甲信越
萩野城跡(はぎのじょうあと) / 萩野城櫓峯

最終更新:🍣oshuchan
基本情報
標高 | 1176m |
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場所 | 北緯36度38分39秒, 東経138度03分53秒 |
萩野城跡は、七二会知足院の北の山頂にあり、中条臥雲との境にまたがっている。
山頂は、西嶺(標高1176m)と東嶺(標高1184m)に分かれている。西嶺が広く、その山頂を本郭とし、その西を二の郭とする。
本郭は、東西34m・南北17mの楕円形、二の郭は、この城の中心で東西70m・
南北17mの長方形をなす。本郭と二の郭の間には堀切がある。
七二会・中条一帯は、戦国時代まで春日郷といわれ、春日氏が領主だったので、春日氏が築いたとされる。築城年代は、はっきりしないが、永禄2年(1559)に書かれた「臥雲院縁起」によると、寺領の東境は「萩野城櫓岑(やぐらみね)」とあり、戦国時代にはここに櫓が建てられていたと思われる。
この城は、千mを越える高所にあり、県内でもこれに匹敵する山城はあまり見ない。中世の山城を知る上で貴重な史跡である。
(長野市教育委員会 現地の案内板より)
山頂は、西嶺(標高1176m)と東嶺(標高1184m)に分かれている。西嶺が広く、その山頂を本郭とし、その西を二の郭とする。
本郭は、東西34m・南北17mの楕円形、二の郭は、この城の中心で東西70m・
南北17mの長方形をなす。本郭と二の郭の間には堀切がある。
七二会・中条一帯は、戦国時代まで春日郷といわれ、春日氏が領主だったので、春日氏が築いたとされる。築城年代は、はっきりしないが、永禄2年(1559)に書かれた「臥雲院縁起」によると、寺領の東境は「萩野城櫓岑(やぐらみね)」とあり、戦国時代にはここに櫓が建てられていたと思われる。
この城は、千mを越える高所にあり、県内でもこれに匹敵する山城はあまり見ない。中世の山城を知る上で貴重な史跡である。
(長野市教育委員会 現地の案内板より)
山頂 | |
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展望ポイント |
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