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Yamareco

記録ID: 6015213
全員に公開
キャンプ等、その他
奥多摩・高尾

由井領支配拠点巡り

2023年10月06日(金) [日帰り]
 - 拍手
体力度
3
日帰りが可能
GPS
06:26
距離
35.1km
登り
330m
下り
429m
歩くペース
とても速い
0.60.7
ヤマレコの計画機能「らくルート」の標準コースタイムを「1.0」としたときの倍率です。

コースタイム

日帰り
山行
6:18
休憩
0:02
合計
6:20
距離 35.1km 登り 332m 下り 440m
10:49
3
10:53
3
10:56
10:57
4
11:01
4
11:05
10
11:14
11:15
1
13:28
33
14:01
58
14:59
40
15:39
15:41
65
16:46
16:47
25
17:12
ゴール地点
過去天気図(気象庁) 2023年10月の天気図
アクセス
コース状況/
危険箇所等
関東、特に武蔵国の中世の歴史およそ500年間をざっくりまとめました。
二宮神社

小河大明神とも称されるこの神社の創建は不明。
主祭神は、国常立尊という日本神話における最初の神が祀られている。
異様に高い身分の神様が祀られているのはどういう意味があるのだろう??

藤原秀郷が天慶の乱の際に戦勝祈願をしたと言われている。
2023年10月06日 08:12撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 8:12
二宮神社

小河大明神とも称されるこの神社の創建は不明。
主祭神は、国常立尊という日本神話における最初の神が祀られている。
異様に高い身分の神様が祀られているのはどういう意味があるのだろう??

藤原秀郷が天慶の乱の際に戦勝祈願をしたと言われている。
二宮神社並びに二宮城説明板
2023年10月06日 08:12撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 8:12
二宮神社並びに二宮城説明板
二宮神社縁起

祭神などはここに書いてある。
2023年10月06日 08:12撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 8:12
二宮神社縁起

祭神などはここに書いてある。
八幡八雲神社

横山党

 横山党は小野篁(802-853)の後裔とされている。
第五代孝昭天皇の皇子天足彦国押人命を祖とする和珥氏の枝氏。
小野氏の本拠地は近江国であり、大津の小野神社の創建年代は不詳とのこと。
小野篁は、父が陸奥守に任じられた事で父と共に陸奥国に赴いていたが、
基本的な活動場所は京都である。
 852年、即ち篁の没年の前年に、現東京都台東区に、住民が篁を主祭神とした小野照崎神社を建立した。
他に、菅原道真(845-903)も主祭神となっている。

 平高望が上総介に任じられたのが898年。
高望は平国香(伊勢平氏祖)や平良将(桓武平氏祖)らを伴って上総に下向する。

 小野篁の孫である小野好古が922年に大出世を果たしており、
ほぼ同時期である924年、小野隆泰は武蔵守に任じられて赴任し、石清水八幡宮を勧請して八幡神社を建立した。
主祭神は応神天皇と素戔嗚尊。
ちなみに隆泰の次に932年に武蔵守となったのは、西党の党祖である日奉宗頼。
2023年10月06日 13:44撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 13:44
八幡八雲神社

横山党

 横山党は小野篁(802-853)の後裔とされている。
第五代孝昭天皇の皇子天足彦国押人命を祖とする和珥氏の枝氏。
小野氏の本拠地は近江国であり、大津の小野神社の創建年代は不詳とのこと。
小野篁は、父が陸奥守に任じられた事で父と共に陸奥国に赴いていたが、
基本的な活動場所は京都である。
 852年、即ち篁の没年の前年に、現東京都台東区に、住民が篁を主祭神とした小野照崎神社を建立した。
他に、菅原道真(845-903)も主祭神となっている。

 平高望が上総介に任じられたのが898年。
高望は平国香(伊勢平氏祖)や平良将(桓武平氏祖)らを伴って上総に下向する。

 小野篁の孫である小野好古が922年に大出世を果たしており、
ほぼ同時期である924年、小野隆泰は武蔵守に任じられて赴任し、石清水八幡宮を勧請して八幡神社を建立した。
主祭神は応神天皇と素戔嗚尊。
ちなみに隆泰の次に932年に武蔵守となったのは、西党の党祖である日奉宗頼。
横山党根拠地の説明板

横山氏

 その後武蔵守は藤原氏が二代続くが、
938年に武蔵守に興世王が赴任すると、武蔵介の源経基(清和源氏の祖)と足立郡郡司の武蔵武芝が争い、これを平良将の子平将門が鎮める。
ところが939年、百済王貞連が正任国司として武蔵に派遣されると興世王と対立し、
平将門が蜂起する遠因となる。

 同939年、小野隆泰(孝泰)の子小野義孝が武蔵権守に任じられ、八幡八雲神社の坐す横山に居館を置いた。
よって義孝は横山を名乗るようになる。これが横山党の祖である。
また義孝の弟時資は児玉郡に居を構えて猪俣を名乗り、猪俣党の祖となる。
 関東に覇権を確立した平将門だったが、940年、国香の子平貞盛らによって滅ぼされる。
小野好古は同時代に起こった藤原純友の乱の解決に功がある事から、
小野氏は概して朝廷側にあったと言える。
 小野篁から7代(9世?)後の小野孝泰が972年頃に現東京都町田市に篁を祀る小野神社を建立。
小野神社の祭神は小野篁の他に、天下春命とも。
2023年10月06日 13:48撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 13:48
横山党根拠地の説明板

横山氏

 その後武蔵守は藤原氏が二代続くが、
938年に武蔵守に興世王が赴任すると、武蔵介の源経基(清和源氏の祖)と足立郡郡司の武蔵武芝が争い、これを平良将の子平将門が鎮める。
ところが939年、百済王貞連が正任国司として武蔵に派遣されると興世王と対立し、
平将門が蜂起する遠因となる。

 同939年、小野隆泰(孝泰)の子小野義孝が武蔵権守に任じられ、八幡八雲神社の坐す横山に居館を置いた。
よって義孝は横山を名乗るようになる。これが横山党の祖である。
また義孝の弟時資は児玉郡に居を構えて猪俣を名乗り、猪俣党の祖となる。
 関東に覇権を確立した平将門だったが、940年、国香の子平貞盛らによって滅ぼされる。
小野好古は同時代に起こった藤原純友の乱の解決に功がある事から、
小野氏は概して朝廷側にあったと言える。
 小野篁から7代(9世?)後の小野孝泰が972年頃に現東京都町田市に篁を祀る小野神社を建立。
小野神社の祭神は小野篁の他に、天下春命とも。
八幡八雲神社由緒

武蔵七党

 小野(横山)義孝の横山党や日奉氏の西党は勅旨牧である由比牧・小野牧や小川牧を管理する武士団として発展、拡大していく。
武蔵北部の猪俣党や、児玉党、村山党、野与党、丹党などが形成され、
武蔵七党と呼ばれるようになり、横山党はその筆頭格となる。
 義孝の孫横山経兼は1051-1062年の前九年の役にて源頼義(988-1075,清和源氏経元基流)に従軍。

 武蔵七党は近隣の上野や相模に拡大するようになる。
横山党の経兼の子横山隆兼は相模国の海老名波多野氏への婚姻政策などで相模への進出を本格化し、
その最中で横山荘(舟木田荘)の主権を巡って相模国愛甲荘の愛甲氏と対立していた。
そして1113年、愛甲内記平大夫を殺害してしまう。
この事件を起こした事で横山隆兼は朝廷より追討令を出されてしまうも、横山党は必死に抵抗した。
横山党隆兼は源為義(清和源氏)(1096-1156)の被官であり、その保護のお陰で許される事になり、
愛甲氏は横山党に降る事になり、後に隆兼の子季隆が愛甲郡に入って愛甲氏を継承する。
2023年10月06日 13:46撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 13:46
八幡八雲神社由緒

武蔵七党

 小野(横山)義孝の横山党や日奉氏の西党は勅旨牧である由比牧・小野牧や小川牧を管理する武士団として発展、拡大していく。
武蔵北部の猪俣党や、児玉党、村山党、野与党、丹党などが形成され、
武蔵七党と呼ばれるようになり、横山党はその筆頭格となる。
 義孝の孫横山経兼は1051-1062年の前九年の役にて源頼義(988-1075,清和源氏経元基流)に従軍。

 武蔵七党は近隣の上野や相模に拡大するようになる。
横山党の経兼の子横山隆兼は相模国の海老名波多野氏への婚姻政策などで相模への進出を本格化し、
その最中で横山荘(舟木田荘)の主権を巡って相模国愛甲荘の愛甲氏と対立していた。
そして1113年、愛甲内記平大夫を殺害してしまう。
この事件を起こした事で横山隆兼は朝廷より追討令を出されてしまうも、横山党は必死に抵抗した。
横山党隆兼は源為義(清和源氏)(1096-1156)の被官であり、その保護のお陰で許される事になり、
愛甲氏は横山党に降る事になり、後に隆兼の子季隆が愛甲郡に入って愛甲氏を継承する。
横山神社

平安時代末期

 1150年代、源為義は息子の源義朝(1123-1160)と対立。
1156年、為義は崇徳上皇派に属すが、義朝と平清盛(桓武平氏)(1118-1181)は後白河天皇派として戦う(保元の乱)。
この時横山党は、義朝軍(もしくは畠山氏(桓武平氏もしくは清和源氏))に従軍した。
後、1159年から60年、源義朝と平清盛は、
藤原信頼・二条親政派と信西・後白河院政派で分かれて戦う事になり(平治の乱)、
横山党は前者の義朝軍に参じている。
なお、後者の後白河院政派の北面武士の筆頭格に大江家仲と大江公朝の名があるが、系譜は不明との事。
平治の乱で二条親政派は戦いには勝利するも、
義朝は戦死し、政権樹立には至らず失脚、後白河院政が確立するもこれも崩壊に至り、結果的に平氏政権が確立していく事となる。

 桓武平氏直方流を称する伊豆の在地豪族北条氏、北条時政(1138-1215)が、
1160年、配流された源義朝の嫡子源頼朝(1147-1199)の監視役となる。
平氏政権下では、武蔵七党の目立った活動はわからない。
2023年10月06日 13:48撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 13:48
横山神社

平安時代末期

 1150年代、源為義は息子の源義朝(1123-1160)と対立。
1156年、為義は崇徳上皇派に属すが、義朝と平清盛(桓武平氏)(1118-1181)は後白河天皇派として戦う(保元の乱)。
この時横山党は、義朝軍(もしくは畠山氏(桓武平氏もしくは清和源氏))に従軍した。
後、1159年から60年、源義朝と平清盛は、
藤原信頼・二条親政派と信西・後白河院政派で分かれて戦う事になり(平治の乱)、
横山党は前者の義朝軍に参じている。
なお、後者の後白河院政派の北面武士の筆頭格に大江家仲と大江公朝の名があるが、系譜は不明との事。
平治の乱で二条親政派は戦いには勝利するも、
義朝は戦死し、政権樹立には至らず失脚、後白河院政が確立するもこれも崩壊に至り、結果的に平氏政権が確立していく事となる。

