妻木城(岐阜県土岐市)

- GPS
- 01:26
- 距離
- 3.0km
- 登り
- 226m
- 下り
- 218m
過去天気図(気象庁) | 2024年05月の天気図 |
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アクセス |
写真
明治3年(1870年)の大風によって幹が裂け、その後立ち枯れた大杉です。幹周りが3.4メートルある巨木で「物の見杉」と呼ばれてきました。戦後下駄を作るために切り取られた跡が今も残っています。
人が積んだように見えますが、これは「摂理」と言う現象です。マグマが地下で冷えて花崗岩になるときに収縮して等間隔に割れ目(摂理)が多数できます。地表に現れたとき、風化侵食によって四角形の塊に分かれ、あたかも人が積んだように見えます。高さ6メートル以上の場所もあります。
木場内に2カ所あった井戸の1つです。土に囲まれた内側にあります。ここを水源とする沢は、南側へ登山道に沿って流れています。水量は多くありませんが、年中耐える事はありません。
感想
【城名】妻木城址、妻木御殿跡(岐阜県土岐市)
【別名】ーー
【場所】岐阜県土岐市妻木町
【形式】山城
【地目】ーー
【立地】ーー
【標高(比高)】409m(190m)
【規模】ーーxーーm
【時代】暦応2年 / 延元4年(1339年)〜元和年間(1615年 - 1624年)頃
【築城】明智頼重
【城主】土岐氏、明智氏、妻木氏など
【遺構他】 石垣、土塁、堀切、曲輪、井戸跡、碑、虎口
【訪城日】2024年5月3日
【訪城時間】1時間26分17秒
【備考】ーー
【概要】土岐市南部に築かれた山城。妻木城は明智氏の所領であったが、後には明智氏一族とされる妻木氏の居城となって、次第に整備されていった。また妻木城主は代々と陶器の生産を奨励し、現在の美濃焼の基礎を作った領主として知られている。
広い駐車場が北側の御殿跡と南側の妻木城南登山口の両方に整備されている。
【歴史】
南北朝時代
暦応2年 / 延元4年(1339年)に、土岐頼貞の孫である明智頼重が家臣育成の訓練場のような意味合いで築城したともされる。戦国時代辺りに土岐氏一族の明智氏の所領になった後、さらにその一族とされる妻木氏の居城となった。
戦国時代
天正10年(1582年)本能寺の変の後に起きた山崎の戦いの際、城を治めていた第12代城主妻木広忠は明智軍に属して敗北し自刃したため、一族の妻木頼忠が跡を継いだ。その頃、可児郡の金山城を本拠とする森長可が城を攻めたが、頼忠は和議にもちこみ長可に臣従した。
天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いの際に頼忠は森長可の家臣として豊臣秀吉側につき内津峠に布陣した。小規模な合戦により麓の町は焼失。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの際には徳川家康側につき、頼忠は西軍側の岩村城主・田丸直昌と戦った。岩村城は難攻不落と名高い城だったために苦戦を強いられ、田丸軍と睨み合っていたが、関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わったことで岩村城を指揮していた田丸主水も城を明け渡した。
江戸時代
慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦いの際の戦功により頼忠は徳川家康から改めてこの地域を所領として与えられたが、領地経営において、山の上の城では生活が不便であるため、城のある山の北側の山麓に屋敷を築いて住み始め、元和年間(1615年 - 1624年)頃にはこの城は放棄されたとみえ、山麓にある妻木城士屋敷が政庁となっていた。
【資料】ーー
【訪城記録】
妻木城南側の駐車場に停めて訪城。
このあたりいかにも熊が出そうで、実際そのような情報がネットで公開されていた。
登山口に地元の妻木城址の会により縄張り図が置かれているので、それを見ながら歩くとポイントを押さえて回ることができる。
三の曲輪から領地や御岳が見られる。二の曲輪に案内板が設置されている。一の曲輪には城山八幡神社が祀られている。そのほかには物見杉、旗立て岩がある。
一の曲輪、二の曲輪の周囲には石垣が残り、それぞれ虎口がある。
一の曲輪の南側には人の手が入ったような花崗岩の巨石群があり、見応えがある。
西側の伝太鼓曲輪から南側の堀切を見下ろすと切り出しを諦めたらしいくさび跡の残る巨石が見える。
【見残し】ーー
【案内板】
妻木城は妻木町を見下ろす標高409メートルの山頂に築かれた山城です。築城年代については、これまで土岐明智彦九郎頼重(土岐明智氏、妻木氏の祖)が祖父である美濃守護職土岐頼定の遺領を継いだ暦応2年(1339)頃とされていましたが、発掘調査成果により戦国時代(15世紀中から後半)と考えられます。
妻木城のI郭とII郭は、石垣によって2段に分けられ、I郭は東側に、II郭は北側に虎口を設けています。周囲には曲輪や帯曲輪があり、北側を除いて、堀切りなどによって尾根続きを分断しています。また南西側の井戸が作られた曲輪の南には土塁を築いて、谷筋の防御とし、主郭へは直接登れない配置にしています
