧正遍昭に託され、天台寺院に改められた。雲林院の菩提講は有名で、『大鏡』はここで落ち合った二人の翁による昔語りという趣向で物語が展開する。
また、桜や紅葉の名所として歌枕にもなっており、『古今和歌集』などにも詠まれている。
在原業平が『伊勢物語』の筋を夢で語る謡曲「雲林院」の題材にもなった。
大徳寺創建にあたって、寺領は施入され、寺名を継いで臨済宗大徳寺派の寺院となった。
応仁・文明の乱で焼失し、現在ある観音堂は宝永四年(一七〇七)に再建されたもの。
『源氏物語』賢木にも雲林院は登場し、紫式部の墓と伝えるところが寺の東方、堀川通に面した西側にある。同所に小野篁の墓もある。
(北区紫野雲林院町)
本尊 十一面干手観音
現在は大徳寺の門外塔頭であるが、かつては天台宗の寺院であった。
天長年間(八二四〜三四)に淳和天皇が創設した離宮紫野院に始まり、のち仁明天皇皇子常康親王に伝領されて、雲林院と称されるようになった。
さらに常康親王より僧正遍昭に託され、天台寺院に改められた。雲林院の菩提講は有名で、『大鏡』はここで落ち合った二人の翁による昔語りという趣向で物語が展開する。
また、桜や紅葉の名所として歌枕にもなっており、『古今和歌集』などにも詠まれている。
在原業平が『伊勢物語』の筋を夢で語る謡曲「雲林院」の題材にもなった。
大徳寺創建にあたって、寺領は施入され、寺名を継いで臨済宗大徳寺派の寺院となった。
応仁・文明の乱で焼失し、現在ある観音堂は宝永四年(一七〇七)に再建されたもの。
『源氏物語』賢木にも雲林院は登場し、紫式部の墓と伝えるところが寺の東方、堀川通に面した西側にある。同所に小野篁の墓もある。
斎院跡には何度か来ているが・・・。
しばらく来ていない(-_-;)
民家からおばあさんが出てきたので道を聞くと・・・。
(-_-;)元外国人だった?
会話はできるのだけれど斎院跡なんての何のことか(-_-;)
”長いこと住んでいらっしゃるのですか”と聞くと
”40年になります”
”頑張って”と言われました
ご近所でもわからんもんやね(-_-;)
日本人でも斎院跡なんて・・・。
しばらく来ていない(-_-;)
民家からおばあさんが出てきたので道を聞くと・・・。
(-_-;)元外国人だった?
会話はできるのだけれど斎院跡なんての何のことか(-_-;)
”長いこと住んでいらっしゃるのですか”と聞くと
”40年になります”
”頑張って”と言われました
ご近所でもわからんもんやね(-_-;)
日本人でも斎院跡なんて・・・。
賀茂斎院跡(上京区大宮通廬山寺上ル西入社横町櫟谷七野神社)
賀茂杜に奉仕する斎王が身を清めて住まう場所を斎院といい、現在の櫟谷七野神社のあたりにあったと推定されている。
この一帯が紫野と呼ばれていたため、「紫野斎院」とも称された。
その発祥は、九世紀初めにさかのぼる。
平城上皇と嵯峨天皇が対立した時、嵯峨天皇は賀茂神に「我に利を与えられれば、皇女を阿礼少女として捧げる」と祈願し、その結果、薬子の変で嵯峨天皇は勝利したことから、天皇は第八皇女の有智子内親王を斎王としたと伝えられる。
以後、伊勢神宮の斎王(斎宮)にならって、累代未婚の皇女(あるいは王女)がト定され、平安時代から鎌倉時代にかけて三十五代、約四百年続いた。
賀茂杜に奉仕する斎王が身を清めて住まう場所を斎院といい、現在の櫟谷七野神社のあたりにあったと推定されている。
この一帯が紫野と呼ばれていたため、「紫野斎院」とも称された。
その発祥は、九世紀初めにさかのぼる。
平城上皇と嵯峨天皇が対立した時、嵯峨天皇は賀茂神に「我に利を与えられれば、皇女を阿礼少女として捧げる」と祈願し、その結果、薬子の変で嵯峨天皇は勝利したことから、天皇は第八皇女の有智子内親王を斎王としたと伝えられる。
以後、伊勢神宮の斎王(斎宮)にならって、累代未婚の皇女(あるいは王女)がト定され、平安時代から鎌倉時代にかけて三十五代、約四百年続いた。
妙蓮寺(上京区寺之内通大宮東入妙蓮寺前町)
◆本尊 十界曼荼羅
本門法華宗の大本山。
山号は卯木山。
洛中法華二十一ヵ寺本山の一つ。
永仁二年(一二九四)に日像が造酒屋の中興氏(柳屋)の帰依を受けて、下京区五条西洞院に開創。
寺名を妙法蓮華寺とも、屋号にちなんで柳寺ともいった。
一時衰退したが、応永年間(一三九四〜一四二八)に日慶が再興、妙蓮寺と号した。
現在地には天正十五年(一五八七)に移転。
山号の由来は「柳」の字を二つに分けたもの。
奥書院と玄関に長谷川派による障壁画(重要文化財)が残る。
境内には有名な妙蓮寺椿や十月頃から翌年の四月頃まで花を付ける御会式桜が咲き、墓地には画家の幸野楳嶺の墓がある。
◆本尊 十界曼荼羅
本門法華宗の大本山。
山号は卯木山。
洛中法華二十一ヵ寺本山の一つ。
永仁二年(一二九四)に日像が造酒屋の中興氏(柳屋)の帰依を受けて、下京区五条西洞院に開創。
寺名を妙法蓮華寺とも、屋号にちなんで柳寺ともいった。
一時衰退したが、応永年間(一三九四〜一四二八)に日慶が再興、妙蓮寺と号した。
現在地には天正十五年(一五八七)に移転。
山号の由来は「柳」の字を二つに分けたもの。
奥書院と玄関に長谷川派による障壁画(重要文化財)が残る。
境内には有名な妙蓮寺椿や十月頃から翌年の四月頃まで花を付ける御会式桜が咲き、墓地には画家の幸野楳嶺の墓がある。
撮影機器:
感想
そろそろヒンバナが気になる♫
行ってみよう、先日伺った妙蓮寺
その前に運動を兼ねて船岡山へ
久しぶりに登った
妙蓮寺へ行く前に
確かこの辺だったな、斎院跡?
ご近所の方だと思って声をかけたら
外国人のようだ
しまった(-_-;)
斎院跡への道はわからなかったけれど・・・。
日本に住みついて40年になるそうだ
こんなことが平気で起こる京都の街
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