 桓武平氏直方流を称する伊豆の在地豪族北条氏、北条時政(1138-1215)が、
1160年、配流された源義朝の嫡子源頼朝(1147-1199)の監視役となる。
平氏政権下では、武蔵七党の目立った活動はわからない。
横山神社

鎌倉時代

 1180年治承4年、いわゆる治承・寿永の乱(1180-1185)が勃発。
横山経兼の弟成田成任の子小野成綱が活躍した。
成綱は鎌倉政権に於いて、尾張国守護を任じられる。
本筋である経兼の子横山隆兼の嫡子横山時重もまた鎌倉政権にて重きを成し、
子の横山時広、妹の夫である和田義盛(桓武平氏三浦氏)らと共に頼朝を支える。
同じく別の妹は梶原景清に嫁ぎ、梶原景時を産む。
時広の子横山時兼(1153-1213)もまた頼朝の頃より鎌倉に仕える。
時兼の妹は義盛の長男和田常盛に嫁いだ。
1213年、和田合戦では当然和田方ついた為、和田氏滅亡と共に所領を没収される。
小野成綱の弟中条兼綱の子中条家長は八田知家の養子となっており、
頼朝死後も北条氏と親しく、御成敗式目の策定にも関与した。
2023年10月06日 13:48撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 13:48
横山神社

鎌倉時代

 1180年治承4年、いわゆる治承・寿永の乱(1180-1185)が勃発。
横山経兼の弟成田成任の子小野成綱が活躍した。
成綱は鎌倉政権に於いて、尾張国守護を任じられる。
本筋である経兼の子横山隆兼の嫡子横山時重もまた鎌倉政権にて重きを成し、
子の横山時広、妹の夫である和田義盛(桓武平氏三浦氏)らと共に頼朝を支える。
同じく別の妹は梶原景清に嫁ぎ、梶原景時を産む。
時広の子横山時兼(1153-1213)もまた頼朝の頃より鎌倉に仕える。
時兼の妹は義盛の長男和田常盛に嫁いだ。
1213年、和田合戦では当然和田方ついた為、和田氏滅亡と共に所領を没収される。
小野成綱の弟中条兼綱の子中条家長は八田知家の養子となっており、
頼朝死後も北条氏と親しく、御成敗式目の策定にも関与した。
大江屋敷

大江氏と鎌倉時代

 アマテラスとスサノヲの誓の時に誕生したアメノホヒの後裔である野見宿禰が埴輪を発明した事で土師臣姓を賜り、
土師氏は桓武天皇の時代に大枝の姓が与えられる。
大江の字に変えたのは866年。
大江匡房(1041-1111)は源義家(八幡太郎)(1039-1106)に兵法を教えたと言われている。
本貫は山城国。

 大江匡房の曾孫である大江広元(1148-1225)が源頼朝の政権を支えていた。
広元は大江惟光と中原広委がどちらが実父なのか養父なのか不明であり、
当初は兄中原親能と共に中原広元を名乗っていた。
晩年の陸奥守に任じられた1216年に大江に改められた。
大江広元は鎌倉幕府成立の立役者であると共に、
和田合戦の際義盛を討ち取ったのは一族の大江義範という人物であるとか。
没落した横山党に変わり、この地には大江氏が入った。
現廣園寺に大江広元の屋敷があったとの伝承があるが、多くの資料にその事は触れられていない。
2023年10月06日 14:20撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 14:20
大江屋敷

大江氏と鎌倉時代

 アマテラスとスサノヲの誓の時に誕生したアメノホヒの後裔である野見宿禰が埴輪を発明した事で土師臣姓を賜り、
土師氏は桓武天皇の時代に大枝の姓が与えられる。
大江の字に変えたのは866年。
大江匡房(1041-1111)は源義家(八幡太郎)(1039-1106)に兵法を教えたと言われている。
本貫は山城国。

 大江匡房の曾孫である大江広元(1148-1225)が源頼朝の政権を支えていた。
広元は大江惟光と中原広委がどちらが実父なのか養父なのか不明であり、
当初は兄中原親能と共に中原広元を名乗っていた。
晩年の陸奥守に任じられた1216年に大江に改められた。
大江広元は鎌倉幕府成立の立役者であると共に、
和田合戦の際義盛を討ち取ったのは一族の大江義範という人物であるとか。
没落した横山党に変わり、この地には大江氏が入った。
現廣園寺に大江広元の屋敷があったとの伝承があるが、多くの資料にその事は触れられていない。
廣園寺

廣園寺の創建は1389年、大江備中守師親による。
2023年10月06日 14:14撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 14:14
廣園寺

廣園寺の創建は1389年、大江備中守師親による。
地域の説明板
2023年10月06日 14:16撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 14:16
地域の説明板
廣園寺説明板
2023年10月06日 14:17撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 14:17
廣園寺説明板
廣園寺
2023年10月06日 14:18撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 14:18
廣園寺
廣園寺説明板
2023年10月06日 14:19撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 14:19
廣園寺説明板
廣園寺
2023年10月06日 14:20撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 14:20
廣園寺
普門寺
二宮神社の直ぐ近くの普門寺は、1269年に開基
2023年10月06日 08:07撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 8:07
普門寺
二宮神社の直ぐ近くの普門寺は、1269年に開基
片倉城(住吉神社)

鎌倉執権北条氏時代

 片倉城は大江広元の次男長井時広が住んだと言われるが定かでは無い。
時広の兄の大江親弘が1221年の承久の乱で失脚した為、
出羽国の長井荘を所領に持つ時広が大江氏の総領となってこの地に移る。
長井時広の子長井泰秀(1212-1254)もまた執権北条氏に接近してその地位を確保する。
泰秀の泰の字は当然北条泰時からの偏諱。

長井高冬(1313-1347)は父を早く亡くし叔父の長井広秀と共に幕府の要職にあった。
高の字は執権北条高時(1304-1333)の偏諱とされる。
1333年に鎌倉府が滅ぶと高の字を捨てて読みは同じ長井挙冬と名乗った。
後醍醐天皇の建武の新政にて要職を成していたが、
それに反旗を翻した足利尊氏(1305-1358)に従った。
長井氏はその後片倉城を拠点とし、
尊氏が、関東出先機関である鎌倉に置いた鎌倉府の鎌倉公方家に支えているが、
1352年以降中央政権からの記述が無くなると言う。
2023年10月06日 15:05撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 15:05
片倉城(住吉神社)

鎌倉執権北条氏時代

 片倉城は大江広元の次男長井時広が住んだと言われるが定かでは無い。
時広の兄の大江親弘が1221年の承久の乱で失脚した為、
出羽国の長井荘を所領に持つ時広が大江氏の総領となってこの地に移る。
長井時広の子長井泰秀(1212-1254)もまた執権北条氏に接近してその地位を確保する。
泰秀の泰の字は当然北条泰時からの偏諱。

長井高冬(1313-1347)は父を早く亡くし叔父の長井広秀と共に幕府の要職にあった。
高の字は執権北条高時(1304-1333)の偏諱とされる。
1333年に鎌倉府が滅ぶと高の字を捨てて読みは同じ長井挙冬と名乗った。
後醍醐天皇の建武の新政にて要職を成していたが、
それに反旗を翻した足利尊氏(1305-1358)に従った。
長井氏はその後片倉城を拠点とし、
尊氏が、関東出先機関である鎌倉に置いた鎌倉府の鎌倉公方家に支えているが、
1352年以降中央政権からの記述が無くなると言う。
片倉城説明板

室町幕府と大石氏

 足利尊氏・直義兄弟の母は藤原北家高藤流勧修寺流の出の上杉清子であり、本貫は丹波国何鹿郡上杉荘。
清子の兄である上杉憲房ももちろん室町幕府に従った。
1349年観応の擾乱が起きると足利直義(1307-1352)は失脚し、尊氏三男足利義詮が将軍の後継者として京都に呼び出され、
代わりに尊氏四男の足利基氏が鎌倉に下向する。
上杉憲房の子上杉憲顕(1306-1368)がこれに従い鎌倉に下向した。

 この初代関東管領上杉憲顕に仕えているのが、大石為重である。
大石氏は藤原北家秀郷流、若しくは清和源氏義仲流を自称し、信濃国佐久郡を発祥とする。
木曽四郎義宗-宗仲-為教-義任-為重と続いている。
為重には実子が無く、縁戚である木曽義仲の後裔を養子にとり、大石信重(1336-1424)と名乗らせた。
上杉憲顕は高師冬と共に足利基氏を補佐する職にあったが、
高師直によって従兄弟の上杉重能が殺されると高家と対立した。
憲顕は直義を鎌倉に呼んで政権を樹立しようと試みるが失敗し、
尊氏によって信濃国への蟄居を命ぜられてしまう。

 こうした北朝の騒乱に乗じて北畠親房が京都と鎌倉を同時攻撃しようと企み、
呼応した新田義貞の遺児新田義興・義宗らは上野国で挙兵して鎌倉を目指して南下。
この挙兵には旧直義派も多く参陣し、信濃国の上杉憲顕も義宗軍に合流する。
1352年、人見ケ原の戦い(府中市)などで合戦するも、
笛吹峠の戦いに足利軍に敗れ、信濃国に逃亡する。
新田義興らは三浦高道の支援を受けて足利軍を破り鎌倉占拠に成功するも、
笛吹峠での義宗・憲顕らの敗北を知ると鎌倉から逃亡した。
2023年10月06日 15:04撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 15:04
片倉城説明板

室町幕府と大石氏

 足利尊氏・直義兄弟の母は藤原北家高藤流勧修寺流の出の上杉清子であり、本貫は丹波国何鹿郡上杉荘。
清子の兄である上杉憲房ももちろん室町幕府に従った。
1349年観応の擾乱が起きると足利直義(1307-1352)は失脚し、尊氏三男足利義詮が将軍の後継者として京都に呼び出され、
代わりに尊氏四男の足利基氏が鎌倉に下向する。
上杉憲房の子上杉憲顕(1306-1368)がこれに従い鎌倉に下向した。

 この初代関東管領上杉憲顕に仕えているのが、大石為重である。
大石氏は藤原北家秀郷流、若しくは清和源氏義仲流を自称し、信濃国佐久郡を発祥とする。
木曽四郎義宗-宗仲-為教-義任-為重と続いている。
為重には実子が無く、縁戚である木曽義仲の後裔を養子にとり、大石信重(1336-1424)と名乗らせた。
上杉憲顕は高師冬と共に足利基氏を補佐する職にあったが、
高師直によって従兄弟の上杉重能が殺されると高家と対立した。
憲顕は直義を鎌倉に呼んで政権を樹立しようと試みるが失敗し、
尊氏によって信濃国への蟄居を命ぜられてしまう。

 こうした北朝の騒乱に乗じて北畠親房が京都と鎌倉を同時攻撃しようと企み、
呼応した新田義貞の遺児新田義興・義宗らは上野国で挙兵して鎌倉を目指して南下。
この挙兵には旧直義派も多く参陣し、信濃国の上杉憲顕も義宗軍に合流する。
1352年、人見ケ原の戦い(府中市)などで合戦するも、
笛吹峠の戦いに足利軍に敗れ、信濃国に逃亡する。
新田義興らは三浦高道の支援を受けて足利軍を破り鎌倉占拠に成功するも、
笛吹峠での義宗・憲顕らの敗北を知ると鎌倉から逃亡した。
二宮神社から東側の眺め

