岡山県倉敷市&矢掛町 猿掛山〜弥高山 山城跡&八十八カ所霊場



- GPS
- 06:25
- 距離
- 18.3km
- 登り
- 687m
- 下り
- 695m
コースタイム
- 山行
- 5:42
- 休憩
- 0:45
- 合計
- 6:27
歩行距離18km、歩行時間5時間40分、歩行数27,700歩
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2017年02月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
電車を利用する場合は、井原鉄道井原線で三谷駅か備中呉妹(びっちゅうくれせ)駅で下車すれば、アプローチが可能です。 |
コース状況/ 危険箇所等 |
猿掛山登山道は、堀切<写真22>の南北が急なロープ場ですが、それ以外は問題ありません。平林登山口<写真09>に概要図があるので、一部もらっておくと大手道入口<写真10>までがわかりやすいです。搦め手道は登山禁止になっています。 弥高山八十八カ所の道はよく整備されています。たまに黒い矢印が印刷された紙製の道標がありますが、弥高山八十八カ所44番太賽寺<写真30>から南方面に延びる道は入口がわかりにくく、少し迷いました。牛舎や鶏舎の近くを通ることもあるので、においや鳥インフルエンザが気になる場合はマスクを着用するなど対策が必要です。 弥高山頂上三角点<写真44>の北から東に向かって延びる道は、消滅しているようです。ヤブコギとまではいきませんが、途中から歩けるところを探しながら行きました。三角点周辺は枯れ草地ですが、そのすぐ東には轍のある土道がありました。南からアプローチすれば楽だったようです。 猿掛山平林登山口<写真09>から直進し、コンクリートから土の道に入りトタンのついたてがある辺りで金属製の幅20cm程の小さな橋を渡ります。さらに進むと道標があるので、すぐ奥に見える弘法大師?の石像<写真10>の前を左折して大手道に入ります。道標を無視して直進すると搦め手道ですが、荒廃しており登山禁止だそうです。 猿掛城跡本丸跡<写真20>から一番高く盛り上がっている部分へと南下すると、ロープ場があり、落ち葉が積もった急斜面になっています。ここは上り下りともロープがなければ足元が滑ったり崩れてきたりして歩きにくいです。堀切<写真22>のすぐ南のロープ場は、下りのみ利用しました。さらに南下するとたびたびロープ場がありますが、必要ありませんでした。 下山は猿掛城跡六の丸跡<写真14>の北の分岐から倉敷市真備(まび)町側の登山道に入りました。こちらも大手道同様、要所要所に道標があり落ち葉が積もった土道にところどころ小石が転がっています。下りは多少滑りやすいです。 弥高山八十八カ所の道はよく整備されており、たまに黒い矢印が印刷された紙製の道標があります。たくさんある石仏も目印になります。思った以上に土道が多く、竹林の中など雰囲気のよい所もありました。 今回は逆まわりしてしまったので、弥高山八十八カ所44番太賽寺<写真30>から南方面に延びる道の入口がわからず少し迷いました。シャベルが立っているところから西に一歩入った辺りで左(南東方向)を向くと、植え込みの脇に幅数十cm程の土の細道がありました。 弥高山頂上三角点<写真44>の北から東に延びる道は、消滅しているようです。踏み跡?を辿って崩れてくる斜面を上がり、木の間をぬうように少し進み、また崩れる斜面を上って雑草地に出ました。そこを突っ切って開けた砂地に出てからは歩きやすくなり、ソーラーパネルの南側を西に進んで白いオブジェを目指して枯れ草地に入り三角点を探しました。 |
その他周辺情報 | 「日本の歴史公園100選」にも選定されている吉備真備公園内に、うどん屋の「館址(かんし)亭」があります。吉備真備公館があったと伝えられるのを記念した休憩所でもあります。中国風の建物なので、すぐに分かります。営業時間は11:00〜14:00です。食事後は吉備真備や囲碁ファンの聖地でもあるこの公園内をゆっくりと回るのもいいでしょう。 |
