脊振山


- GPS
- --:--
- 距離
- 0.8km
- 登り
- 61m
- 下り
- 53m
コースタイム
- 山行
- 0:20
- 休憩
- 0:05
- 合計
- 0:25
天候 | ☼ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2015年09月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
飛行機
[復路]脊振山駐車場=東脊振IC=大村IC=長崎空港18:50〜[ANA670]〜20:40羽田空港+++品川+++高田馬場+++東伏見 |
コース状況/ 危険箇所等 |
・問題ありません。 |
写真
感想
福岡県・佐賀県境の分水嶺が、脊振山地です。
その中で福岡県早良区の南にそびえ立つのが標高1,055メートルの脊振山。
特に福岡県側は断層地形のため急峻で、坊主ガ滝、花乱ノ滝などの滝を深い渓谷にかけて美しい姿を見せています。
しかし、山上が自衛隊の道路や建造物で蹂躙されているので、山には申し訳ないのだけれど300名山でなければ縁がなかった山でした。
同じ日、英彦山から下山し長崎空港まで戻る途中に立ち寄りました。
向かう途中、クルマのガソリンがほとんど底をついてしまい「どこかで早くガソリンを入れなければ・・・・」と思いつつ、とうとう脊振山のふもとまで来てしまい、「ま、いいか」とメーターの針がほぼ「E」に張り付いているのに冷や汗をかきながらうんうん燃費悪く坂道を登り、「E」になったところで駐車場に着きました。
近くにいた地元の人に最寄りのGSの場所を確認し、いやいや結構キョリあるなーと不安を持ちながら頂上まで登りました。
脊振山の山名は、昔、朝鮮の百済から弁財天が竜馬に乗って現れ脊振山の上で激しく背を振り、天に向かって鳴いたと言われたところから付けられたと言います。
ご多聞にもれず近世では、筑前の黒田藩と肥前・鍋島藩との間で、境界をめぐる争いが絶えませんでした。
幕府に裁定を仰ぎ、両藩から提出された古文書や記録の中で、鍋島藩からの絵図面に脊振山が記されていたことから鍋島藩に軍配が上がることになりました。
拝殿前にある石灯篭は、その裁定に喜んだ佐賀藩主・鍋島綱茂により寄進されたものだと言われています。ちなみに敗れた黒田藩の家老3名は責めを負い切腹しました。
山頂につくと弁才天を祭る脊振神社。
山頂の石段を少し下った自衛隊基地内に役の行者の石像がありました。
役の行者は山伏の祖と言われる人。英彦山から宝満山を飛び越え、脊振山頂の竜池に「金」の文字を見つけて降り立ったという伝説が残っています。
基地の車道や建造物・フェンスなどを目にしながらの10分間の、登山と言えないような登山となりましたが、たくさんの家族連れが訪れていて、頂上では西南学院大学WV部の学生が引率登山をしているのにも出会いました。
西南学院ってあの偉大なバンド、チューリップだよなーなんて思いながら、頂上の景色を楽しみました。
地元ではよくよく親しまれている山。
これもまた300名山、四国100名山たらしめているところなのかも知れません。
帰路、調べてもらったGSに飛び込んだらナンとお休み!
そばの交番にかけこんでさらに最寄りのGSを教えてもらい、そこまでトロトロ運転をして事なきを得ました。
無精しないで早めにガスは入れることですね。
ひと安心ついたあと、一路、長崎高速道に乗って長崎空港そばのレンタカーショップへ。返却ついでにヒゲも剃ってスーツに着替え、想い出とともにザックはコロコロのスーツケースに収め、すっきりした出張帰りのビジネスマンとなって九州をあとにしたのでした。
****************
10月の中旬に脊振山が世間を騒がせました。
というのも50年前に絶滅したと思われていたクマがこの脊振山で発見されたというニュース。
なかなかロマンのある話であったわけですが、その後の糞などの調査により「アナグマ」だったことがわかりました。
ちょっと残念でした。
あのような里に近い山にクマが棲息する可能性も低いんでしょうが、夢のある話でした。
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