大石氏の多摩入り

 この1352年の笛吹峠の戦いで足利勢の先陣を務めたのが、大石信重である。
1356年、この軍功によって大石氏は武蔵国入間郡や多摩郡を領すようになり、武蔵国二宮に居を構える事となる。

 1358年に足利尊氏が死去すると、
二代将軍義詮と弟で鎌倉公方足利基氏は、尊氏によって失脚させられていた上杉憲顕を復権させた。
憲顕は関東管領畠山国清を罷免し、宇都宮氏綱を破ると、
上杉憲顕が関東管領の職に就き、鎌倉公方足利基氏を補佐する立場に返り咲く。
憲顕は鎌倉の山内に居館を置いていた事から、山内上杉家と呼ばれるようになる。

2023年10月06日 08:14撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 8:14
二宮神社から東側の眺め

大石氏の多摩入り

 この1352年の笛吹峠の戦いで足利勢の先陣を務めたのが、大石信重である。
1356年、この軍功によって大石氏は武蔵国入間郡や多摩郡を領すようになり、武蔵国二宮に居を構える事となる。

 1358年に足利尊氏が死去すると、
二代将軍義詮と弟で鎌倉公方足利基氏は、尊氏によって失脚させられていた上杉憲顕を復権させた。
憲顕は関東管領畠山国清を罷免し、宇都宮氏綱を破ると、
上杉憲顕が関東管領の職に就き、鎌倉公方足利基氏を補佐する立場に返り咲く。
憲顕は鎌倉の山内に居館を置いていた事から、山内上杉家と呼ばれるようになる。

浄福寺

 浄福寺城

 1367年、足利基氏、足利義詮が相次いで死去すると、
翌1368年、河越氏らが反乱を起こす(武蔵平一揆の乱)。
これを上杉氏主導、相模平一揆らと共に鎮圧すると、上杉氏は関東全域に権力を拡大した。
同年に憲顕が死去するも、憲顕の子上杉能憲は二代鎌倉公方足利氏満(1359-1398)を良く補佐し、
関東管領職を一族が世襲できる立場となった。
恐らくこの頃はまだ大石為重の弟で大石信重の叔父に当たる大石能重が関東管領上杉能憲を補佐し、武蔵守護代を務めていた。
 1376年、上杉能憲は病状が悪化した為弟に所領が譲られる事になり、
その死後、上杉憲春が関東管領職を、上杉憲方(1335-1394)が山内上杉の所領を継承した。
憲春が1379年に死去すると、関東管領職も憲方が継承する。

この頃上杉氏を補佐する大石氏では、
養子であった大石遠江入道信重が為重の家督を継ぎ、武蔵守護代として憲方の補佐を務めた。

 義任┬為重=信重
   └能重
2023年10月06日 10:50撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 10:50
浄福寺

 浄福寺城

 1367年、足利基氏、足利義詮が相次いで死去すると、
翌1368年、河越氏らが反乱を起こす(武蔵平一揆の乱)。
これを上杉氏主導、相模平一揆らと共に鎮圧すると、上杉氏は関東全域に権力を拡大した。
同年に憲顕が死去するも、憲顕の子上杉能憲は二代鎌倉公方足利氏満(1359-1398)を良く補佐し、
関東管領職を一族が世襲できる立場となった。
恐らくこの頃はまだ大石為重の弟で大石信重の叔父に当たる大石能重が関東管領上杉能憲を補佐し、武蔵守護代を務めていた。
 1376年、上杉能憲は病状が悪化した為弟に所領が譲られる事になり、
その死後、上杉憲春が関東管領職を、上杉憲方(1335-1394)が山内上杉の所領を継承した。
憲春が1379年に死去すると、関東管領職も憲方が継承する。

この頃上杉氏を補佐する大石氏では、
養子であった大石遠江入道信重が為重の家督を継ぎ、武蔵守護代として憲方の補佐を務めた。

 義任┬為重=信重
   └能重
浄福寺城

上杉氏

 1384年、大石氏当主信重は浄福寺城を築城し、ここを本拠に移した。
浄福寺自体は1260年代頃に開基されていた。
長井氏によって大江氏館とされる場所に廣園寺が建立されたのはこの頃の事である。

1392年、関東管領上杉憲方は病の為に家督を子の憲孝に譲るも、1394年に父子が相次いで死去してしまう。
憲孝の弟憲定(1375-1413)は若年だった為か、
関東管領職については上杉氏として山内家に次ぐ犬掛上杉家の上杉朝宗(1337-1414)が継承した。

 1399年、大内義弘による幕府に対する反乱が勃発、応永の乱が起こる。
これに三代鎌倉公方足利満兼(1378-1409)が便乗して反乱を起こすが、成長していた山内憲定はこれを鎮める事に成功した。
1405年、犬掛朝宗は関東管領職を山内憲定に譲った。
山内憲定は、鎌倉公方満兼とその子足利持氏(1398-1439)を良く補佐した。
ところが憲定に対する反対派がおり、鎌倉公方満兼の弟足利満隆(1389-1417)はこれを煽って反乱を起こした。
乱は、憲定が辞職して関東管領職を犬掛朝宗の子上杉氏憲に譲る事で落着した。
1409年、満兼の死去により犬掛朝宗も隠居してその家督を氏憲が継承する。
2023年10月06日 10:59撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 10:59
浄福寺城

上杉氏

 1384年、大石氏当主信重は浄福寺城を築城し、ここを本拠に移した。
浄福寺自体は1260年代頃に開基されていた。
長井氏によって大江氏館とされる場所に廣園寺が建立されたのはこの頃の事である。

1392年、関東管領上杉憲方は病の為に家督を子の憲孝に譲るも、1394年に父子が相次いで死去してしまう。
憲孝の弟憲定(1375-1413)は若年だった為か、
関東管領職については上杉氏として山内家に次ぐ犬掛上杉家の上杉朝宗(1337-1414)が継承した。

 1399年、大内義弘による幕府に対する反乱が勃発、応永の乱が起こる。
これに三代鎌倉公方足利満兼(1378-1409)が便乗して反乱を起こすが、成長していた山内憲定はこれを鎮める事に成功した。
1405年、犬掛朝宗は関東管領職を山内憲定に譲った。
山内憲定は、鎌倉公方満兼とその子足利持氏(1398-1439)を良く補佐した。
ところが憲定に対する反対派がおり、鎌倉公方満兼の弟足利満隆(1389-1417)はこれを煽って反乱を起こした。
乱は、憲定が辞職して関東管領職を犬掛朝宗の子上杉氏憲に譲る事で落着した。
1409年、満兼の死去により犬掛朝宗も隠居してその家督を氏憲が継承する。
浄福寺城説明板

上杉禅秀の乱

 四代鎌倉公方足利持氏は犬掛氏憲の遣り方が気に食わず、
対立する山内憲定の子憲基を重用するようになる。

 1415年、持氏は犬掛氏憲の家臣の不出を理由に所領を没収、
それに抗議すると、関東管領職は山内憲基に与えられた。
憲基の下には大石信重の子で後継者である大石憲重が仕えていた。
犬掛氏憲(上杉禅秀)は足利満隆らと共に挙兵して持氏の屋敷を襲い、持氏を鎌倉から追い出す事に成功する。
幕府は、鎌倉府とは常に不仲であったものの禅秀らの行動を許さず追討。
1417年に上杉禅秀の乱は鎮圧された。
ところが翌1418年、関東管領山内憲基が急死し、子の上杉憲実(1410-1466)が家督を継承した。
持氏が二十歳、憲実は僅か七歳であり、鎌倉公方を補佐する立場の憲実に力が無く、
持氏自身が権力を持つようになる。
1425年、将軍足利義量が在職僅か2年で病死すると後継者が無く、
1428年、前将軍でその父である義持も死去すると、持氏はその後継を狙う。
ところが、将軍職は籤引きにて還俗させた足利義教が就任する事に決定。
持氏は将軍義教と争うようになり、
関東管領山内憲実はその関係修復に終生努める事となる。
2023年10月06日 10:43撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 10:43
浄福寺城説明板

上杉禅秀の乱

 四代鎌倉公方足利持氏は犬掛氏憲の遣り方が気に食わず、
対立する山内憲定の子憲基を重用するようになる。

 1415年、持氏は犬掛氏憲の家臣の不出を理由に所領を没収、
それに抗議すると、関東管領職は山内憲基に与えられた。
憲基の下には大石信重の子で後継者である大石憲重が仕えていた。
犬掛氏憲(上杉禅秀)は足利満隆らと共に挙兵して持氏の屋敷を襲い、持氏を鎌倉から追い出す事に成功する。
幕府は、鎌倉府とは常に不仲であったものの禅秀らの行動を許さず追討。
1417年に上杉禅秀の乱は鎮圧された。
ところが翌1418年、関東管領山内憲基が急死し、子の上杉憲実(1410-1466)が家督を継承した。
持氏が二十歳、憲実は僅か七歳であり、鎌倉公方を補佐する立場の憲実に力が無く、
持氏自身が権力を持つようになる。
1425年、将軍足利義量が在職僅か2年で病死すると後継者が無く、
1428年、前将軍でその父である義持も死去すると、持氏はその後継を狙う。
ところが、将軍職は籤引きにて還俗させた足利義教が就任する事に決定。
持氏は将軍義教と争うようになり、
関東管領山内憲実はその関係修復に終生努める事となる。
浄福寺城説明板

大石氏の拡大と分裂?

 1424年に大石遠江守信重が死去すると、遠江太郎憲重が後を継いでいた。
信重がかなり高齢まで生きているが、実務は既に憲重がこなしていたか、
もしくはその歳まで信重が現役であったか、憲重の時代は短く、1429に亡くなっている。
憲重の時代は叔父能重の系譜である隼人佑、のち石見守として下野方面にまで活躍の場が見られる。
憲重の後は大石憲儀が武蔵守護代を務め、山内憲実を補佐した。

 信重┬憲重┬憲儀─房重
   │  └重賢
   └重仲─憲仲
2023年10月06日 10:43撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 10:43
浄福寺城説明板

大石氏の拡大と分裂?