写真
駐車場前の鳥居を三つくぐると、吉備大臣宮があります。吉備公館址と称され、吉備公ゆかりの屋敷跡とみられる土塁に囲まれた「だんのうち」と呼ばれる平地があり、奈良時代の瓦片が出土したとされています。
遣唐使として長安に渡り、日本の政治、文化、軍制の発達に大きな功績を挙げた吉備真備は在唐中、唐の囲碁名人と対局し、知恵をもって勝った説話があり、日本における囲碁の開祖として伝えられました。
カルガモ&コガモ
警戒心が強いので、人が近づくとすぐに飛んでいきますが、たまたま、小田川の福頼(ふくより)橋の上から、カルガモ(左端)とコガモをこっそりと観察することができました。動画も撮りました。
案内板に従って細いアスファルト道からコンクリート道、土道と進み、金属製の小さな橋を渡ると、大手道入口まで来ました。弘法大師像?が見えます。もう一つの搦め手(からめて)道は現在は廃道となっているようでした。ずっとジグザグ道なので、傾斜が急な割に楽に上ることができます。最初は階段状の道で、たまに小石が転がっています。
延徳4年(1492年)、守護細川勝久が猿掛城を急襲した際、城主庄元資(しょうもとすけ)は退避しましたが、永く庄氏を支援していた香西五郎右衛門一統は孤軍奮闘した末、城中にて切腹して果ててしまいました。庄元資は香西五郎右衛門一統の功績を讃え、その慰霊のためにこの寺丸を築き、位牌堂を建てて冥福を祈ったとされています。動画も撮りました。
天文2年(1533年)、庄為資(ためすけ)は一族の庄実近を猿掛城の城代として置きました。天文22年(1553年)に三村元親軍と庄為資軍が激突しましたが、毛利元春の調停により、三村家親の長男の元祐が庄為資の養子となり、猿掛城主として入城しました。城代の庄実近は城の北側の郭へ退隠し、この郭を大夫(たゆう)丸と称したといわれています。
大夫(たゆう)丸は約180坪の広さがあります。庄実近隠居砦の痕跡らしき石が見られました。動画も撮りました。ここを過ぎると分岐があり、東は真備(まび)町側の登山道、直進は新設された西登山道のようです。直進しました。
49番浄土寺
浄土寺は空也上人の姿がいまに残る寺です。後に弘法大師がこの寺を訪ねて、真言宗に改宗したとされています。愛媛県の同寺は66坊の末寺を持つほど栄えました。一方、このお堂は周辺に瓦が散乱し、今後が少し心配な状況でした。木の間のきれいな土道を抜け、遍路道から外れて弥高建設の所からアスファルト道に入り、コンクリート道を北上して弥高開拓三角点名「金山」<写真25>に向かいました。
右折する道をスルーして北端まで行ってしまい、雑草地を横切ってモミジがたくさん植えられた一角を通り抜けて三角点に向かいました。弥高(やたか)開拓のフラットな頂上に水道施設があり、その少し北に目立たないようにして、標高301.5mの三角点(点名:金山)がありました。
弥高開拓を通るコンクリート道からは南方面の眺望が効きます。瀬戸内海に浮かぶ塩飽(しあく)諸島や倉敷市の南岸近くにある沙美(さみ)アルプスがよく見えます。遥照山が木々の間からわずかに見えたので、アスファルト道に入り南西に進んでみましたが、よく見えなかったので引き返し、東から南西方面の動画を撮りました。
千手観音像
弥高建設の所から東方面に進むと、途中から砂利道になり、不意に千手観音像が現れました。この辺りからまた遍路道で、木の間や竹林の中の土道は石仏ロードでした。千手観音は観音の中でも功徳が大きく、観音の中の王という意味で蓮華王と呼ばれることもあります。阿修羅や金剛力士などの二十八部衆を配下にしています。このエリアではたくさん見られました。
46番浄瑠璃寺
小さなお堂は外側は少し傷んでいました。行基菩薩が、奈良の大仏開眼に先立ち仏教宣布のため伊予に来られた時、讃仏修業の適地として伽藍を建立したとされています。弘法大師が四国霊場の一つに加えました。
