記録ID: 2703875
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キャンプ等、その他
中国
天皇陵巡礼29(下関/安徳天皇陵)
2020年10月28日(水) [日帰り]


- GPS
- 00:05
- 距離
- 409m
- 登り
- 9m
- 下り
- 6m
コースタイム
GoToトラベルに加え、JR西日本エリア乗り放題となる「どこでもドアきっぷ」を利用し、1泊2日で安徳天皇陵参拝へ。
その他 藤原義江記念館、ふぐ (地元では 「ふく」)、門司港のレトロな街並、太宰府天満宮参拝など。
ルートは藤原義江記念館への階段の下から赤間神宮までを記載。写真も同様。
それにしても下関はいろいろと「売り」があるものだ。
なによりも平氏が滅亡し、平安時代の終焉を決定づけた大事件、壇ノ浦の戦いがあった地。
その壇ノ浦の戦いで幼くして亡くなった安徳天皇を祀る赤間神宮。
その前身の阿弥陀寺は「耳なし芳一」の舞台。
近くの「春帆楼 (しゅんぱんろう)」は、伊藤博文にふぐ料理を提供したことをきっかけにそれまで長く続いていたふぐ禁食令が解かれ、ふぐ料理公許第一号店に認定された店。
また日清戦争の講和会議である下関条約が締結された場所でもあり、敷地内に日清講和記念館がある (入場無料)。
旧下関英国領事館などのレトロな建物。
朝鮮通信使上陸淹留の地、床屋発祥の地、ザビエル上陸の地などの碑。
金子みすゞ、林芙美子、田中絹代らのゆかりの地。
そして巖流島。などなど。
とはいえ それらは広く喜ばれる話ではなく、一番の「売り」はなんといっても「ふく」。ふくの町。
私は特にふぐが好きというわけではないので、ホテルの夕食にいただいただけ。
かなわぬと思っていた下関の安徳天皇陵に参拝できて本当によかった。
全御陵参拝も先が見えてきたが、崇徳天皇陵はどうしても難しそうだ。
京都祇園町にある崇徳天皇御廟には参拝しているのでそれでお許し願いたい。
***
●第81代 安徳天皇
諱:言仁 (ときひと)
生没年:1178年11月〜1185年3月(6歳)
在位期間:1180年2月〜1185年3月(5年間)
父親:高倉天皇、母親:平徳子
先代:高倉天皇、次代:後鳥羽天皇
皇居:平安宮、福原宮
陵所:阿彌陀寺陵(赤間神宮境内)
治承2年 (1178年) 11月12日に生まれ、12月15日に立太子。治承4年 (1180年) 2月21日に1歳2か月で践祚し、4月22日に即位。天皇の祖父 後白河法皇は、天皇の外祖父 平清盛により幽閉されており、政治は清盛が取り仕切った。摂政には藤原基通が任じられた。
即位の年に清盛の主導で遷都が計画され、福原行幸 (現在の神戸市) がおこなわれるが、半年ほどで京都に還幸。
寿永2年 (1183年)、源義仲の入京に伴い、平宗盛以下 平家一門に連れられ三種の神器とともに都落ち。この後 寿永2年8月 (1183年9月) に三種の神器がないまま後鳥羽天皇が践祚し、元暦元年 (1184年) 7月に即位。正史上初めて同時に2人の天皇が擁立されることになった。
一方 安徳天皇は平家一門に連れられ大宰府を経て屋島に行き、1183年に行宮を置いた。しかし源頼朝が派遣した鎌倉源氏軍 (源範頼、源義経) によって平氏は一ノ谷の戦いと屋島の戦いに敗北。天皇と平家一門は海上へ逃れる。そして寿永4年 (1185年) 4月、壇ノ浦の戦いで平氏と源氏が激突。平氏軍は敗北し一門は滅亡した。
数え年8歳 (満6歳4か月) での崩御は歴代最年少。
なお「平家物語」における、安徳天皇が神璽と宝剣を身につけた母方祖母 二位尼 (平時子) に抱かれ入水する話は有名。