 1424年に大石遠江守信重が死去すると、遠江太郎憲重が後を継いでいた。
信重がかなり高齢まで生きているが、実務は既に憲重がこなしていたか、
もしくはその歳まで信重が現役であったか、憲重の時代は短く、1429に亡くなっている。
憲重の時代は叔父能重の系譜である隼人佑、のち石見守として下野方面にまで活躍の場が見られる。
憲重の後は大石憲儀が武蔵守護代を務め、山内憲実を補佐した。

 信重┬憲重┬憲儀─房重
   │  └重賢
   └重仲─憲仲
浄福寺説明板
2023年10月06日 10:44撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 10:44
浄福寺説明板
松木城

関東公方足利持氏の家臣の中に、松木七郎師澄なる人物がおり、松木氏がこの地を開拓したとされている。
2023年10月06日 17:02撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 17:02
松木城

関東公方足利持氏の家臣の中に、松木七郎師澄なる人物がおり、松木氏がこの地を開拓したとされている。
松木七郎宝篋印塔説明板

ちなみにこの松木氏とは、
後に氏照家臣として八王子城に入る事になる。
松木曲輪とはこの家系の人物が入った事による。
2023年10月06日 17:04撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 17:04
松木七郎宝篋印塔説明板

ちなみにこの松木氏とは、
後に氏照家臣として八王子城に入る事になる。
松木曲輪とはこの家系の人物が入った事による。
松木城
2023年10月06日 17:12撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 17:12
松木城
松木城
松木七郎宝篋印塔

1438年(永享10年)、持氏の嫡子の元服の際に将軍家と揉める事となり、仲介する立場の憲実と持氏の対立が決定的となった。
将軍義教は持氏の討伐を憲実に命じ、孤立無縁となった持氏は捕らえられてしまう。
憲実は義教に対して助命を求めるも、義教はこれを許さず持氏とその子らを自害させる。
(永享の乱)
2023年10月06日 17:04撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 17:04
松木城
松木七郎宝篋印塔

1438年(永享10年)、持氏の嫡子の元服の際に将軍家と揉める事となり、仲介する立場の憲実と持氏の対立が決定的となった。
将軍義教は持氏の討伐を憲実に命じ、孤立無縁となった持氏は捕らえられてしまう。
憲実は義教に対して助命を求めるも、義教はこれを許さず持氏とその子らを自害させる。
(永享の乱)
松木城
2023年10月06日 17:04撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 17:04
松木城
松木浅間神社

 1440年、持氏の遺児安王丸と春王丸を担いで結城氏が蜂起、結城合戦が勃発する。
この戦いで武蔵守護代大石憲儀は戦死し、
その弟大石石見四郎重賢や、嫡子の源左衛門尉房重も戦った。
憲儀の死は大石氏にとって手痛く、武蔵守護代の地位は長尾景仲に与えられる事となる。
結城合戦は幕府が鎮圧し、持氏の遺児ら諸共処刑する事で終結した。

 ところが1441年、将軍義教が暗殺される事件が発生(嘉吉の乱)。
この混乱の為に、さらに下の遺児である万寿王丸の処刑が行われなかった、とする説がある。
 これらの合戦に至った経緯や中央の混乱を鑑みて、
万寿王丸は鎌倉府に帰る事が許され、1447年、第五代鎌倉公方足利成氏となる。
 再興された鎌倉府には、成氏の補佐役に山内憲実の嫡子山内憲忠(1433-1455)が置かれた。
憲忠は、父憲実が固く、執事になるなと言い付けていたにも関わらず、成氏の執事職を受け入れてしまう。
案の定、憲忠が若年だった為、山内家宰の長尾景仲や扇ヶ谷上杉家の家宰太田資清が実権を握り専横するようになる。

1450年宝徳2年、成氏と関東管領方(を牛耳る長尾・太田)との関係は極度に悪化し、
長尾・太田勢は公方館を襲撃、難を逃れた成氏は江ノ島に籠るも、これを包囲して攻撃を続けた。
やがて成氏方の千葉氏、小田氏、宇都宮氏らが駆けつけ、長尾・太田軍を破った。
長尾・太田勢は糟屋館に対処し、戦には関与していなかった関東管領憲忠も七沢山に蟄居した。
同年中に成氏は鎌倉に帰還するも、上杉方との関係は全く修復されず、
1455年1月(享徳3年12月)、ついに成氏は山内憲忠を暗殺してしまう。
2023年10月06日 17:06撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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松木浅間神社

 1440年、持氏の遺児安王丸と春王丸を担いで結城氏が蜂起、結城合戦が勃発する。
この戦いで武蔵守護代大石憲儀は戦死し、
その弟大石石見四郎重賢や、嫡子の源左衛門尉房重も戦った。
憲儀の死は大石氏にとって手痛く、武蔵守護代の地位は長尾景仲に与えられる事となる。
結城合戦は幕府が鎮圧し、持氏の遺児ら諸共処刑する事で終結した。

 ところが1441年、将軍義教が暗殺される事件が発生(嘉吉の乱)。
この混乱の為に、さらに下の遺児である万寿王丸の処刑が行われなかった、とする説がある。
 これらの合戦に至った経緯や中央の混乱を鑑みて、
万寿王丸は鎌倉府に帰る事が許され、1447年、第五代鎌倉公方足利成氏となる。
 再興された鎌倉府には、成氏の補佐役に山内憲実の嫡子山内憲忠(1433-1455)が置かれた。
憲忠は、父憲実が固く、執事になるなと言い付けていたにも関わらず、成氏の執事職を受け入れてしまう。
案の定、憲忠が若年だった為、山内家宰の長尾景仲や扇ヶ谷上杉家の家宰太田資清が実権を握り専横するようになる。

1450年宝徳2年、成氏と関東管領方(を牛耳る長尾・太田)との関係は極度に悪化し、
長尾・太田勢は公方館を襲撃、難を逃れた成氏は江ノ島に籠るも、これを包囲して攻撃を続けた。
やがて成氏方の千葉氏、小田氏、宇都宮氏らが駆けつけ、長尾・太田軍を破った。
長尾・太田勢は糟屋館に対処し、戦には関与していなかった関東管領憲忠も七沢山に蟄居した。
同年中に成氏は鎌倉に帰還するも、上杉方との関係は全く修復されず、
1455年1月(享徳3年12月)、ついに成氏は山内憲忠を暗殺してしまう。
高月城入り口

 これを知った武蔵守護代長尾景仲は直ぐに公方屋敷に火を掛けて身内を糟屋館に避難させ、軍勢を集結させた。
成氏軍は山内上杉氏の本拠上野国を攻撃するべく北上を開始するが、
上杉軍は武蔵国府中に結集し、1455年(享徳4年1月)立河原にて合戦となる。
犬掛上杉禅秀の子である上杉憲秋は先鋒隊を率いていたが、不意を突かれて痛手を負い、
一命を取り留めたものの、高幡不動に退いた後に自刃している。
よってこの頃には既に高幡城は存在していたものとみられている。
一進一退の戦だったものの、成氏方の結城成朝の援軍到着により上杉軍が敗退する。
扇ヶ谷の党首上杉顕房も敗北して自刃している。
長尾景仲はなんとか脱出して軍をまとめると、常陸国小栗城まで撤退した。
この戦いで大石房重及び大叔父の大石重仲は討死、大石氏は大打撃を被った。
大石氏の活動は以後しばらく見えなくなる。

 成氏はこれを知ると、軍を下総国古河城に寄せ、さらに上杉勢を攻め立て、小栗城も攻略した。

山内上杉家は憲忠の弟房顕(1435-1466)を関東管領に就け、京都に援軍も要請した。
この援軍に駆けつけたのが、駿河守護今川範忠(1408-1461)。
今川軍は4月に京都を発つと、6月に、混乱渦中の鎌倉を制圧した。
成氏は鎌倉に帰る事を諦め、古河の鴻池に御所を定めて古河に留まる事にした。
2023年10月06日 08:22撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 8:22
高月城入り口

 これを知った武蔵守護代長尾景仲は直ぐに公方屋敷に火を掛けて身内を糟屋館に避難させ、軍勢を集結させた。
成氏軍は山内上杉氏の本拠上野国を攻撃するべく北上を開始するが、
上杉軍は武蔵国府中に結集し、1455年(享徳4年1月)立河原にて合戦となる。
犬掛上杉禅秀の子である上杉憲秋は先鋒隊を率いていたが、不意を突かれて痛手を負い、
一命を取り留めたものの、高幡不動に退いた後に自刃している。
よってこの頃には既に高幡城は存在していたものとみられている。
一進一退の戦だったものの、成氏方の結城成朝の援軍到着により上杉軍が敗退する。
扇ヶ谷の党首上杉顕房も敗北して自刃している。
長尾景仲はなんとか脱出して軍をまとめると、常陸国小栗城まで撤退した。
この戦いで大石房重及び大叔父の大石重仲は討死、大石氏は大打撃を被った。
大石氏の活動は以後しばらく見えなくなる。

 成氏はこれを知ると、軍を下総国古河城に寄せ、さらに上杉勢を攻め立て、小栗城も攻略した。

山内上杉家は憲忠の弟房顕(1435-1466)を関東管領に就け、京都に援軍も要請した。
この援軍に駆けつけたのが、駿河守護今川範忠(1408-1461)。
今川軍は4月に京都を発つと、6月に、混乱渦中の鎌倉を制圧した。
成氏は鎌倉に帰る事を諦め、古河の鴻池に御所を定めて古河に留まる事にした。
円通寺、裏の山が高月城

 幕府が足利政知を鎌倉に送ったのは1457年末。
ところが政知は鎌倉に入る事ができず、山内上杉氏が守護を務める伊豆国堀越に留まる事になる。
鎌倉入りが叶わなかったのは、相模を支配する扇ヶ谷家の家臣である大森氏と三浦氏が何か関係していると幕府から疑われている。
上杉軍はこの時期に北から五十子陣-河越城-岩槻城-江戸城の防衛線を築いた。
これを担当したのが扇ヶ谷上杉氏家宰の太田道真・道灌父子であった。
太田父子の影響で、扇ヶ谷上杉家は山内上杉氏を支える大きな存在になっていく。
 高月城が築城されたのはそんな情勢の最中の1458年。
立河原で討死した大石房重の子、大石顕重が築城し、二宮から拠点を移した。
若くして当主の座を継いだ顕重が成長し、ようやく大石氏の名が復活するのが、
1471年、上杉勢が成氏の古河に総攻撃をかけた時の事である。
大石氏は公方方の城をいくつか攻略して感状を与えられている。

 1467年から1477年に掛けて応仁の乱が起こった。

 1476年、山内家宰職を巡る長尾景春の乱が発生。
鉢形城を築城すると五十子陣を攻撃して、古河公方防衛線を破壊してしまう。
上野国まで敗退した山内顕定だったが、
1477年、太田道灌が扇ヶ谷定正軍を五十子陣に入れて山内顕定と同陣、
襲って来る景春軍を用土原針谷原で撃破し、景春を鉢形城に撤退させた。
大石氏はこの時、一門の中に景春方に付く者も現れて不安定な状況だったが、
景春方が敗れた事で、源左衛門尉系の顕重が大石氏の主導権を握る事ができるようになった。
2023年10月06日 08:24撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 8:24
円通寺、裏の山が高月城

 幕府が足利政知を鎌倉に送ったのは1457年末。
ところが政知は鎌倉に入る事ができず、山内上杉氏が守護を務める伊豆国堀越に留まる事になる。
鎌倉入りが叶わなかったのは、相模を支配する扇ヶ谷家の家臣である大森氏と三浦氏が何か関係していると幕府から疑われている。
上杉軍はこの時期に北から五十子陣-河越城-岩槻城-江戸城の防衛線を築いた。
これを担当したのが扇ヶ谷上杉氏家宰の太田道真・道灌父子であった。
太田父子の影響で、扇ヶ谷上杉家は山内上杉氏を支える大きな存在になっていく。
 高月城が築城されたのはそんな情勢の最中の1458年。
立河原で討死した大石房重の子、大石顕重が築城し、二宮から拠点を移した。
若くして当主の座を継いだ顕重が成長し、ようやく大石氏の名が復活するのが、
1471年、上杉勢が成氏の古河に総攻撃をかけた時の事である。
大石氏は公方方の城をいくつか攻略して感状を与えられている。