44番太賽寺
中央の弘法大師像には「天保三年」(1832年)と刻まれていました。太賽寺(だいほうじ)は百済から来た聖僧が携えて来た十一面観世音菩薩を山中に安置したのが始まりといわれています。後に弘法大師が来て、天台宗から真言宗に改宗されたそうです。ここからさらに南東に向かう土道の入口がわかりにくく、少し迷いました。
番外善光寺
アスファルト道に出て少し南西に進んだところにありました。番外って?ちなみに、西国三十三箇所という近畿地方と岐阜県にある観音菩薩の霊場があり、番外霊場として3つ、さらに結願後は長野県にある信州善光寺にお礼参りをするそうです。
やや開けた環境を好み、1羽で行動することが多い野鳥です。オスはこのように鮮やかな色をしています。「バカビタキ」と呼ばれるほど警戒心がなく、こちらを観察しに近寄ってきます。あっちこっちせわしなく場所を変えながらのぞき込んでくるので、案外、写真が撮りにくいです。
40番観自在寺
観自在寺は第一番札所より最も離れていることから四国霊場の裏関所と呼ばれています。「從是伊豫國」(これより伊予国)と刻まれた石碑が建っていました。明治時代のもののようです。さらに東に進むと、38番金剛福寺の石仏があり、少し開けた場所から南方面に瀬戸内海が少し望めました。そこで行き止まりだったので引き返しました。
子安地蔵尊
分岐を右折し、落ち葉道を北東に進みました。橋を渡ってすぐに大きな石仏がありました。よく見ると、左腕に子どもを抱えています。周辺は幅数十cm程の小さなせせらぎが、やさしい音を立てており、癒されます。
台座の石碑には「佛界」という文字が彫られていました。周辺には石段や低い石垣が残っており、かつて小さなお寺があったように思えます。細道を通り竹林を抜けてアスファルト道に出ました。
33番雪蹊寺
雪蹊寺は四国八十八ヶ所霊場のうち2ヶ寺しかない臨済宗妙心寺派の寺院です。また、南学発祥の道場といわれ、江戸初期の住職、天室僧正が朱子学南学派の祖として活躍しました。いったん遍路道から離れて大正池の西側を通るアスファルト道を北上します。
メジロが我々の存在に気が付き、微妙に木の枝や梅の花に隠れながら、吸蜜しているようでした。写真真ん中より上部にかすかに写っています。動画も撮りました。しばらく粘りましたが、これ以上は無理でした。
私有地の中にあるのか、近くに来るにつれ、道がよくわからなくなり、斜面を上がったり、私有地らしき道の中を歩いたりし、やっとのことで見つけました。写真に写っているオブジェが目印です。このすぐ東には土道があり、コンクリート道からアスファルト道に出られました。遍路道に戻りましたが、ここからはいくつか脇道をスルーしてショートカットし、アスファルト道を進みました。
65番三角寺
三角寺は小林一茶が寛政7年(1795年)に訪れたとき、「これでこそ 登りかひあり 山桜」と詠まれただけあって、樹齢300〜400年の桜が爛漫となる名所です。「従是讃岐国」(これより讃岐国)と刻まれた石碑が建っていました。
そろそろ、菜の花が見られるようになりました。特にここは菜の花がたくさん咲いており、梅の花とのコントラストがきれいでした。61番香園寺の石仏から土道を上りましたが、すぐにアスファルト道に合流しました。再び土道に入り西へ向かいます。
59番国分寺
国分寺は天平13年(741年)、聖武天皇の勅願により行基菩薩が本尊の薬師如来像を彫造して安置し、開創したといわれています。その後、藤原純友の乱や源平合戦など相次ぐ罹災で4度消失し、再建されました。
岩場の上は簡単に立つことができ、展望のみならず、隠れた休憩スポットとしても利用できます。ここで行き止まりだったので引き返しました。この西側にある地形図上の破線の道に入りたかったのですが、気づかずスルーしてしまいました。アスファルト道に出てすぐのところでGPSの電池を交換しました。南下し、「右五十三番」の道標石に従って土道に入り、竹林を歩きます。