その他 藤原義江記念館、ふぐ (地元では 「ふく」)、門司港のレトロな街並、太宰府天満宮参拝など。
ルートは藤原義江記念館への階段の下から赤間神宮までを記載。写真も同様。
それにしても下関はいろいろと「売り」があるものだ。
なによりも平氏が滅亡し、平安時代の終焉を決定づけた大事件、壇ノ浦の戦いがあった地。
その壇ノ浦の戦いで幼くして亡くなった安徳天皇を祀る赤間神宮。
その前身の阿弥陀寺は「耳なし芳一」の舞台。
近くの「春帆楼 (しゅんぱんろう)」は、伊藤博文にふぐ料理を提供したことをきっかけにそれまで長く続いていたふぐ禁食令が解かれ、ふぐ料理公許第一号店に認定された店。
また日清戦争の講和会議である下関条約が締結された場所でもあり、敷地内に日清講和記念館がある (入場無料)。
旧下関英国領事館などのレトロな建物。
朝鮮通信使上陸淹留の地、床屋発祥の地、ザビエル上陸の地などの碑。
金子みすゞ、林芙美子、田中絹代らのゆかりの地。
そして巖流島。などなど。
とはいえ それらは広く喜ばれる話ではなく、一番の「売り」はなんといっても「ふく」。ふくの町。
私は特にふぐが好きというわけではないので、ホテルの夕食にいただいただけ。
かなわぬと思っていた下関の安徳天皇陵に参拝できて本当によかった。
全御陵参拝も先が見えてきたが、崇徳天皇陵はどうしても難しそうだ。
京都祇園町にある崇徳天皇御廟には参拝しているのでそれでお許し願いたい。
***
●第81代 安徳天皇
諱:言仁 (ときひと)
生没年:1178年11月〜1185年3月(6歳)
在位期間:1180年2月〜1185年3月(5年間)
父親:高倉天皇、母親:平徳子
先代:高倉天皇、次代:後鳥羽天皇
皇居:平安宮、福原宮
陵所:阿彌陀寺陵(赤間神宮境内)
治承2年 (1178年) 11月12日に生まれ、12月15日に立太子。治承4年 (1180年) 2月21日に1歳2か月で践祚し、4月22日に即位。天皇の祖父 後白河法皇は、天皇の外祖父 平清盛により幽閉されており、政治は清盛が取り仕切った。摂政には藤原基通が任じられた。
即位の年に清盛の主導で遷都が計画され、福原行幸 (現在の神戸市) がおこなわれるが、半年ほどで京都に還幸。
寿永2年 (1183年)、源義仲の入京に伴い、平宗盛以下 平家一門に連れられ三種の神器とともに都落ち。この後 寿永2年8月 (1183年9月) に三種の神器がないまま後鳥羽天皇が践祚し、元暦元年 (1184年) 7月に即位。正史上初めて同時に2人の天皇が擁立されることになった。
一方 安徳天皇は平家一門に連れられ大宰府を経て屋島に行き、1183年に行宮を置いた。しかし源頼朝が派遣した鎌倉源氏軍 (源範頼、源義経) によって平氏は一ノ谷の戦いと屋島の戦いに敗北。天皇と平家一門は海上へ逃れる。そして寿永4年 (1185年) 4月、壇ノ浦の戦いで平氏と源氏が激突。平氏軍は敗北し一門は滅亡した。
数え年8歳 (満6歳4か月) での崩御は歴代最年少。
なお「平家物語」における、安徳天皇が神璽と宝剣を身につけた母方祖母 二位尼 (平時子) に抱かれ入水する話は有名。
天候 | 曇り |
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過去天気図(気象庁) | 2020年10月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
●帰り=下関(唐戸) (関門連絡船) 門司港 (JR鹿児島本線) 小倉 (JR山陽新幹線) 博多 (福岡市営空港線) 天神 (西鉄) 大宰府 − 天神 − 博多 − 新大阪 |
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