 1467年から1477年に掛けて応仁の乱が起こった。

 1476年、山内家宰職を巡る長尾景春の乱が発生。
鉢形城を築城すると五十子陣を攻撃して、古河公方防衛線を破壊してしまう。
上野国まで敗退した山内顕定だったが、
1477年、太田道灌が扇ヶ谷定正軍を五十子陣に入れて山内顕定と同陣、
襲って来る景春軍を用土原針谷原で撃破し、景春を鉢形城に撤退させた。
大石氏はこの時、一門の中に景春方に付く者も現れて不安定な状況だったが、
景春方が敗れた事で、源左衛門尉系の顕重が大石氏の主導権を握る事ができるようになった。
宝清寺から加住丘陵を眺める
正面に高月城、左奥には滝山城が見える

 長尾景春の乱は扇ヶ谷家宰太田道灌が調停して鎮圧されるが、
山内家中が不安定となり、逆に扇ヶ谷家の勢力が拡大していく事になる。

 1478年、古河公方と上杉氏が和睦、
1483年、幕府との関係も修復されて都鄙合体が成立した。
堀越公方足利政知は伊豆一カ国を領する大名という事で落ち着いた。
2023年10月06日 08:19撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 8:19
宝清寺から加住丘陵を眺める
正面に高月城、左奥には滝山城が見える

 長尾景春の乱は扇ヶ谷家宰太田道灌が調停して鎮圧されるが、
山内家中が不安定となり、逆に扇ヶ谷家の勢力が拡大していく事になる。

 1478年、古河公方と上杉氏が和睦、
1483年、幕府との関係も修復されて都鄙合体が成立した。
堀越公方足利政知は伊豆一カ国を領する大名という事で落ち着いた。
柚木城
大石氏居館

 1486年、扇ヶ谷定正は、
糟屋館に滞在中の家宰太田道灌を配下の者に殺害させ、
定正自身は江戸城を攻めて道灌の後継者太田資康を追放した。
この事件は、扇ヶ谷家の拡大を恐れた山内家の策謀であった可能性も指摘されている。
この定正の行動に怒ったのが定正の異母兄である三浦高救である。
高救は扇ヶ谷持朝の子で、三浦時高の養子となっていた。
高救は定正に成り変わり扇ヶ谷党首の座を奪おうと画策し、
大森氏頼の娘との子である実子三浦義同(同じく時高の養子縁組をしていた)と共に挙兵。
ところが力及ばず養父三浦時高によって追放されてしまう。
三浦義同は祖母の大森氏頼を頼った。
扇ヶ谷家中が混乱に陥ると、三浦時高が実権握るようになった。
1487年、山内家と扇ヶ谷家が争う長享の乱が始まる。
大石氏の動向は不明であるものの、山内家臣である以上、
大石顕重は山内上杉顕定に従っていたものと思われる。
この時期、大石信濃守とは、顕重の事と想定される。

 扇ヶ谷定正は山内顕定と戦う為に、
長尾景春を味方に引き込み、古河公方成氏とも同盟した。
長享三戦に勝利した扇ヶ谷定正だったが、山内顕定は越後上杉氏の後援を受けて鉢形城を維持した。
この頃、書状等から大石顕重の嫡男は既に元服を果たして大石定重を名乗り独立していたと思われる。
2023年10月06日 15:58撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 15:58
柚木城
大石氏居館

 1486年、扇ヶ谷定正は、
糟屋館に滞在中の家宰太田道灌を配下の者に殺害させ、
定正自身は江戸城を攻めて道灌の後継者太田資康を追放した。
この事件は、扇ヶ谷家の拡大を恐れた山内家の策謀であった可能性も指摘されている。
この定正の行動に怒ったのが定正の異母兄である三浦高救である。
高救は扇ヶ谷持朝の子で、三浦時高の養子となっていた。
高救は定正に成り変わり扇ヶ谷党首の座を奪おうと画策し、
大森氏頼の娘との子である実子三浦義同(同じく時高の養子縁組をしていた)と共に挙兵。
ところが力及ばず養父三浦時高によって追放されてしまう。
三浦義同は祖母の大森氏頼を頼った。
扇ヶ谷家中が混乱に陥ると、三浦時高が実権握るようになった。
1487年、山内家と扇ヶ谷家が争う長享の乱が始まる。
大石氏の動向は不明であるものの、山内家臣である以上、
大石顕重は山内上杉顕定に従っていたものと思われる。
この時期、大石信濃守とは、顕重の事と想定される。

 扇ヶ谷定正は山内顕定と戦う為に、
長尾景春を味方に引き込み、古河公方成氏とも同盟した。
長享三戦に勝利した扇ヶ谷定正だったが、山内顕定は越後上杉氏の後援を受けて鉢形城を維持した。
この頃、書状等から大石顕重の嫡男は既に元服を果たして大石定重を名乗り独立していたと思われる。
竪堀と虎口?
2023年10月06日 16:04撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 16:04
竪堀と虎口?
竪堀?
2023年10月06日 16:04撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 16:04
竪堀?
柚木城の上部の曲輪?
2023年10月06日 16:05撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 16:05
柚木城の上部の曲輪?
さらに奥の尾根もあるけど、時間が時間だけに、
っていうか、寺の境内なので奥は辞めておく。
2023年10月06日 16:07撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 16:07
さらに奥の尾根もあるけど、時間が時間だけに、
っていうか、寺の境内なので奥は辞めておく。
大石氏の居館跡説明板

 1491年、堀越公方足利政知が死去すると内紛が起こり、
これに駿河今川氏被官興国寺城主伊勢宗瑞が裁定に駆り出される。
1493年明応2年4月、足利義澄の命によって宗瑞は伊豆に討ち入り、伊豆を入手する。
これは、扇ヶ谷定正が山内顕定を牽制する為に要請していた事も影響していると言われている。

翌年1494年明応3年9月24日、大森氏当主大森氏頼が急死する。
その翌月、三浦義同改め三浦道寸は、大森氏の援軍と反三浦時高派の三浦軍を率いて時高・高教父子を攻め滅ぼし、三浦氏家督を奪う。
ここに相模国は、西の大森氏頼・東の三浦時高から、大森藤頼と三浦道寸の体制に同時に代替わりした。
 10月、定正は宗瑞の軍を援軍に武蔵高見原にて山内軍と対峙するが、定正が急死してしまい、撤退せざるを得なくなってしまう。

大森氏当主の座はこの時以前に大森藤頼に移っている。
前々から伊勢宗瑞は藤頼と何らかの友好関係を結んでいたが、翌1495年、宗瑞が大森氏の居城小田原城を攻める。
しかし三浦道寸が援軍を出して伊勢軍を退かせた、とある。
ただし、1496年に山内上杉が小田原にある要害を攻めた時、
大森藤頼と伊勢弥次郎が共に小田原を守って戦っている。
1498年に宗瑞は伊豆を平定、1501年には宗瑞は小田原城を領している。
2023年10月06日 16:15撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 16:15
大石氏の居館跡説明板

 1491年、堀越公方足利政知が死去すると内紛が起こり、
これに駿河今川氏被官興国寺城主伊勢宗瑞が裁定に駆り出される。
1493年明応2年4月、足利義澄の命によって宗瑞は伊豆に討ち入り、伊豆を入手する。
これは、扇ヶ谷定正が山内顕定を牽制する為に要請していた事も影響していると言われている。

翌年1494年明応3年9月24日、大森氏当主大森氏頼が急死する。
その翌月、三浦義同改め三浦道寸は、大森氏の援軍と反三浦時高派の三浦軍を率いて時高・高教父子を攻め滅ぼし、三浦氏家督を奪う。
ここに相模国は、西の大森氏頼・東の三浦時高から、大森藤頼と三浦道寸の体制に同時に代替わりした。
 10月、定正は宗瑞の軍を援軍に武蔵高見原にて山内軍と対峙するが、定正が急死してしまい、撤退せざるを得なくなってしまう。

大森氏当主の座はこの時以前に大森藤頼に移っている。
前々から伊勢宗瑞は藤頼と何らかの友好関係を結んでいたが、翌1495年、宗瑞が大森氏の居城小田原城を攻める。
しかし三浦道寸が援軍を出して伊勢軍を退かせた、とある。
ただし、1496年に山内上杉が小田原にある要害を攻めた時、
大森藤頼と伊勢弥次郎が共に小田原を守って戦っている。
1498年に宗瑞は伊豆を平定、1501年には宗瑞は小田原城を領している。
大石定久公

 1504年、宗瑞は扇ヶ谷朝良に味方し、立河原の戦いで山内顕定に勝利。
ところが顕定が越後上杉氏を味方にして相模に乱入して来る。
多くの城を落とされた為、1505年、朝良は河越城にて、宗瑞に相談せずに山内家に降伏してしまう。
山内と扇ヶ谷が結んだ為、宗瑞は両上杉を敵にまわす事になってしまう。

 1507年、永正の錯乱。
宗瑞は越後守護代の長尾為景や山内と対立する長尾景春と結んで山内顕定を牽制する。
顕定は越後の混乱を鎮める為に越後に出陣した。

 1509年8月、宗瑞は相模国中郡に高麗寺要害と住吉要害を築城。
扇ヶ谷朝良の家老上田氏を寝返らせて権現山城を狙うも、三浦義同の援軍によって追い返されてしまう。

 1510年5月、宗瑞は山内家の宿老大石顕重の椚田要害を攻略した。
顕重は移井城に後退した。
移井城とは??

1510年6月、山内顕定が越後で死去。
代わりに養子の山内上杉憲房が援軍を編成した。
この中に由井城主大石源左衛門尉の名もある。
大石氏当主定重の子で由木城主である大石定久はこの時の21歳。
定久が由木城に居住し、当主の居城は浄福寺城(由井城)だった?
2023年10月06日 16:09撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 16:09
大石定久公

 1504年、宗瑞は扇ヶ谷朝良に味方し、立河原の戦いで山内顕定に勝利。
ところが顕定が越後上杉氏を味方にして相模に乱入して来る。
多くの城を落とされた為、1505年、朝良は河越城にて、宗瑞に相談せずに山内家に降伏してしまう。
山内と扇ヶ谷が結んだ為、宗瑞は両上杉を敵にまわす事になってしまう。

 1507年、永正の錯乱。
宗瑞は越後守護代の長尾為景や山内と対立する長尾景春と結んで山内顕定を牽制する。
顕定は越後の混乱を鎮める為に越後に出陣した。

 1509年8月、宗瑞は相模国中郡に高麗寺要害と住吉要害を築城。
扇ヶ谷朝良の家老上田氏を寝返らせて権現山城を狙うも、三浦義同の援軍によって追い返されてしまう。

 1510年5月、宗瑞は山内家の宿老大石顕重の椚田要害を攻略した。
顕重は移井城に後退した。
移井城とは??