53番円明寺
円明寺には、アメリカ人巡礼者が発見した四国霊場最古の銅板納札が保存されています。キリシタン禁制の時代、この地方には信者が多くいて、寺では隠れ信者の礼拝を黙認していたようです。
装備
個人装備 |
長袖シャツ
ズボン
靴下(厚手)
防寒具
手袋(防水加工)
軍手
雨具
スパッツ
日よけ帽子とフード
雨用帽子
登山靴(防水加工)
靴ひも予備
サブザック
ザックカバー
地形図
コンパス
ファスナー付クリアーファイル
筆記用具
携帯
時計(防水)
タオル
カメラ
飲料水(スポドリ&茶)
水筒(保温)
非常食(栄養補助食品)
スマホ(山使用可能)
eTrex30(GPSナビゲーター)
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感想
最初にまわった史跡は、猿掛(さるかけ)城跡です。南北朝時代初期に庄資政(しょう すけまさ)によって築かれたといわれています。主要郭だけでも、本丸から六の丸まで、南北延長約200m、東西幅約51m、山頂総面積約1町歩(10,000平方メートル)に及ぶ大きな山城跡です。庄氏は元々、平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国で割拠した武士団の出自でしたが、源平合戦の功により地頭職を得て下向し、資政の時に猿掛城を築き、拠点を移したようです。庄氏はその後も備中松山城(日本最高峰にある天守閣を持つ城で国の重要文化財)の城主も兼ねましたが、戦国時代に三村氏や毛利氏、宇喜多氏などの有力武将の戦禍の歴史に巻き込まれ、猿掛城は毛利氏の手に落ちました。そして、関ヶ原合戦後、毛利氏が防長(周防国と長門国で現在の山口県)に転封(国替)となると、天領(江戸幕府の直轄領)となり、廃城となりました。そんな数奇な運命を辿ってきた猿掛城跡に思いをはせながら、北の旧山陽道から標高243mの猿掛山頂上(本丸)を越え、最南端の堀切まで歩みました。山城はどこもそうですが、本丸は背後から攻めにくい地形になっているのも特徴的でした。幸いそうした危険な上り下りはロープが設置されています。
次に訪れたのは「弥高開拓」と呼ばれたエリアです。標高301.5mの頂上三角点はほとんど目立たない所にあります。この辺り一帯は畜産の場として戦後開拓されたようです。特に養鶏農家が多く、50万羽以上飼育されており、鶏特有の臭いが漂っています。標高250mから300mと高度差はほとんどない山域ですので、楽に山行できます。また、南の道から瀬戸内海まで眺望することができます。
そして、今回、距離が18kmにも及んだ理由の一つが、「弥高山四国88ヶ所霊場」巡りです。岡山県では弘法大師信仰が強いのか、県内63ヵ所に四国88ヶ所霊場があります。その中で倉敷市玉島服部&陶エリア、真備(まび)町妹(せ)エリアにかけての弥高山域一帯に広がるものは「弥高山四国88ヶ所霊場」と呼ばれています。整備されたのは江戸後期とも明治ともいわれており、エリアごとに、讃岐、伊予、阿波、土佐と分かれています。総距離は15.7kmで徒歩だけでも3時間余りかかります。毎年、5、11月には管理をされている住倉学園の巡礼行事が行われます。夏場など、時期によっては道に草や笹が生い茂り方向すら分からなくなるので注意が必要だそうです。さすがに88ヵ所すべては無理でしたが、西側半分を巡ることができました。古い道標石や江戸時代の石仏などいろいろな発見があり、このミニ四国霊場巡りも味わい深いものでした。
そろそろ春の陽気になり、花も多くなっています。梅は見頃を迎えつつあります。道端にはハコベ、ナズナ、ホトケノザ、オオイヌノフグリが咲き、ホオジロやシジュウカラのご機嫌なさえずりが聞こえていました。次回も春を感じられる楽しい山行にしたいと思います。
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