信越本線廃線ウォーク



- GPS
- --:--
- 距離
- 8.7km
- 登り
- 175m
- 下り
- 622m
コースタイム
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2019年02月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
電車 バス
|
コース状況/ 危険箇所等 |
安中市観光機構のイベント時のみ立入可能 |
その他周辺情報 | 終点は峠の湯で入浴 |
写真
感想
平成9年10月1日北陸新幹線(当時“長野新幹線”と通称)が開業し、平行在来線の軽井沢〜篠ノ井間はしなの鉄道に、横川〜軽井沢間は廃線となった。廃線後20年余り経った線路跡を安中市が整備し、外郭団体の観光機構が廃線跡ウォークの企画を不定期であるが実施している。今回は軽井沢駅から安中市旧坂本宿にある峠の湯までの間の下り線跡を歩く企画に参加した。
軽井沢駅の外れ第1閉塞信号機の辺りにある工事現場で集合し、3班に分かれて歩き出した。通常は立ち入ることが出来ないエリアで装備はヘルメット、ヘッドライトが必携だった。線路に下り立つと66.7‰の急勾配が実感出来た。信越本線の横川は標高387m、一方の軽井沢は939mありこの間は鉄道最大の難所として明治26年(1893) 4月1日の開通時はアブト式の蒸気機関車によりレールの間に敷かれたラックレールに機関車の歯車を噛み合わせて急勾配を登り下りしていた。この間はトンネルが多く上り勾配で機関士の窒息などの健康問題や乗客の難渋は筆舌に尽くしがたく、明治45年(1912) 5月日本初の電化が行われた。
時代は下がって輸送力が逼迫し、アブト区間は信越本線のボトルネックとなっていることから、昭和38年7月線路と車輪の粘着だけによる運転方式となり同年9月末でアブト式は廃止となった。昭和41年には旧アブト線の一部を活用し複線化も実施された。しかしこの区間の通過には全ての列車に専用の補助機関車(EF63)2両を横川方に連結し電車もモーターを停止し機関車の動力だけで走るため連結両数は客車8両までとされた。その後新型の電車の開発により機関車と電車の協調運転が行われるようになり12両編成の特急列車が運転できるようになった。運転速度は遅く、下り列車は17分、坂を下る上り列車は24分の時間を要した。このような運転方式はコストがかかり、平行在来線の議論の中でもあっさりと廃止が決まってしまった。
以上の歴史から廃線跡はアブト式の旧線と粘着式の新線上下線の計3本が見られる。アブト旧線は峠の湯付近から熊ノ平駅跡までがアプトの道として遊歩道として開放されている。下り線は整備されイベント時にガイドツアーで公開されるが上り線は未整備で草木が蔓延っている。安中市はこの上り線も整備中で今年3月には峠の湯〜熊ノ平の整備が終り上下線で熊ノ平まで往復するイベントが開催される予定だ。
さて下り線ウォークに戻り入線位置から200m程進むとトンネルに突入した。架線は外されているが線路はそのまま残りコンクリートの枕木の上を歩く。僕の足では2歩で3本分進め、女性でも1歩には狭くストレスを感じる。横軽間にトンネルが18本あり横川方から碓氷第1隧道、第2の順に付番され最初のトンネルは碓氷第18隧道で入口に「18T」と表記されていた。明かり区間は少なく出たと思ったらまたトンネルだ。
建設の歴史から上り線とは完全に分離されすべて単線トンネルとなっている。明かり区間でも上り線を見ることはできない。下り線の第10トンネルまでの9本分の区間は上り第9トンネル(1,328m)で一気に抜けているためだ。第18トンネルでは湧水が勢いよく線間を流れ、待避坑は氷の塊となっていた。第15トンネルと第14トンネルの間はコンクリート橋で少し離れて見ることができた。第9トンネルでは1週間程前に発生したレール窃盗未遂事件の現場を見た。深夜に重機を持ち込みガス溶接器で切断された跡が痛々しい。地元住民が深夜に重機が動いているのを見て警察に通報したため未遂で済んだそうだ。長いトンネルの中央部では線路中央に水路があり水が流れていた。
熊ノ平に到着すると丁度お昼時で“おぎのや”の“峠の釜めし”がタッフから配られた。熊ノ平はアブト時代は駅だったが、周りに人家がないことからその後は信号場となった。ここは区間内唯一の平坦地となっている。軽井沢側はアブト旧線、下り線、上り線の3本のトンネルが並び偉大な鉄道遺構を残している。山側には長野県民の悲願であった信越本線の開通を称える山県有朋揮毫の“碓氷嶺銕道碑”やホーム跡、安中市が文化財指定を目指す熊ノ平変電所跡のコンクリート建物が残っている。鉄道碑は元々軽井沢駅にあったが関東大震災で倒壊し打ち捨てられていたものを当時の横川保線区長がこの地に移したと云う。よく見ると割れた石を繋いだ跡が見える。
駅の横川寄りは3本のトンネルに加え旧線の突込線があり4本が並んでいる。大正7年(1918) 8月には軽井沢に向かっていた貨物列車がブレーキ故障で逆行し突込線で脱線転覆し乗務員4名が死亡すると云う大事故が発生している。
此処からは旧線とは全く違ったルートを取り刎石山(810m)の下を通り雲霧川の谷へと出た。明かり区間が長く続き最後の第1トンネルを抜けると峠の湯に到着した。横川機関区跡に出来た鉄道文化村から下り線の跡を利用してトロッコ列車が運転されここ峠の湯が終点となっている。今回はウォークは此処までだが、料金には入浴料も含まれ、16時からは碓氷峠の交通史についての興味深い講演会も聴けた。最後まで聴きたかったが帰りのバスの時間が迫り中座せざるを得ないのが残念だった。
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