1510年6月、山内顕定が越後で死去。
代わりに養子の山内上杉憲房が援軍を編成した。
この中に由井城主大石源左衛門尉の名もある。
大石氏当主定重の子で由木城主である大石定久はこの時の21歳。
定久が由木城に居住し、当主の居城は浄福寺城(由井城)だった?
滝山城本丸

宗瑞は、三浦氏を滅ぼす必要があると考え改めて、
1512年に岡崎城と住吉城を攻略、鎌倉を抑える為に玉縄城を築く。
1516年、三崎城を攻略して三浦道寸を滅ぼすと、相模を平定した。
1517年には房総半島を転戦するが、
1518年に家督を氏綱に譲り、翌1519年に宗瑞は死去する。

 伊勢氏綱は本拠を韮山から小田原に移し、相模国の寺社の再建に務める。
1523年、伊勢から北条に改める。
津久井城と小机城を落として相模全域を治める事に成功する。

 滝山城はそんな情勢下の1521年に築城されたと言われている。
2023年10月06日 08:45撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 8:45
滝山城本丸

宗瑞は、三浦氏を滅ぼす必要があると考え改めて、
1512年に岡崎城と住吉城を攻略、鎌倉を抑える為に玉縄城を築く。
1516年、三崎城を攻略して三浦道寸を滅ぼすと、相模を平定した。
1517年には房総半島を転戦するが、
1518年に家督を氏綱に譲り、翌1519年に宗瑞は死去する。

 伊勢氏綱は本拠を韮山から小田原に移し、相模国の寺社の再建に務める。
1523年、伊勢から北条に改める。
津久井城と小机城を落として相模全域を治める事に成功する。

 滝山城はそんな情勢下の1521年に築城されたと言われている。
滝山城本丸
2023年10月06日 08:49撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 8:49
滝山城本丸
滝山城本丸説明板

1524年正月、北条氏綱は武蔵へ侵攻。
これに伴い扇ヶ谷朝興は山内上杉氏と連携しようとするが、
氏綱は権現山城、世田谷城を攻略して破竹の勢いを見せると、
扇ヶ谷家臣江戸城代太田資高が氏綱の調略を受けて開城、北条家は江戸城にまで勢力を広げた。
さらに葛西城、渋谷城、志村城を攻略して武蔵攻略の足場を固めた。
南武蔵を攻略していく過程で武蔵の豪族の多くが氏綱方に降伏し、
この中に既に大石氏や三田氏も含まれていた可能性も高い。
2023年10月06日 08:48撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 8:48
滝山城本丸説明板

1524年正月、北条氏綱は武蔵へ侵攻。
これに伴い扇ヶ谷朝興は山内上杉氏と連携しようとするが、
氏綱は権現山城、世田谷城を攻略して破竹の勢いを見せると、
扇ヶ谷家臣江戸城代太田資高が氏綱の調略を受けて開城、北条家は江戸城にまで勢力を広げた。
さらに葛西城、渋谷城、志村城を攻略して武蔵攻略の足場を固めた。
南武蔵を攻略していく過程で武蔵の豪族の多くが氏綱方に降伏し、
この中に既に大石氏や三田氏も含まれていた可能性も高い。
滝山城二之丸

 1525年2月、氏綱は岩槻城も奪取に成功するが、
攻勢に出た扇ヶ谷軍によって、8月、白子原の戦いで大敗北を喫してしまう。
この大打撃によって氏綱は劣勢に立たされ、
1526年に掛けて、扇ヶ谷軍に多くの城を奪い返されてしまう。
扇ヶ谷朝興は、山内家、古河公方家、小弓公方家、甲斐の武田信虎や上総真里谷武田らも味方に付け、北条包囲網を形成する。
北条氏による、大石氏と三田氏への扱い方の違いは、この戦争の最中の対応によるものではないだろうか。

 ところがこれらの戦いが始まった頃の1525年3月、山内上杉憲房が死去している。
嫡男五郎丸は2年前に産まれたばかりであった為、
当主の座は養子に入っていた、実父が古河公方足利高基である上杉憲寛が継いでいた。
古河公方家との交渉がうまく行えたのはこのお陰であったと考えられるわけだが、
山内上杉支配下の豪族は古河公方家を良く思っていなかった。
この為、幼き五郎丸を擁立しようとする動きが生まれる。
山内家中がざわついていた為、包囲網瓦解が懸念されたので武田信虎は深追いせずに帰国した。

 このような状況から、氏綱は危機を脱したと考えられる。
2023年10月06日 08:39撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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滝山城二之丸

 1525年2月、氏綱は岩槻城も奪取に成功するが、
攻勢に出た扇ヶ谷軍によって、8月、白子原の戦いで大敗北を喫してしまう。
この大打撃によって氏綱は劣勢に立たされ、
1526年に掛けて、扇ヶ谷軍に多くの城を奪い返されてしまう。
扇ヶ谷朝興は、山内家、古河公方家、小弓公方家、甲斐の武田信虎や上総真里谷武田らも味方に付け、北条包囲網を形成する。
北条氏による、大石氏と三田氏への扱い方の違いは、この戦争の最中の対応によるものではないだろうか。

 ところがこれらの戦いが始まった頃の1525年3月、山内上杉憲房が死去している。
嫡男五郎丸は2年前に産まれたばかりであった為、
当主の座は養子に入っていた、実父が古河公方足利高基である上杉憲寛が継いでいた。
古河公方家との交渉がうまく行えたのはこのお陰であったと考えられるわけだが、
山内上杉支配下の豪族は古河公方家を良く思っていなかった。
この為、幼き五郎丸を擁立しようとする動きが生まれる。
山内家中がざわついていた為、包囲網瓦解が懸念されたので武田信虎は深追いせずに帰国した。

 このような状況から、氏綱は危機を脱したと考えられる。
永林寺

 1527年、大石定重が死去した為、定久が家督を継承する。
その際、居城の由木城を叔父の一種長純和尚に譲り、1532年にその地に永林寺が建立される。
定久はこの時に大石氏居城の滝山城に移った?

1529年、山内家中にて、五郎丸派による謀反が発生した。
古河公方足利高基と嫡男晴氏の父子は兼ねてより不仲であり、
山内憲寛派に対する五郎丸派に、晴氏が協力する関係となる。
(関東享禄の内乱)

 同年、北条氏綱は、嫡男の元服を済ませ、
北条氏康、および北条綱成を武蔵小沢城に入れて武蔵の情勢を監視させる。
1530年、扇ヶ谷朝興は甲斐武田に派兵を要請し、信虎の弟勝沼信友が出陣。
4月、氏綱はこれを矢坪坂の戦いで破る。
朝興は、武田軍と挟み撃ちを構想しており、
また、甲斐方面に兵を裂かなければならない北条軍の手勢を見縊っており、余裕を持って多摩川を渡河する。
6月、これを、氏康は小沢原の戦いで打ち破った。

1531年、五郎丸が勝利して山内家当主上杉憲政となり、
同じく、古河公方は足利高基を破って足利晴氏が就任した。
2023年10月06日 15:55撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 15:55
永林寺

 1527年、大石定重が死去した為、定久が家督を継承する。
その際、居城の由木城を叔父の一種長純和尚に譲り、1532年にその地に永林寺が建立される。
定久はこの時に大石氏居城の滝山城に移った?

1529年、山内家中にて、五郎丸派による謀反が発生した。
古河公方足利高基と嫡男晴氏の父子は兼ねてより不仲であり、
山内憲寛派に対する五郎丸派に、晴氏が協力する関係となる。
(関東享禄の内乱)

 同年、北条氏綱は、嫡男の元服を済ませ、
北条氏康、および北条綱成を武蔵小沢城に入れて武蔵の情勢を監視させる。
1530年、扇ヶ谷朝興は甲斐武田に派兵を要請し、信虎の弟勝沼信友が出陣。
4月、氏綱はこれを矢坪坂の戦いで破る。
朝興は、武田軍と挟み撃ちを構想しており、
また、甲斐方面に兵を裂かなければならない北条軍の手勢を見縊っており、余裕を持って多摩川を渡河する。
6月、これを、氏康は小沢原の戦いで打ち破った。

1531年、五郎丸が勝利して山内家当主上杉憲政となり、
同じく、古河公方は足利高基を破って足利晴氏が就任した。
永林寺

 1525年12月の浄福寺の棟札には、
「大檀那大石源左衛門入道道俊井子息憲重」の名が書かれている。
道俊とは大石定久の事であり、定久の次の当主が大石憲重であるに違いないであろうが、
この人物が氏綱の綱の字の偏諱を受けて大石綱周と名乗っていると考えられる。
この説が正しいとすれば、大石氏は、氏康期の河越夜戦よりも前に北条氏に下っている事になる。

 1536年、今川氏輝とその弟彦五郎が急死。花倉の乱が発生する。
北条家としては、
嫡流である寿桂尼の実子である栴岳承芳を支持する立場を取らなければならず、
栴岳承芳の異母兄である玄広恵探の討伐に協力する。
玄広恵探には、甲斐武田が協力していたと見られる。
武田晴信はこれと全く同じ時期に元服している。
結果は、栴岳承芳の勝利で、今川義元として今川家当主となる。

 1537年、今川家と北条家の離間策として、武田信虎は娘を今川義元に嫁がせた。
これに激怒した氏綱は今川家を断交し、東駿河へと侵攻した。
(第一河東一乱)
間門城はこの時に築かれた。

 この年、扇ヶ谷朝興が死去し、朝定が後を継いだ。
扇ヶ谷家を支援していた小弓公方が強大化する事を防ぐ為、氏綱は直ぐに出陣した。
小弓公方と敵対していた古河公方晴氏と協力体制を取り、
氏綱は江戸城に続いて河越城までも奪取した。
扇ヶ谷朝定は松山城に逃れた。
2023年10月06日 15:55撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 15:55
永林寺

 1525年12月の浄福寺の棟札には、
「大檀那大石源左衛門入道道俊井子息憲重」の名が書かれている。
道俊とは大石定久の事であり、定久の次の当主が大石憲重であるに違いないであろうが、
この人物が氏綱の綱の字の偏諱を受けて大石綱周と名乗っていると考えられる。
この説が正しいとすれば、大石氏は、氏康期の河越夜戦よりも前に北条氏に下っている事になる。

 1536年、今川氏輝とその弟彦五郎が急死。花倉の乱が発生する。
北条家としては、
嫡流である寿桂尼の実子である栴岳承芳を支持する立場を取らなければならず、
栴岳承芳の異母兄である玄広恵探の討伐に協力する。
玄広恵探には、甲斐武田が協力していたと見られる。
武田晴信はこれと全く同じ時期に元服している。
結果は、栴岳承芳の勝利で、今川義元として今川家当主となる。

 1537年、今川家と北条家の離間策として、武田信虎は娘を今川義元に嫁がせた。
これに激怒した氏綱は今川家を断交し、東駿河へと侵攻した。
(第一河東一乱)
間門城はこの時に築かれた。

 この年、扇ヶ谷朝興が死去し、朝定が後を継いだ。
扇ヶ谷家を支援していた小弓公方が強大化する事を防ぐ為、氏綱は直ぐに出陣した。
小弓公方と敵対していた古河公方晴氏と協力体制を取り、
氏綱は江戸城に続いて河越城までも奪取した。
扇ヶ谷朝定は松山城に逃れた。
永林寺