しかし、西側の尾根続きを分断した外側にも曲輪が続いていますので、当初は東西に長い縄張りであったと考えられます。関ヶ原の戦いの際に、東軍についた妻木氏が、岩村城の田丸氏の攻撃に備えて、防備を固めるため、堀切や横堀によってコンパクトに再編成したものと考えられます。
その後妻城は、江戸時代初期(17世紀)までは機能していましたが、それ以降は山麓の士(さむらい)屋敷(妻木陣屋)がメインの場として使用され、妻木氏が断絶する方治元年(1658年)まで利用されていました
山麓部の縄張りは近代に描かれた絵図によると、山際の最も奥まった空間には、領主の館跡である「御殿跡」が位置し、それより北側には家臣の屋敷地が広がっています。御殿跡の内部は高さ1から2メートル前後の石垣で区画され「御殿跡」「桝形」と呼ばれる曲輪が作られています。
江戸時代前期の旗本クラスの城郭遺構が、居館や家臣団の屋敷地を含めて残されている例は稀で昭和31年に妻木城が、翌年には士屋敷が岐阜県史跡に指定されています。土岐市教育委員会
【堀切とくさび跡のある花崗岩】
堀の掘削は花崗岩の巨石によって困難を極めました。太鼓櫓の南側にはくさび跡の残る巨岩が残されています。岩の除去を断念したものと思われます。
【花崗岩の巨石群と摂理】
人が積んだように見えますが、これは「摂理」と言う現象です。マグマが地下で冷えて花崗岩になるときに収縮して等間隔に割れ目(摂理)が多数できます。地表に現れたとき、風化侵食によって四角形の塊に分かれ、あたかも人が積んだように見えます。高さ6メートル以上の場所もあります。
【妻木城の歴史】
妻木城は、土岐市の南部妻木町を見下ろす標高409メートルの城山の山頂に築かれた山城です。また、城山の北側山麓には、御殿跡、士屋敷跡と言われる遺構が残されています。
いつ築城されたかは定かではありませんが、暦応2年(1339年)に土岐明智頼重(土岐明智氏、妻木氏の祖)が祖父である美濃守護土岐頼定の遺領を継ぎ妻木郷の領主になった後に地築城されたと言われます。
土岐明智氏は、代々妻木郷を治めますが、戦国時代に入ると没落し、城主は一族の妻木氏に変わります。妻木氏は、織田武田の抗争に始まる動乱期に、遠山市、小里氏など、周辺領主が没落していく中で、一貫して妻木郷を領してきました。
妻木氏は、関ヶ原の戦い(1600年)に東軍(徳川方)に、味方し、岩村城(恵那郡岩村町)を攻略します。その戦功により土岐郡内7500石の領主として3代続きますが、万治元年(1658年)城主が急死し、跡継ぎがなく妻木氏は断絶し、妻木城は廃城になりました。
妻木城主は代々陶器の生産を奨励し、織部志野などに代表される美濃焼を育てた領主としても注目されています
妻木城は、築城から廃城まで約600年間にわたって存続し、時代とともに改修されてきました。山上には曲輪や堀切り、土塁、石垣などが残り、本丸、太鼓櫓などの伝承が今に伝わります。まだ山麓には、関ヶ原の戦い以後大改修されたと思われる御殿跡や士屋敷などの区画が石垣とともに残されています。
近世初頭の城郭遺構が居館や家臣団の屋敷、城下町を含めて残されている例は、全国的にも極めて稀で、山麓の御殿跡と士屋敷跡も含めて岐阜県史跡に指定されています
妻木城復元想像図について
妻木城のイメージを理解していただくために、復元想像図を制作しました。時代は戦国時代末期を想定しています。この図は高田徹氏の縄張り図を基本とし、現地調査の上、地形の状況や遺構から考察し、制作しました。この図は、あくまでも想像図です。
【浦山第二茶房石定】
妻木川を含む東濃地域は、全国でも有数の陶磁器「美濃焼き」の生産地であり、古くから陶磁器生産のための陶土採掘や燃料供給によって山林伐採が行われてきました。
このため、当地域は「日本3大ハゲ山」の1つに数えられるほど広大な荒廃山地が広がり、少量の雨でも容易に土砂が流れ出し下流の土岐川・庄内川では大きな水害が度々発生しました
地域の安全確保のため、国は1937年(昭和12年)直轄砂防事業に着手しました。
浦山第二砂防堰堤は昭和18年に作られた間知石(けんちいし)の矢羽積みによる空石積(からいしづみ)堰堤です。この型式の砂防堰堤は非常に珍しい上に、右岸袖部は妻木城址の石垣(野面積み)と一体化されていることから、城郭の石積技術が反映されているものと考えられ、卓越した技量を持つ石工建設、当時の苦労が偲ばれます。
当砂防設定は「再現することが容易ではないもの」との評価を受け、2006年(平成18年) 10月18日に「登録有形文化財」として登録されました
【井戸跡】
木場内に2カ所あった井戸の1つです。土に囲まれた内側にあります。ここを水源とする沢は、南側へ登山道に沿って流れています。水量は多くありませんが、年中耐える事はありません。
【物見杉】
明治3年(1870年)の大風によって幹が裂け、その後立ち枯れた大杉です。幹周りが3.4メートルある巨木で「物の見杉」と呼ばれてきました。戦後下駄を作るために切り取られた跡が今も残っています。
▼ガーミン軌跡
https://connect.garmin.com/modern/activity/15215034958
▼これまでの訪城記録
http://nack1003.livedoor.blog/archives/6463470.html
▼攻城団
https://kojodan.jp/profile/11671/
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