1538年には葛西城を奪い返す事にも成功し、上総への足掛かりとした。
国府台合戦にて、氏康が小弓公方を討ち取り大勝利した。
1539年、老齢の氏綱に代わって氏康が軍事指揮を執る事が多くなる。
包囲された河越城を救う為、氏康は、
毛呂城の毛呂顕秀や勝沼城の三田綱秀を調略して、
滝山城の大石氏を攻撃、陥落させ、大石元興を従属させている。
(元興とは?)
興の字は朝興の偏諱では?
上杉憲政と共に越後に向かった大石綱元(1532-1601)の父が大石元興?
ただ綱元の綱は氏綱なのでは?
この時の落城は滝山城では無く滝の城であった方がしっくりする気が。
その後、蕨城を調略して落とし、次いで深大寺城も入手している。
この時点で扇ヶ谷勢の主な城は、松山城、岩槻城、難波田城の3城になった。
この勝利を讃え、古河公方晴氏は氏綱に対して関東管領補任という任を与えた。
無論これは朝廷からの許可のあるものでは無いが、
関東公方による叙任としての意味合いは強く、北条の名を関東に轟かせる良い口実になる。
関東管領職には山内上杉憲政が就いており、北条氏とはやはり対立する事になる。
松山城に逃亡した扇ヶ谷朝定は、今度は山内憲政を頼る事になる。
2023年10月06日 15:56撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 15:56
永林寺

1538年には葛西城を奪い返す事にも成功し、上総への足掛かりとした。
国府台合戦にて、氏康が小弓公方を討ち取り大勝利した。
1539年、老齢の氏綱に代わって氏康が軍事指揮を執る事が多くなる。
包囲された河越城を救う為、氏康は、
毛呂城の毛呂顕秀や勝沼城の三田綱秀を調略して、
滝山城の大石氏を攻撃、陥落させ、大石元興を従属させている。
(元興とは?)
興の字は朝興の偏諱では?
上杉憲政と共に越後に向かった大石綱元(1532-1601)の父が大石元興?
ただ綱元の綱は氏綱なのでは?
この時の落城は滝山城では無く滝の城であった方がしっくりする気が。
その後、蕨城を調略して落とし、次いで深大寺城も入手している。
この時点で扇ヶ谷勢の主な城は、松山城、岩槻城、難波田城の3城になった。
この勝利を讃え、古河公方晴氏は氏綱に対して関東管領補任という任を与えた。
無論これは朝廷からの許可のあるものでは無いが、
関東公方による叙任としての意味合いは強く、北条の名を関東に轟かせる良い口実になる。
関東管領職には山内上杉憲政が就いており、北条氏とはやはり対立する事になる。
松山城に逃亡した扇ヶ谷朝定は、今度は山内憲政を頼る事になる。
永林寺

 氏綱は晩年に北条領国の支城群整備を行なう。
1541年5月、病に倒れ7月に死去する。
氏綱死去の報は直ぐに上杉方に察知され、動き出すも、氏康は直ぐに対処した。

 同じ時、信虎と晴信は海野平の戦いを行ない、その後晴信は信虎を追放して武田家当主となる。
1542年、諏訪領を制圧、1543年、高遠を滅ぼし上伊那も制圧。
1544年、晴信は氏康と和睦した。
1545年、氏康と義元が戦う第二次河東一乱の調停を行なう。

 ところが、氏綱から氏康へと代替わりした事を好機として、
両上杉は古河公方を北条氏から寝返らせて味方にすると、
8万とも言われる大軍を擁して北条綱成が籠る河越城を包囲した。

 1546年、氏康は、この苦境の中で両上杉軍に決定的な勝利を治める。
扇ヶ谷上杉氏は当主朝定を失い、山内憲政は上野国平井城に逃げた。
1548年に岩槻城を落とすと、扇ヶ谷家は完全に滅亡した。
憲政はその後に信濃国まで逃げ、越後にまで助けを求めるようになる。
憲政に従って大石綱元も越後に行った。
2023年10月06日 15:56撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 15:56
永林寺

 氏綱は晩年に北条領国の支城群整備を行なう。
1541年5月、病に倒れ7月に死去する。
氏綱死去の報は直ぐに上杉方に察知され、動き出すも、氏康は直ぐに対処した。

 同じ時、信虎と晴信は海野平の戦いを行ない、その後晴信は信虎を追放して武田家当主となる。
1542年、諏訪領を制圧、1543年、高遠を滅ぼし上伊那も制圧。
1544年、晴信は氏康と和睦した。
1545年、氏康と義元が戦う第二次河東一乱の調停を行なう。

 ところが、氏綱から氏康へと代替わりした事を好機として、
両上杉は古河公方を北条氏から寝返らせて味方にすると、
8万とも言われる大軍を擁して北条綱成が籠る河越城を包囲した。

 1546年、氏康は、この苦境の中で両上杉軍に決定的な勝利を治める。
扇ヶ谷上杉氏は当主朝定を失い、山内憲政は上野国平井城に逃げた。
1548年に岩槻城を落とすと、扇ヶ谷家は完全に滅亡した。
憲政はその後に信濃国まで逃げ、越後にまで助けを求めるようになる。
憲政に従って大石綱元も越後に行った。
永林寺
2023年10月06日 15:56撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 15:56
永林寺
大石信濃守屋敷

 大石宗虎は、定久の弟大石信濃守定基とされる。
宗も虎も基も、山内か越後の上杉っぽい気がするが、
もしかするとそんな時代まで反北条勢力が近場にいたという事か?
2023年10月06日 16:33撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 16:33
大石信濃守屋敷

 大石宗虎は、定久の弟大石信濃守定基とされる。
宗も虎も基も、山内か越後の上杉っぽい気がするが、
もしかするとそんな時代まで反北条勢力が近場にいたという事か?
大石信濃守屋敷
2023年10月06日 16:35撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 16:35
大石信濃守屋敷
墓地
2023年10月06日 16:34撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 16:34
墓地
大石信濃守屋敷
2023年10月06日 16:35撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 16:35
大石信濃守屋敷
大石信濃守屋敷
2023年10月06日 16:36撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 16:36
大石信濃守屋敷
大石信濃守屋敷
2023年10月06日 16:36撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 16:36
大石信濃守屋敷
大石信濃守屋敷
2023年10月06日 16:38撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 16:38
大石信濃守屋敷
滝山城信濃屋敷

系図上、定基の子が照基となっているが、信濃守を継承したからそうなっているのか?
福生市史の復元系図では、定久の弟が信濃守照基となっている。
1521年に築城されていれば、定久の弟が滝山に入っていてもおかしく無いが、
滝山城主でも無く、北条氏による改築後の家臣屋敷に信濃屋敷がある事、
氏照の偏諱と思われる照の字を用いている事から、別の人物なのではと思う。
2023年10月06日 08:55撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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滝山城信濃屋敷

系図上、定基の子が照基となっているが、信濃守を継承したからそうなっているのか?
福生市史の復元系図では、定久の弟が信濃守照基となっている。
1521年に築城されていれば、定久の弟が滝山に入っていてもおかしく無いが、
滝山城主でも無く、北条氏による改築後の家臣屋敷に信濃屋敷がある事、
氏照の偏諱と思われる照の字を用いている事から、別の人物なのではと思う。
滝山城家臣屋敷説明板
2023年10月06日 08:54撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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滝山城家臣屋敷説明板
松嶽稲荷神社

 河越城の戦いの勝利の影響は大きく、
大石源左衛門尉家はこの時に完全に北条傘下に入ったと思われる。
大石定久は心月斎道俊と号し、多摩郡戸倉城に隠居した。
道俊は1549年に死去したとされる。

 1554年、甲相駿三国同盟が成立する。

 1555年春までは確実に大石氏の当主は大石綱周であったとされる。
道俊との関係は、実子なのか養子なのか、不明との事。
憲政に従う綱元の家系など、大石氏内部での分裂は依然として残っていたらしい。
氏康は、大石氏を完全に取り込むべく、息子を養子に出す事を決定する。
1556年、氏康の三男で大石定久(?)の養子としていた源三は、
元服して大石氏照(1540-1590)と名乗り、大石氏領国の座間郷に移る。
星谷城を居城にしていたとする説もある。
2023年10月06日 11:01撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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松嶽稲荷神社

 河越城の戦いの勝利の影響は大きく、
大石源左衛門尉家はこの時に完全に北条傘下に入ったと思われる。
大石定久は心月斎道俊と号し、多摩郡戸倉城に隠居した。
道俊は1549年に死去したとされる。

 1554年、甲相駿三国同盟が成立する。

 1555年春までは確実に大石氏の当主は大石綱周であったとされる。
道俊との関係は、実子なのか養子なのか、不明との事。
憲政に従う綱元の家系など、大石氏内部での分裂は依然として残っていたらしい。
氏康は、大石氏を完全に取り込むべく、息子を養子に出す事を決定する。
1556年、氏康の三男で大石定久(?)の養子としていた源三は、
元服して大石氏照(1540-1590)と名乗り、大石氏領国の座間郷に移る。
星谷城を居城にしていたとする説もある。
川原宿
陣馬街道を東に進む
2023年10月06日 11:08撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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川原宿
陣馬街道を東に進む
あれは後の小田野城
2023年10月06日 11:11撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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あれは後の小田野城
西寺方町八幡神社
2023年10月06日 11:13撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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西寺方町八幡神社
西寺方
2023年10月06日 11:16撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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西寺方
西寺方
2023年10月06日 11:18撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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西寺方
北浅川
2023年10月06日 11:19撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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北浅川
元木菅原神社
2023年10月06日 11:21撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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元木菅原神社
元木稲荷神社
2023年10月06日 11:26撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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元木稲荷神社
元木
2023年10月06日 11:28撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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元木
西寺方町菅原神社
2023年10月06日 11:34撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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西寺方町菅原神社
稲荷社
2023年10月06日 11:35撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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稲荷社
西寺方町菅原神社
2023年10月06日 11:37撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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西寺方町菅原神社
西寺方町菅原神社
2023年10月06日 11:38撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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西寺方町菅原神社
西寺方町菅原神社
2023年10月06日 11:40撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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西寺方町菅原神社
西寺方町菅原神社
2023年10月06日 11:41撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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西寺方町菅原神社
由井野城・北堀切(切通)

 1559年、氏照は本格的に由井領支配を開始する為、
定久の娘比佐の婿養子として迎え入れられ、大石氏居城由井城に入った。
この由井城が、大石氏本拠の浄福寺城なのか、滝山城なのか、
はたまた上恩方の由井野城なのかはっきりしない。
滝山城はまだ築城されていないと言う説も有力であり、
由木城を含む由井領全体の領主として、浄福寺城を由井城と呼んだ説が濃厚との事?
また、比佐と同じく定久の子とされる大石定仲は1534年生まれで氏照の6つ程年上。
定仲が産まれた時、定久は既に43歳で、比佐が産まれたのはもっと後と言う事になる。
やはり定久の後継者である綱周の息子と娘である方がしっくりする。
2023年10月06日 11:50撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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由井野城・北堀切(切通)

 1559年、氏照は本格的に由井領支配を開始する為、
定久の娘比佐の婿養子として迎え入れられ、大石氏居城由井城に入った。
この由井城が、大石氏本拠の浄福寺城なのか、滝山城なのか、
はたまた上恩方の由井野城なのかはっきりしない。
滝山城はまだ築城されていないと言う説も有力であり、
由木城を含む由井領全体の領主として、浄福寺城を由井城と呼んだ説が濃厚との事?
また、比佐と同じく定久の子とされる大石定仲は1534年生まれで氏照の6つ程年上。
定仲が産まれた時、定久は既に43歳で、比佐が産まれたのはもっと後と言う事になる。
やはり定久の後継者である綱周の息子と娘である方がしっくりする。
日枝神社うらの土塁
2023年10月06日 11:54撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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日枝神社うらの土塁
日枝神社うらの土塁
2023年10月06日 11:54撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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日枝神社うらの土塁
日枝神社の土壇を見上げる
2023年10月06日 11:56撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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日枝神社の土壇を見上げる
日枝神社と切通
2023年10月06日 11:57撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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日枝神社と切通
萬年山無量院
2023年10月06日 12:01撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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萬年山無量院
報恩寺観音堂
2023年10月06日 12:04撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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報恩寺観音堂
報恩寺跡
2023年10月06日 12:05撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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報恩寺跡
池?
ここで谷を渡る事が出来るような地形になっている
2023年10月06日 12:07撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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池?
ここで谷を渡る事が出来るような地形になっている
報恩寺跡地
2023年10月06日 12:08撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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報恩寺跡地
報恩寺跡地
2023年10月06日 12:09撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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報恩寺跡地
虎口っぽいか?
2023年10月06日 12:13撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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虎口っぽいか?
上段の方は薮が酷くてよくわからない
2023年10月06日 12:15撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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上段の方は薮が酷くてよくわからない
由井野城北曲輪?
上部は、一応平らにしてあるが……。
2023年10月06日 12:15撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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由井野城北曲輪?
上部は、一応平らにしてあるが……。
薮薮で状況が詳しくわからない。
奥へ、北端の切通方面へ行ってみたい気もするが、薮が酷い。
2023年10月06日 12:16撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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薮薮で状況が詳しくわからない。
奥へ、北端の切通方面へ行ってみたい気もするが、薮が酷い。
2023年10月06日 12:17撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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これは堀切
2023年10月06日 12:19撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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これは堀切
堀切と虎口
2023年10月06日 12:19撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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堀切と虎口
堀切
2023年10月06日 12:19撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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堀切
堀切
2023年10月06日 12:20撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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堀切
由井野城主郭
2023年10月06日 12:20撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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由井野城主郭
由井野城帯曲輪?
2023年10月06日 12:21撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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由井野城帯曲輪?
由井野城主郭
2023年10月06日 12:23撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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由井野城主郭
由井野城から南の眺め
2023年10月06日 12:23撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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由井野城から南の眺め
主郭の南東部
2023年10月06日 12:36撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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主郭の南東部
主郭内部
2023年10月06日 12:28撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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主郭内部
主郭中心部方面を見る
基本的に薮薮
2023年10月06日 12:32撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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主郭中心部方面を見る
基本的に薮薮
城域(?)からだいぶ離れた南端。
基本的に薮薮で先が見えない。
2023年10月06日 12:26撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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城域(?)からだいぶ離れた南端。
基本的に薮薮で先が見えない。
南から主郭に向かっていく通路、
奥の明るい所が曲輪の端と思われるが……
2023年10月06日 12:27撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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南から主郭に向かっていく通路、
奥の明るい所が曲輪の端と思われるが……
曲輪の南端部
曲輪の切れ目だけど、はっきりしない。
2023年10月06日 12:28撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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曲輪の南端部
曲輪の切れ目だけど、はっきりしない。
主郭の南虎口?
2023年10月06日 12:37撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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主郭の南虎口?
帯曲輪というよりは、墓地造成の為に水捌け通路が作られているだけか。
2023年10月06日 12:37撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 12:37
帯曲輪というよりは、墓地造成の為に水捌け通路が作られているだけか。
由井野城への登城路?
2023年10月06日 12:39撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 12:39
由井野城への登城路?
不段院
2023年10月06日 12:40撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 12:40
不段院
不段院から東の眺め
2023年10月06日 12:40撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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不段院から東の眺め
不段院にある由井野城説明板
不段院としては、城とは認めていないようす。
2023年10月06日 12:40撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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不段院にある由井野城説明板
不段院としては、城とは認めていないようす。
不段院
2023年10月06日 12:44撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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不段院
神明神社
2023年10月06日 12:46撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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神明神社
2023年10月06日 12:50撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 12:50
2023年10月06日 12:53撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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諏訪町
2023年10月06日 13:01撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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諏訪町
諏訪神社
2023年10月06日 13:01撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 13:01
諏訪神社
高尾街道と陣馬街道が交差する四辻
2023年10月06日 13:11撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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高尾街道と陣馬街道が交差する四辻
西蓮寺
2023年10月06日 13:15撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 13:15
西蓮寺
横川の辻
2023年10月06日 13:19撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 13:19
横川の辻
水無瀬橋
2023年10月06日 13:22撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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水無瀬橋
日吉八王子神社
2023年10月06日 13:26撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 13:26
日吉八王子神社
追分
2023年10月06日 13:30撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 13:30
追分
秋川街道分岐
2023年10月06日 13:33撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 13:33
秋川街道分岐
四辻
2023年10月06日 13:36撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 13:36
四辻
2023年10月06日 13:39撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 13:39
天満神社
2023年10月06日 14:01撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 14:01
天満神社
招魂場追分
2023年10月06日 14:03撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 14:03
招魂場追分
台町浅間神社
2023年10月06日 14:06撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 14:06
台町浅間神社
廣園寺分岐
2023年10月06日 14:11撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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廣園寺分岐
2023年10月06日 14:22撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 14:22
2023年10月06日 14:34撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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椚田遺跡公園通り
2023年10月06日 14:38撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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椚田遺跡公園通り
小比企丘陵を眺める
2023年10月06日 14:39撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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小比企丘陵を眺める
由井の地名が見える
2023年10月06日 14:43撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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由井の地名が見える
小比企稲荷神社
2023年10月06日 14:45撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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小比企稲荷神社
片倉城
2023年10月06日 14:48撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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片倉城
片倉城址公園水車小屋
2023年10月06日 14:54撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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片倉城址公園水車小屋
片倉城址公園
2023年10月06日 14:55撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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片倉城址公園
片倉城
2023年10月06日 15:01撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 15:01
片倉城
片倉城説明板
2023年10月06日 15:04撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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片倉城説明板
片倉城から東の眺め
2023年10月06日 15:06撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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片倉城から東の眺め
2023年10月06日 15:09撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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湯殿川(奥)と山王神社
2023年10月06日 15:10撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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湯殿川(奥)と山王神社
下中谷戸
2023年10月06日 15:12撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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下中谷戸
八幡社縁起
2023年10月06日 15:15撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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八幡社縁起
八幡社
2023年10月06日 15:17撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 15:17
八幡社
梅洞寺
2023年10月06日 15:19撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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梅洞寺
梅洞寺から西、片倉城方面の眺め
2023年10月06日 15:22撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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梅洞寺から西、片倉城方面の眺め
打越の交差点
北野街道と野猿街道が交差する
2023年10月06日 15:26撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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打越の交差点
北野街道と野猿街道が交差する
野猿峠
2023年10月06日 15:41撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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野猿峠
野猿峠
この峠の北東が長沼城や平山城がある地域。
峠を南に下ると柚木地域。
2023年10月06日 15:41撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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野猿峠
この峠の北東が長沼城や平山城がある地域。
峠を南に下ると柚木地域。
柚木城
2023年10月06日 15:50撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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柚木城
永林寺の南の眺め
2023年10月06日 16:16撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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永林寺の南の眺め
大石信濃守屋敷
2023年10月06日 16:22撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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大石信濃守屋敷
大石やかた公園
2023年10月06日 16:23撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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大石やかた公園
大石やかた公園
2023年10月06日 16:25撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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大石やかた公園
大石やかた公園
2023年10月06日 16:27撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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大石やかた公園
園地の谷戸。ここもあやしい。
2023年10月06日 16:28撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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園地の谷戸。ここもあやしい。
大石信濃守屋敷から柚木城方面
2023年10月06日 16:40撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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大石信濃守屋敷から柚木城方面
展望台
2023年10月06日 16:44撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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展望台
展望台下、柚木城方面
2023年10月06日 16:47撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 16:47
展望台下、柚木城方面
小田屋敷跡?
現地でマップ上で見つけたポイントだけど詳細不明
2023年10月06日 16:48撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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小田屋敷跡?
現地でマップ上で見つけたポイントだけど詳細不明
滝山城から北の眺め

 1561年2月、氏照は滝山城に入ったとされるが、
越後の長尾景虎の関東侵攻の際に認知されていない事から、まだ滝山城にはいないのでは無いかと言われている。
この後に景虎は上杉政虎と名乗るようになる。
1561年から1563年の間に、氏照は由井領に北接する三田氏の勝沼領を滅ぼして接収した。
これらの戦闘の過程で1564年頃から滝山城の築城を開始して居城を移したともされている。
2023年10月06日 08:46撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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滝山城から北の眺め

 1561年2月、氏照は滝山城に入ったとされるが、
越後の長尾景虎の関東侵攻の際に認知されていない事から、まだ滝山城にはいないのでは無いかと言われている。
この後に景虎は上杉政虎と名乗るようになる。
1561年から1563年の間に、氏照は由井領に北接する三田氏の勝沼領を滅ぼして接収した。
これらの戦闘の過程で1564年頃から滝山城の築城を開始して居城を移したともされている。
滝山城

 1569年、武田信玄による関東侵攻の際、滝山城は激しい攻撃を受ける。
信玄は小田原城を包囲した後、甲斐に帰還する時に氏照らは三増峠にて迎え討つが、敗北。
この年の間に、氏照は大石姓から北条姓に戻った。
この攻撃で滝山城の防備に疑問を持って八王子城築城を考えたとする説があるが、
1561年の時点で滝山城が無かったとすると、僅か5年程度で滝山を放棄した事になる。
1571年頃から段階的に築城を開始した可能性は考えられ、1578年頃から本格的に築城したとする説も。
2023年10月06日 08:56撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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滝山城

 1569年、武田信玄による関東侵攻の際、滝山城は激しい攻撃を受ける。
信玄は小田原城を包囲した後、甲斐に帰還する時に氏照らは三増峠にて迎え討つが、敗北。
この年の間に、氏照は大石姓から北条姓に戻った。
この攻撃で滝山城の防備に疑問を持って八王子城築城を考えたとする説があるが、
1561年の時点で滝山城が無かったとすると、僅か5年程度で滝山を放棄した事になる。
1571年頃から段階的に築城を開始した可能性は考えられ、1578年頃から本格的に築城したとする説も。
浄福寺から深沢山(のちの八王子城)を眺める

1584年から1587年頃に本拠を八王子城に移した。
2023年10月06日 10:55撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
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浄福寺から深沢山(のちの八王子城)を眺める

1584年から1587年頃に本拠を八王子城に移した。
2023年10月06日 17:54撮影 by  iPhone 12 Pro, Apple
10/6 17:54
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